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Örlög 第三十七話 故郷の残り火

「クラァラによろしく言ってよ。」
出立の準備をするエイリクに、イングリドがそう言うのは、三回目だった。
「レイフを頼みます。」
その度に、エイリクはそう返した。
ハムレットを「レイフ」と呼ぶことにも、二人はすっかり慣れていた。
エイリクは、城下街外港のリスベリ商館を訪ねるのだった。生活費の工面として、サファイアの石を一つだけ売る。ヨアン・リスベリに手紙を書いて、段取りしてくれたのは、イングリドだった。コペンハーゲンにいる彼も、外港まで来てくれる約束になっている。
途中、エイリクは教会施設に寄って、クラァラとアストリッドの様子も見て来ることにしていた。「街なかは危険ですから、あまり目立たないようになさって…」
王宮の匂いがするようなマントは人目を引く。「ダガー(飾りつき短剣)も、目立ちますよ。」「そんなものは、もう持ち合わせておらん。」
エイリクは、ぶっきらぼうに答えた。売れる物はとっくに売り払っていたのだ。
実は、トルデンも、もうここにはいなかった。山里でトルデンのような軍馬は人目を引く。
ヴァルミル村へ来る時に、トルデンはラウリッツ神父に預けられ、今は商人の家で大切にされている。
エイリクは、代わりに、暮らしに使う馬を手に入れた。そして、その馬にリュースと名付けた。ここでは、稲妻(トルデン)ではなく、家族を照らす光(リュース)が必要だったのだ。

「では、行ってくる。」
そう言って、馬を進めたエイリクをイングリドは見送った。
暁の塔の前からベルギーに旅立った彼と、少しも変わってはいない、イングリドはそう思っていた。

ヴァルミル村から、クラァラたちがいる教会施設までは、リュースの足でも二時間はかからない。秋も深まって、かなり冷えて来たことを除けば、牧草地や白樺林を抜けていく道のりは、のんびりと楽しいものでもあった。

エイリクは、ベルギーへ旅立つ朝、クラァラから縫い上げた胴着を受け取った。今日も、それを身に着けていた。
だが、まともに言葉を交わしたのは二度だけだった。
一度目は、ベルギーから戻った直後。テオドラから産後の彼女の身を預かり、教会施設へ送り届けた時。
二度目は、アストリッドを預かり、彼女のもとへ連れて行った時である。


あの日、ベルギーから戻ったホルム卿は、王室への反旗が翻る市中を目にした。そして、その酷い喧伝に怒りを抑えきれぬまま、ヴィグボルグ城へと向かった。
門兵は、ホルム卿の突然のご帰還に驚き、喜び、門衛長のもとへと駆け込んだ。そして、近衛隊長、侍従長と、伝令はあっという間にテオドラのもとへ飛んだのである。
だが、謁見の間で久方ぶりに対面したテオドラの顔には、怒りがあらわだった。
記憶にあるあの美しい顔から、少し面立ちが変わったように思えた。トルヴァルド公の死後の苦労が、手に取るように伝わって来た。
「お久しぶりでございます。」
深々と頭を下げるホルムに、テオドラは涙を浮かべて言った。
「なぜ、もっと早く、戻って来てくれなかったのですか?トルヴァルド公が亡くなってすぐに…あんな短い便りだけで...」

ひとしきり、八つ当たりにも近い態度で、不忠義者扱いをされ続けたホルムだったが、言い訳の一つも言わない彼の態度に、テオドラも落ち着きをみせた。
そして、今のヴィグボルグ城の有り様を語った。「もう、ここはあなたの知っているヴィグボルグ城ではありません。多くの家臣たちが離れていきました。特に近衛たちなど…。トルヴァルド公に命を捧げるつもりでいた者たちでしたから…、一人、また一人と去っていきました。」
確かに、城の警護は手薄過ぎた。こんな状態で、暴徒が押し寄せたら…、とホルムも不安に思っていた。
「あなたには、いろいろと話さないといけません…、本当にたくさん…。でも、まず、急いでお願いしたいのは、侍女を一人、ある場所まで送り届けて欲しいのです。その侍女は、先月、子を産み落としました。…ハムレットの…、娘です。」
「ハムレット陛下に、お子が?」
ホルムは意外な気がした。
オフェリアの悲しい事故のことは聞いていたし、権力者が奉公人に手をつけることなど、珍しくはないが、ハムレットの気性にそぐわないように思えた。
「今、お子はどちらに?」
「この城におります。母親だけ、連れて行ってやってください。」
「乳飲み子を、母親から引き離すのですか?」
ホルムは、珍しく声を荒げた。
「所詮、侍女は産まれた姫の“母“では、ないのです。」
テオドラは、諭すように言った。
「長く一緒にいれば、辛くなるだけ。側にいれば、乳をやりたくもなるでしょう…。それに、この城は…、もう長くないかもしれません。そこに、その侍女を巻き込みたくないのです。」

翌日、ホルムは暁の塔に、侍女を迎えに行った。出産からまだ十日ほどしか経っていないと聞いている。男ばかりの強行軍を得意とする彼には、初めての任務だった。
塔の入り口に彼女は腰掛けていた。その小さな鞄が、ヴィグボルグで勤めたすべてなのだろうかと思うほど、小さな鞄だった。侍女は大きなストールに包まり、鞄に腰掛けて、俯いていた。
ホルムの足音が近づいても、顔を上げなかった。「待たせたな…。参ろうか?」
そう声をかけると、侍女はゆっくりと顔を上げた。
ホルムは、ハッとして、息を呑んだ。
ベルギーに出立する朝、縫い上げた胴着を持って、見送りに来てくれた侍女だった。テオドラやイングリドが立ち去った後も、ずっと自分を見ていてくれた、あの美しい女だった。その時、思わず、手綱を引き、馬を止めそうになったことも覚えている。
「…そなたであったか…」
ホルムは、絞り出すように言った。
クラァラは、たぶん、彼が付き添ってくれると知って待っていたのだろう、ホルムの顔を見ても驚かず、彼があの胴着を着ていることに動揺しているようだった。
「あの時の胴着だ、…着心地がよくて、重宝している…」
ホルムは、優しく言ってみせたが、クラァラに笑顔は浮かばなかった。

