Örlög 第十話 湖面のきらめき
「手紙…、ハルドレクからですね!」
テオドラは、急いで封を切り、手紙に目を走らせた。イングリドもすぐさま気を取り直し、明るい声で、「まあ、殿下はお元気なのでしょうね!」と王妃に微笑みかけた。
だが、テオドラは最後まで読むと、溜息混じりに言った。
「まあ、元気そうですが…、」
静かに手紙を封に戻す。少し寂しそうな表情だった。
「ほんの儀礼的な便りです。兄上にはよくしていただいているようですが…」
その時、空の盃を弄んでいたトルヴァルドが言った。
「そなた、先ほど、なんと申した?」
表情が凍りついたのは、イングリドの方であった。
「元気そうだと…」
テオドラは答える。
「…その前だ。手紙を受け取る時、そなたはなんと申した?」
トルヴァルドは今度は真っ直ぐにテオドラを見ていた。テオドラは、顔色ひとつ変えず、少し小首を傾げてこう言った。
「私、なんと申しましたかしら?」
少しの間、沈黙が続いた。
テオドラの胸元の宝石は、湖面の水のような光を放っていた。
「もう、よい…」
トルヴァルドは席を立った。
こうして夫婦の晩餐は、あっさりと幕を下ろした。
「なぜ、あのような言い間違いを…」
テオドラの居室に戻ると、イングリドは我慢できずに尋ねた。
「間違いではありません。」
テオドラは髪を下ろし、ネックレスを外しながら言った。
「間違いですが…、私にとっては、間違いではありません。」
「ハムレット様は、ハルドレク様だとでも?」
訝しげに尋ねるイングリドであったが、その問いには答えがなかった。
「そのような御品を身につけておられるのも、よくはございませんでしたね。」
イングリドの視線は、無造作に置かれたネックレスに走った。
「ご婚約の時にいただいた御品ですよね、ハルドレク様から…」
「よく覚えているわね、さすがですよ、イングリド!」
テオドラは声高らかに言った。
「この青灰色のドレスによく似合っていたでしょう?」
この出来事は、ヴィグボルグ城の夫婦の間に決定的な亀裂をもたらした。夫は妻に何の釈明も求めなかったし、妻は気に留めることすらしなかった。
また、この夜届いた彼らの息子の手紙は、奇妙な一文で〆られていたのだが、母はその意味を深く受け止めていなかった。
『敬愛なる母上へ
Der Namenlose ハムレット』
手紙が届く二週間ほど前のこと。
ハンブルクのハムレットは、伯父の家で居心地よく暮らしていた。何せ、一国の王位継承者である。甥とは云え、最上級のもてなしとなるのももっともである。
この家の主は、伯父のアルスター公爵夫妻とハムレットの祖母に当たるゲルトルード・エルベンシュタイン。広大な屋敷は、北の国とは違った明るさに溢れていた。広々とした低地のため、空が広い。岩場が多く小高い丘が続くヴィグボルグ城は風に支配されていたが、ここではそよ風が頬を撫でる。鬱蒼とした森はなく、屋敷の遠く向こうまで並木道が続いていた。
勉学の方はというと、見聞は驚くほど広がった。なんと言ってもこの国はすでに水を制し、導いた国である。ボローニャですら、実際に目にすることができず、本の上だけであった施設が、この国にはすでに存在していた。
あれほど、オフェリアと離れるのを渋って、反抗的であったハムレットだったが、素晴らしい土木技術を目の当たりにし、興奮して、屋敷に戻って来ては、見聞きしたことを話さずにはいられなかった。聞き役は、大抵、祖母ゲルトルードであった。この祖母の顔には、テオドラと同じ美しさが残っている。しかし、優しさにかけてはテオドラ以上であった。
「この国は素晴らしい!」
食事の手も止まり、喋り続けるハムレットに、ゲルトルードは目を細め、こう言った。
「その素晴らしい国は、あなたの半分ですよ。あなたの祖国はデンマークだけではありません。」ハムレットの表情は一段と明るくなった。
「確かに。私が水利に興味を惹かれるのは、血がそうさせるからかもしれません
ーDas liegt mir im Blut.」
血のなせる技ーハムレットは、その言葉を正確にドイツ語で表現してみせた。
「金曜日は、ゼーローエに参ります。著名な先生のお話をお聞き出来るので。」
「まあ、ゼーローエにですか?司教区のゼーシュティフトと呼ばれる館には、あなたの曾祖母様がおいでですよ。もう80歳を過ぎておられますが。」
ゲルトルードの亡くなった夫、前公爵の母君である。
「本当ですか?それは是非、お目にかかりたいな!」
ハムレットは、すっかり母の血筋に馴染んだようだった。ヴィグボルグ城よりも、この屋敷にいる方が快活でいられた。祖母も伯父夫婦も、爵位に似合わず、気さくで陽気な人柄であった。
「そうですね、ただ、お加減がどうでしょう…。何せ…、お年を召していらっしゃるから…」
ゲルトルードは賛成ではないようだった。だが、ハムレットは自分のルーツに、並々ならぬ愛着を抱いていた。
「曾祖母様に、ご訪問のお許しをいただけますでしょうか?」
その日、教授の教えを受けたハムレットは、曾祖母の住まう屋敷へと向かった。そこは名前のとおり湖に近く、木立に囲まれ、周辺の人も少ないひっそりとした邸宅であった。
玄関に迎えに出た執事と侍女が、ハムレットを歓迎した。
「殿下にお見えいただくというのに、これといったご用意も出来ず、申し訳ございません。」
