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Örlög 第十一話 マロニエの木

イングリドには、主人である王妃テオドラのほかに、もうひとり気にかかっている人がいた。
オフェリア ー 彼女もまた”麦色の髪”を持っている。愛する人を思いながら、毎日をどう過ごしているのか。花や鳥が大好きで、真冬でもない限り、中庭で見かけない日はなかったというのに、ここしばらく、姿を見せていなかった。
庭の外れでは、マロニエが、実を落とし始めていた。大きく枝を広げるその木には、昔、ハムレットやオフェリアが遊んだブランコが、今も残されている。
風が吹くたびに、それはわずかに揺れた。

オフェリアの父親で、侍従長のズェルヴァン・ハルヴェルクは二度、妻を病気で亡くしている。オフェリアは二度目の妻の娘であるが、彼女は母親の顔を覚えていない。また、父は宮廷の仕事に追われ、帰宅したらしたで、自身の書斎に籠もり、本人曰く"研究"に、没頭していた。なので、オフェリアには、家庭の思い出がほとんどなかった。

兄弟は、腹違いの兄が一人。年が離れているし、何かにつけて反抗的な彼は、小さな妹を気にかけることはなく、それなりの齢になってからは、城外で作った群れと遊び歩く始末だった。今もなお ー。

イングリドは、思い切って、城内にあるズェルヴァンの住居に足を運んでみた。当然、父親不在の時間にである。そこは、ホルムが住んでいた騎士館よりもはるかに王たちとの居室に近く、当然、使用人たちとすれ違うことも多い。だからなんだという訳ではないが、小うるさいズェルヴァンのこと、何か嗅ぎつけて、詮索されないとも限らない。イングリドは纏め上げた銀髪をベールで覆い、約束なしで扉をノックした。
出て来たのは、四十くらいのメイドだった。この家は、変わり者の主のせいでよく使用人が変わる。オフェリアの孤独の深さはそんなところからもきていた。
「…どちら様でしょう?」
王妃づきの女官長は、この家のメイドにとっては遠い存在だった。オフェリアはずっと部屋に引きこもっている、とメイドは突然の面会に困惑したが、本人に聞いてもらうと、オフェリアは自室から駆け出して来た。髪はおろしたまま、寝間着にローブを羽織っただけで、素足。子どものように愛らしかった。

「何をして過ごしているの?」
オフェリアの部屋に通されたが、そこには、何もなかった。読みかけの本も、縫いかけの刺繍も。ただーベッドの脇に、あの麦色の房が横たわっていた。イングリドの視線に気づくと、オフェリアは急いでその煌めく房をリネンの小袋にしまった。見た目は愛らしくても、心はもう女なのだと思った。見てはいけなかったような気がした。

「オフェリア、殿下はじき戻られます。それに殿下は今、勉学に励んでおられるのです。あなたも何かなさった方が…。その方が、待ち遠しい日は早くやって来ますよ。」
イングリドは優しく諭した。
「でも…、やりたいことがありません…。本を読んでも言葉が…頭に入りません。気がつくと…、他のものを見つめています。」
「刺繍や編み物は好きでしょう?」
「針が止まってばかりです。」
オフェリアは泣き出さんばかりだった。
「私は…、私は…、とてもあの方の妃になど、なれませんね…。」
「そんなことはありません。ただ…、泣いてばかりではいけませんね。」
「ホルム様も、同じことを…。」
オフェリアはうつむいた。

ホルムがいつ、オフェリアにそんなことを言ったのか、イングリドには分からなかったが、叱られたとかでないことは、その表情を見れば分かる。この城にホルムがいないのは痛手だと、改めて感じた。戦だけが、彼を必要としている訳ではないのに。
とにかく、しばらくオフェリアの話を聞いてやったイングリドは、一つの提案をして、引き上げた。
「テオドラ様の許可が得られたら、声をかけます。いいですね?」

二日後ー
オフェリアに一通のカードが届いた。イングリドからだった。まるで夜会にでも招待するような、エレガントな封に、赤い封印まで施されてあるのは、イングリドの洒落っ気であった。

『本日、礼拝堂の午後の鐘が鳴る頃、暁の塔にてー』

オフェリアは、招待状を受け取ると、ひさしぶりに髪を梳かし、身支度を済ませた。鐘の鳴る少し前には、もう暁の塔に着いていた。
生まれた時からずっと、この城の使用人居住区に住んでいるが、暁の塔に登ったのは、一度切り、幼い頃、勉強を見てくれていたメイドがいたずら心で連れて来てくれた。ただ、そのメイドも、ほどなくして城を去った。

