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Örlög 第五話 封蝋の刻印

王が去り、一人になったテオドラは、いつまでも盃を握りしめていた。
晩餐の夜、すっかり大人の男に成長し、北の国の男に生き写しのハムレットが、あの髪色で、王トルヴァルド・スカルヴィークを激しく困惑させている。「一矢報いた」、彼女はそう思っていた。
だが、初めて自分に向けられた、王のあの鋭い眼差し。力でこの国を乗っ取った男の目。
自分を貫くだけでは済まぬかも知れぬーそう考えると、途端に呼吸が出来なくなった。部屋の中のありとあらゆるものが、息を殺して彼女を見守っているようだった。蝋燭の炎は揺らめき、手の中の盃は、また色を変えた。

翌日、Hesteklapperことホルム卿はめずらしく主塔の最上階を、西へ向かっていた。
厩舎の臭いを持ち込まぬよう、靴を履き替え、ベストを着込み、膝丈のコートを羽織っていた。
このような姿のホルム卿は、長身で見映えがする。すれ違った侍女たちの中には、ため息を漏らす者まであった。
だが、ホルムはそんなことには気づきもせず、大股で進み、あっという間に、私室の扉の前にやって来た。
昨夜、王が忍んで来た部屋の隣、西の女神との謁見の間である。
『ホルムでございます!』
その声に静かに扉が開いた。

まず顔を覗かせたのは、女官長であった。ハムレットの元乳母イングリド・ソルヴェイグ、ホルムとも旧知の中である。
「これはこれは、ホルム殿!」
女官長は、奥に聞こえるよう、声を張ってそう言うと、続けて小声で言った。
「見違えますよ、”馬撫で"。あともう少し、御髪を整えれば、言うことはありません。」
彼女は、親しみの笑みを浮かべる。
「光栄でございます、女官長殿。」
ホルムは手櫛で前髪を整え、胸に手を当て、会釈した。

奥に通されたホルムが見たのは、ソファーに深く身を沈めた王妃の横顔であった。いつもの凛とした威厳は影を潜め、弱々しい一人の女が爪を噛んでいた。
「陛下…、私めに何か?」
「…、掛けなさい。」
王妃は静かに言った。
「そなたは、ハムレットに会いましたね?」
「はい。私のもとへも足をお運びくださり。」
王妃はようやく笑みを浮かべた。彼女とホルムは同じくらいの歳であったが、彼女には不思議なあどけなさがあった。
「あの子をどのように感じました?」
「ううん…。」
すぐには答えないホルムに王妃は促すように言った。
「あなたはあの子の師匠だから、よくお分かりになると思いますの。」
「…とてもたくましく、快活になられました。お小さい頃は、少し気…、お考えになり過ぎるところがおありでしたが…。」
「気難しい子でしたよね。」
ホルムが避けた言葉を、王妃はあえて選んだ。
「学問とボローニャの街が、殿下を変えたのでございましょう。」
「ええ、確かに。それはよいことなのですが…。」
「何か気がかりでも?」

その時、扉が控え目に開いた。
小間使いが盆を捧げて入って来た。ハーブ湯だった。
「お熱いので、お気をつけください。」
小間使いはひと言添えると、手早く盆を引き、
頭を垂れた。大事な話を聞き過ぎないための、配慮であった。
ホルムが会釈を返そうとした時には、小間使いは顔を伏せ、ほとんど横顔であったが、どこかで見たような…、そんな気を起こさせた。
王妃が、その飲み物を口に含む。それを確かめて、ホルムも口をつける。
淡く柔らかい香りが、二人の息を整えた。

「ハムレットは、この国を継ぐ者です。」
「如何にも。」
ホルムは重みを込めて答えた。
「ですが…、どうでしょう、今のあの子には浮ついたところがあるように思います。」
「熱心に学んで来られたようですが…」
「ええ…。でもそれもすぐに忘れてしまうのでは…、いえ、もう忘れているかも知れません。」
「まだ数日のこと…」
そう言いかけたホルムの脳裏に、ハムレットとの先日のやりとりが甦った。
「あの子の頭の中は、オフェリアでいっぱいです。」
確かに…否定はできなかった。
「殿下はお若い。それも致し方ござらぬのでは?あの年頃に多い病にございます。」
「それでは困るのです。」
王妃の声は低かった。
「あの子は、この国の王になるのですから。」
「焦らずとも。まだ先のことにてございます。」
ホルムの言葉に、王妃の表情が曇る。もう答えは決まっているようだった。
「しかし、まあ、確かに…。若いからこそやっておかねばならないことがありましょうな。」
顎髭に触れながら、ようやくそう続けた。確かに彼もその歳の頃には剣術一筋であった。ーただ如何せん、度が過ぎてはいたが。
王妃は、窓の外に視線を向けた。
「で、私、考えましたの。私の祖国で、ハムレットに学問を続けさせようかと。」
「…南の国でございますか。」