―忘れていてくれれば、よかったのに―
クラァラは、そう思っていたのだ。顔を見ても、覚えていない、渡した胴着もどうなったか分からない、そうであれば、諦めがつく。ずっと待っていたのに、待つことを止めてしまったことを、後悔しないで済む。そう思っていた。

「すみません。よろしくお願いします。」
クラァラは立ち上がって、鞄に手をかけたが、ホルムがさっと持ち上げ、左手を彼女の肩に添えた。
その瞬間、クラァラの表情が哀しく歪んだ。

クラァラを馬車に乗せると、ホルムは静かに馬を進めた。産後、日の浅いクラァラの身体を思い、少しでも馬が勢いづくと、ホルムの手綱を握る手に力が入った。
クラァラはストールに包まったまま、身を横たえていたが、たまたま馬車を止めた時、すすり泣く声が聞こえてきた。子を思って泣いているのだろう、ホルムはそう思った。

森の中を半分以上、進みかけた頃であった。ホルムがあれほど気をつけていたにも関わらず、馬車は大きく揺れ、つられるように馬が大きくわなないた。
クラァラも起き上がって、幌の中から顔を覗かせる。
「車輪だな…。外れてはいないが緩んでる!」
ホルムの声だけが、クラァラに届いた。
「大丈夫、すぐ直せる。それより疲れたであろう。日のあるうちに少し休もう。」
クラァラは静かに頷いた。

長く戦を乗り越えてきた男は、野宿の経験も多い。
森の中は、日が翳っただけで、すぐ冷えてくる。ホルムは、手伝おうとするクラァラを手で制しながら、木々を拾い集め、手際よく火を起こした。そして、自分のマントを広げ、躊躇うクラァラを座らせた。馬車には、少しばかりの飲み物とパンが積んであった。
焚き火の火はほどよく暖かく、パンと飲み物は充分なご馳走になった。

「本当にこれでよいのか?」
ホルムは枝を折り、火に投げ入れながら尋ねた。パチパチと勢いを増す炎がクラァラの顔を紅く染めた。
「テオドラ様は、私の母様です。母様のお決めになったことを、私は信じます。」
焚き火を通して見るクラァラの眼差し。カップを握りしめた手は細く華奢だった。
『なんと強く、神々しい』
ホルムは言葉を失った。『聖母』を見た思いだった。二人はしばし炎を眺めていた。
「そなたは幼い頃に、テオドラ様に引き取られたのだったな。」
「はい。路頭に迷う私をお助けくださいました。ほんの偶然でございましたのに。」
「さようか。家族はおらぬのか?」
「おりません。母ひとり子ひとりの身の上で、母を亡くしましたので…。あの時の戦いで…。」
それを聞いて、ホルムの顔は歪んだ。彼はこの戦いで、剣を振り上げた側の人間だった。
「苦労してきたのだな。」
「いえ、テオドラ様のお陰で、勉強もさせていただきましたし、手仕事も…、なので、織物は得意でございます。」
クラァラは言った。
つい先ほどまで、すすり泣き、笑顔もなかった彼女だが、炎の暖かさが、心を解したようだった。火は人を惹きつける、二人の距離が少し近づいた瞬間だった。
「…ホルム様は、ご家族は?」
遠慮がちに尋ねたクラァラに、ホルムは小さく笑った。
「戦に明け暮れ、家族を作る暇などはなかった。剣のことばかり考えておってな。」
「ベルギーでもですか?」
「ああ、縁はなかったな。」
クラァラは、もうそれ以上は尋ねなかった。

それにしても、とホルムは思った。孤児の彼女に身寄りはない。王妃に拾われた恩義を、精一杯、働いて返した。きっと、十分に返しただろう。なのに、こうして王権が倒れかけ、また彼女は一人になる。あの小さな鞄一つで。
だが王太后は、クラァラを追い出したのではない、逃がしたのだ。
ホルムの頭に、ヴィグボルグの中庭で、黙々と草花を詰み、籠に入れる女の姿が浮かび上がった。白いボンネットをつけ、薬草の知識があるのか、真剣な眼差しで葉を摘み取る横顔は凛としていた。
あれはきっと、クラァラだったと思った。
彼女も自分も、ヴィグボルグというかけがえのない故郷を失おうとしている、そう思った。

「これから行く教会施設なら安心だ。しばらく身体を休めたら、そなたのことだ、しっかり働くこともできよう。そなたの“母様”がそなたを思って、お決めくだされたところだしな。」
ホルムの言葉に、クラァラはまた笑顔を取り戻した。その優しい笑顔をいつまでも眺めていたいと、ホルムは思ったが、火に焚べる木々も尽きていた。
「少ししたら、様子を見に参る。……テオドラ様が心配なさるからな…。」
「本当ですか?…私などのために?ホルム様が?」
驚いた目で、クラァラはホルムをじっと見つめた。ホルムは困ったように視線をそらすと、持っていた最後の枝を炎に焚べた。
「ベルギーにいる間、ずっと”これ“に守られてきたからな…。そのお返しだ。」
立ち上がると、ホルムはそう言って、クラァラが縫った胴着を誇らしげに撫でた。
「車輪を締めて来る。済んだら、出発だ。」
クラァラはホルムを見上げて、花のような笑顔をみせた。





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