館の女主、エレオノーレ・エルベンシュタインの居室に向かう廊下で、執事は頭を下げた。初老の紳士であった。エレオノーレの一切の面倒を、エルヴェンシュタイン家から任されている。
「よしてください。私は今日は曾孫として、曾祖母様にお目にかかるのです。」
執事は、その言葉に微笑んだ。そして言い含めるように言った。
「ただ、奥様はご高齢です。どこまで、殿下のことがお分かりになるかわかりませんし、殿下にはご理解いただけないことを申し上げるかもしれません。」
「気にせずともよい。ご高齢の方にはよくあること…」
二人はまっすぐ廊下を進んだ。
ゼーシュティフト邸は簡素ではあるが、さりげない美しさを持つ屋敷である。廊下の連なる窓からは延々、横たわる湖を見渡すこともできたが、少々、古くなっているのであろう、歩みに合わせて幾度か床板がピシリと鳴った。
ハムレットは、エレオノーレの部屋の前に着くと、上着の襟を正し、扉が開くのを待った。
部屋の中は薄暗かった。わずかに日の入る窓際の椅子に座っているのが、たぶん、その人であった。
真っ白な髪を束ね、黒いレースのショールに包まれている。脇机に供えられている十字架の置物が目立った。
ハムレットが通され入っていっても、彼女は窓の外を見た切りで、なかなか顔を向けなかった。
侍女が耳元で、
「奥様、ハムレット殿下のご到着でございます。」と言うと、ようやくゆっくりと顔を向けた。
大きな目であった。顔は掌くらいの大きさに萎んでいたが、目だけは大きく見開かれていた。そして、ハムレットの顔に焦点が合うと、さらにその目は大きくなった。
「…ハルドレク…ハルドレク様!」
エレオノーレはしゃがれた声で、ハムレットをそう呼んだ。しかも、肘掛けに手を付き、立ち上がろうとさえしたので、侍女はそれを制した。
『ご高齢ゆえ』ー祖母や執事の言うとおりなのだと思った。
ハムレットは”ハルドレク”と呼ばれたことを否定も肯定もせず、エレオノーレの前にひざまずき、静かに言った。
「曾祖母様にお目にかかれて光栄です。あなたの曾孫でございます。テオドラの息子にございます。」
エレオノーレは瞬きもせず、ハムレットの顔を見つめた。そして小首を傾げると、またハッとしたように目を輝かせて、声を上げた。
「…ああ、ああ…、やはり、ハルドレク様!…お戻りになられたのですね?」
エレオノーレは涙を浮かべた。そして、ハムレットの手を取った。体温はほとんど感じられない、ひんやりとした小さな手だった。
「…テオドラは、あの子は…どれほどあなたを待ったことか…もうどこへも行かないでくださいましね?よかった…本当によかった…」
「…分かりました。ご安心ください。私はどこにも参りません。」
何のことやら、訳が分からなかったが、ハムレットは曾祖母を喜ばせ、安心させるために、とにかくその冷たい手をしっかりと握り返した。
エレオノーレは涙を流していた。
執事がそっと近づいて来て、ハムレットの耳元で囁いた。
「殿下、ここまでに致しましょう。」
訪問はごく短い時間で終わった。
八十年以上に及ぶエレオノーレの人生において、この数分の出会いが最後にどれほどの意味をもたらしたのか、ハムレットは知る由もなかった。
アルスター公爵邸に戻ったハムレットは、そのまま自室に戻り、悶々と一夜を過ごした。
ゼーシュティフトの執事に、ハルドレクとは誰なのか尋ねたが、とうとう答えはなかった。他愛のない勘違いなら、それはそれで答えようがあるはず、だがこの実直な執事は押し黙るばかりであった。
『…ハルドレク・ヴァルン』
ひとつの名前が、暗闇の中で何度も彼の脳裏に浮かんだ。父トルヴァルド・スカルヴィークに王位を簒奪された、デンマークの前国王である。
ヴィグボルグ城では、彼の名が口に出されることは皆無であった。
だが、その名前とクーデターのこと、そしていつ頃、王位がトルヴァルドに移ったのかくらいは、ハムレットでも知っていた。長らく分からなかったのは、クーデターの理由であった。
しかも、もし曾祖母の言う"ハルドレク"がハルドレク・ヴァルンなら、母テオドラはなぜ、ずっと彼を待っていたのか?
想像は想像を呼び、ベッドに横たわるハムレットの胸は暗闇の中で締め付けられていた。
翌朝、ハムレットは、テラスでひとり食事を取る祖母を目ざとく見つけ、声をかけた。昨夜はほとんど眠れぬままに過ごしたが、そんな様子は微塵も見せなかった。
「まあ、殿下。昨日はいかがでした?お話を聞きたくて、お帰りをお待ちしてましたのよ。」
そう言いながら、ゲルトルードは、侍女にハムレットのカップを用意させた。
「エレオノーレ様、ご様子はいかがでした?」「ええ、とてもお元気でした。長い時間、お話させていただいて、それで帰りが遅くなりました。」ゲルトルードはカップを持つ手が止まり、怪訝そうな表情を浮かべた。
「…そうですの?…それはそれは…」
「いろいろな話をお聞かせくださいました。特に、我が国の…ノルウェーとの戦のことなど。」ハムレットは、お茶と一緒に出されたパンを手に取り、淡々と述べた。チラと見ると、祖母の顔には笑みがなかった。
ハムレットは祖母を真っ直ぐに見つめ、こう聞いた。
「そんなに私は、ハルドレク・ヴァルンに似ていますか?」