王妃テオドラの祖国は、ボローニャのような遠すぎる国ではない。国境を隔てた南側の国、大河を抱き、水を導き、それを道に変えた国であった。

「ホルム殿、そなたに一つお願いがあります。」
「どのような?」
「ハムレットと一緒に、あちらに行ってはくださらぬか。国王には私から願い出ます。」
ホルムは返答に詰まった。王妃の意図するところが分からないだけではなく、ホルムの方にも思うところがあったからだ。
「殿下がご心配なのでしょうか?」
「ええ…まあ。」
「それでしたら、杞憂でございましょう。殿下は、ボローニャでたくさんの経験を積まれました、私など、おらずとも…。それに…。」
言葉を選ぶかのようなホルムの目を、王妃が覗き込んだ。
「…私も長い旅に出ようかと。」

ホルムは、深々と頭を下げ、西の間を後にした。
テオドラは、ホルムの決断を否みもせず、肯じもしなかった。ホルムに真意をーハムレットの側にいて欲しい本当の理由を、はっきり告げられたなら、彼の決心を変えられたかもしれない。
だが、それは出来ぬことであった。
『だとしても…。』

彼女は、寝室に戻ると、小机に向かった。
彼女の兄、エルベンシュタイン家の当主に宛てた手紙をしたためるために。
『兄上、お願いがございます。』
テオドラは可愛い妹として、迷うことなく、筆を走らせた。
だが、王家の紋章入りの便箋、受け取った兄が断れるはずはないーそれも、彼女は知っている。
『私の息子、この国の次の国王たるハムレットを、兄上のもとで…』

書き上げた便箋を封に収める。蝋を溶かし、封に落とす。血のように赤い蝋に、王妃のリングは、しっかりと、ゆっくりと押し付けられた。
そして、指輪を離すと、そこには運命の始まりを示す"刻印”が浮き上がった。

一方、もう一人の運命の担い手、ホルム卿は、主塔を辞したその足で、マティアス・レンホルトの舘を訪れた。
「いかがなされましたか、ホルム様。」
ホルムの不意の訪問に、マティアスは目を丸くしたが、すぐに人懐っこい、いつもの笑顔でホルムを招き入れた。そんなには広くない邸宅である。使用人もひとりかふたりであった。
夫の声を聞きつけた奥方が、居間から出て来た。
「まあ、ホルム様!ようこそお越しくださいました。」
にこやかな奥方は大きなお腹に右手を当てている。
もう産み月のはずだった。

居間に入ると、そこには、ほどなく生まれる子のための寝台がしつらえてあった。
オークで出来た揺りかご。持ち手には、同じ木で削られたクルスが結わえられてあった。
子を思う優しさに溢れていた。

「主人が作りました。」
奥方は恥じらいながらも誇らしげに言った。
「その方、このような腕もあるのか!」
ホルムは、美しく磨き上がったその寝台に思わず、手を伸ばした。

マティアスは、ホルムより十ほど若い。稀に見る剣捌きの達人で、ホルムの盟友である。
幾度か、馬上試合でも勝利を収め、賞金を稼いでいる。だが、その腕前が、今、彼を家族から引き離そうとしていた。

蜂蜜酒が振る舞われ、二人は剣の話に夢中になった。そして、いつものことであるが、マティアスは、ホルムに戦の話をねだった。
剣の捌きは互角でも、若いマティアスには実戦経験が乏しかった。
奥方は縫い物をしながら、男たちが子どものようにはしゃぐ姿を静かに見守っていた。
暖かい時間が過ぎていった。

ホルムの武勲談が落ち着き、蜂蜜酒も飲み干した頃、ホルムはようやく、訪ねて来た用件を切り出した。
「その方に頼みがある。…例のベルギー行きだが、ワシに譲ってはもらえまいか?」
マティアスは剣術の指南役として、単身でベルギーに渡ることが決まっていた。二国の同盟にもとづく、親善の証であった。
「私の代わりにホルム様が?」
驚くマティアスに、ホルムは言った。
「ワシでは力不足であろうか?」
「まさか!ホルム様の方が、彼の国でも歓迎でございましょう。ですが、称号までお持ちのホルム様がそのような…」
奥方も驚いて、じっとホルムの顔を見ている。針と糸は膝の上に落ちていた。
「そこなのだ。」
ホルムは顎髭をいじった。
「ワシには宮廷の仕事が苦痛でならぬ。ままごとのような伝達と伝令の繰り返しなど、ズェルヴァンにやらせておけばよい。それよりも、やはりワシは剣で役に立ちたいのだ。」
マティアスは黙ってうつむいた。ホルムの言葉に嘘はなかろう。一日の大半を厩舎で馬と過ごしているのは、城の者は皆、知っている。城門の番兵までもが、ホルムのことを『馬撫で』と影で呼んでいた。
だがーそれだけではないのだ。
この話が決まった時、すでに夫婦は子を授かっていた。騎士道に生きる者の言うことではないと、分かってはいたが、三年もの間、妻と幼子を置いて異国に行くのは気が進まぬと、彼はホルムに溢したのだった。
「しかし、陛下がお許しには…。」
「ホルムのたっての願いとして、お聞き届けいただく。」
ホルムは重ねて言った。
「ワシが行きたいのだ。」
視界の隅で、奥方が目頭を押さえていた。

用件は済んだとばかりに、ホルムはご馳走になった礼を言い、玄関へと向かった。マティアスはホルムの後を追ってきた。
「有り難うございます…。」
ホルムは繰り返した。
「ワシが行きたいのだ。」
そして、静かに笑みを浮かべた。
「大事にしてやれ。」


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