螺旋状の長い石段を、少し息を切らしながら登る。小窓からは、昼の光が塔を突き刺すように水平に差し込んでいた。てっぺんまで上がると、そこには筒状の壁に沿って小部屋が並んでいた。オフェリアは壁に手をついて、石の冷たさとざらつきを確かめながら、『カタン、カタン』という音に誘われていった。
中を覗くと、ひとりの侍女が機織りの台に座って、手を動かしている。名前は知らなかったが、城の庭のあちこちでよく見る顔だった。
侍女は手を止めると、自分を見つめるオフェリアの気配に気づき、笑顔で立ち上がった。
グレーの胴着、長いスカートは真っ白なエプロンに覆われている。髪を纏めた小さなボンネットも真っ白だった。凛と立つその清楚な姿を、オフェリアは、百合の花のようだと思った。
「クラァラと申します。機織りをお教えする役を言い付かっております。」

織物を紡ぎ出す、いかつい木の骨組みは、その小さな部屋のまん真ん中に陣取っていた。使用人の作業場にも同じものはあるが、夜なべ仕事用にこんなところにも設えてあるのだった。
オフェリアは目を輝かせて、機に触れた。練習用の織物はクラァラが途中まで織っているので、とりあえずは手と足を順番に動かす練習だと、クラァラは言った。座板にぎこちなく腰をかけたオフェリアの隣に、クラァラが座り、手を取ってもらいながら、初めての横糸が流される。シュッー、トントン…、カタン。
繰り返すうち、オフェリアの顔に、かすかな笑みが戻ってきた。

毎日、午後の数時間、二人は機織りを通じて、心を通い合わせていった。クラァラはどんな時でも穏やかだった。オフェリアが縦糸をかけ間違っても、糸を絡めてしまっても。
「私も昔はそうでした。無事、織り上げるまで、何度、失敗したことか。でも、この仕事が好きで、今度こそ…と思いながら続けました。オフェリア様はむしろお上手ですよ。」
クラァラは、機織り機を愛おしそうに撫でながら言った。
「織物って、素晴らしいと思うんです。私の織った物で誰かが着飾ったり、…誰かが寒さを凌いだり、…それに、誰かの身を守ったり…」
「誰かの?」
「ええ、誰かの…」

ひと月も過ぎると、オフェリアは器用に手を動かせるようになり、簡単な柄なら、時間はかかっても仕上げられそうなところまでになった。

ある日、オフェリアが住まいに戻ってから、髪に刺した櫛がないことに気づいた。一瞬、息が止まった。16の誕生日にハムレットにもらったものだった。
「落としたとしても、ここから暁の塔まで…、それか暁の塔の中…」
呪文のように繰り返し、気を落ち着かせた。自分が通った道を、隅々まで見ながら歩いたが、とうとう機織りの部屋まで戻って来てしまった。ハムレットがくれた花櫛は見つからなかった。オフェリアはため息をつき、その場に座り込んだ。
大事な櫛なのにー泣きたくなるのを我慢していると、部屋の隅に置いてある木箱に目が止まった。蓋からは、織地がはみ出していた。勝手に開けては…と、少しためらったが、惹かれるように蓋に手を伸ばした。

端切れ状になったその生地は、深い緑に黒い糸で格子柄が施されていた。厚手のしっかりとした手触り、柄の簡潔さと色の沈み具合、男物である。この生地をオフェリアはどこかで見た覚えがあるのだが、思い出せなかった。
そして端切れの山をどけると、余り糸も糸巻きごと詰められていて、折りたたんだ紙が出て来た。広げると、そこには戦いの身なりの男性、たぶん、胴着の図案と思われた。
『誰かの身を守ったり…』
クラァラの言葉が甦った。クラァラはここでこの胴着の生地を織ったのだろうか?それは誰の物になったのだろう、そして、その方はご無事なのだろうか?
オフェリアはしばらくその織地を眺めていた。

翌日、オフェリアが時間どおりにまた部屋にやって来ると、クラァラはいたずらっぽい笑みを浮かべて、オフェリアに言った。
「お嬢さん、何か失くし物はないですか?」
「えっ?櫛を…、大事な櫛が…」
クラァラはにっこり笑った。
「綺麗な花櫛が、塔を出たところに落ちておりました。お気をつけてくださいまし。」
「ありがとう!もう見つからないと思ったわ!」オフェリアはクラァラに飛びついた。

クラァラは懐の巾着から、オフェリアの花櫛を取り出すと、櫛をエプロンでひと撫でし、儀式のように元の場所に刺してやった。
オフェリアは何度も『ありがとう』を繰り返していたが、ふと花櫛が入っていたクラァラの巾着に目が止まった。
沈むような深い緑ーそれは、昨日見た男物の織物で出来ていた。


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