Örlög 第三話 麦色の髪の亡霊
結局、ハムレットが父母のもとに姿を見せたのは、晩餐の時刻を少し過ぎてからだった。
『若君、ご帰還』の知らせは、侍従を通じて、重臣へ、女官長へ、そして王や王妃、またそれとは別のルートで料理長へももたらされた。
待つまでもなく命は飛ぶ。
『殿下のお好きな鹿肉を!』
『誰か、ワイン蔵へ参れ!』
しかし、晩餐の時刻になっても、ハムレットはまだ広間に姿を現さなかった。と云うのも、彼はエイリクと別れたその足で、オフェリアの居室に忍び込み、再び、愛を語らっていたからだ。
「そなたのためにひとつ」、「この国のためにひとつ」、そして最後には「エイリクの愛馬のためにひとつ」と思う存分、誓いの口づけをした後、さすがに大急ぎで広間へと向かった。
「国王陛下はすでにご着席です!」
侍従の叫び声とともに、広間の扉が開かれた。
豪華な食事が並ぶテーブルの奥に、王と王妃が座っている。父王はすでに盃を手にしていた。
王子は迷うことなく、まっすぐ王のもとへ歩み出て、膝をつき、頭を垂れた。
「父上、遅くなりました。無事、戻って参りました。」
しかし、父母からは言葉は返ってこなかった。『遅れたことを怒っておいでか?』
ハムレットが恐る恐る顔を上げると、目に入ったのは、怒りの表情ではなくーそれは明らかに “困惑”であった。
しばしの沈黙の後、王子は問いかけた。
「いかがなさいましたか、まるで亡霊を見るような顔をなされて!ハムレットはこうして生きて帰りました!」
まず母が、目が覚めたようにハッとして、こう言った。
「お帰りなさい…亡霊などと…とんでもない。こちらへ来て、顔を…よく見せて下さい…」
「行ってやれ。」
父がぎこちない笑顔で促した。
「母上、お変わりなく、今宵も実にお美しい。」ハムレットは母にも深々とお辞儀し、手の甲に口づけた。
「逢いたかった…私の…私の…もっとよく顔を見せてください。」
ハムレットが顔を上げると、母の目が潤んでいた。そして、母の指はーそれは少し震えていて、ハムレットの頬を撫で、そのまま彼のダークブロンドー影を含んだ金糸のような髪へと伸ばされた。前髪、耳元、そして肩に届く毛先まで、あまりに愛おしげに母の指が髪を撫でるので、ハムレットは気恥ずかしくなり、立ち上がって言った。「そろそろ、食事にいたしましょう。お待たせし過ぎては申し訳ない。」
だがハムレットが席に着いても、特に会話が弾むでもなく、淡々と肉やワインがそれぞれの口に運ばれていった。普通なら、勉学はどうだったのか、ボローニャの街はどうだったかといった質問があってしかるべきで、ハムレットもエイリクに話したようなことを父母に話すつもりであったが、その機会は最後まで訪れなかった。時折、父の視線が、テーブルの向こうからハムレットの頭の先に向けられ、目が合うとそらされるといった、そんな具合であった。
ハムレットの髪は蝋燭の灯りに照らされ、黄昏に沈む麦のような色になった。父はもう一度、何かを確かめるようにそれを見ていた。
そして、盃ばかり口にするその顔は、彼の赤い髪と境がなくなるほど、赤みを帯びていった。
重くぎこちないだけの晩餐が終わると、王は居室に戻り、部屋の扉にもたれかかったまま、ずるずるとその場にへたり込んだ。
『あの男…!』
酔いはとうに覚め、その顔はむしろ蒼白に近かった。
「消し去ったはず…、この手で…なのに…」
王は、不釣り合いな笑い声を立てた。自分を嘲笑るような薄気味悪い笑いだった。
脳裏にまざまざと甦る光景はー王妃が息子を見る目、麦色の髪を撫でる指先の震え。
王の顔が屈辱で歪む。そして、大声で喚きながら立ち上がり、そばにあったチェスボードを蹴りつけた。
「許せぬ!!」
白と黒、そしてナイトやクイーンの駒が、勢いよく入り乱れ、床に散らばった。もちろんキングの駒も。
一方、王妃テオドラは収まりきらない高揚をどうすることもできぬまま、広間のテラスで一人、風に吹かれていた。夫は不機嫌極まりない顔でとっくに出ていったし、息子は何が何だか分からぬといった様子で、そそくさと逃げていった。広間の中では使用人たちがまだ後片付けをしている。『若君のために』と、用意された料理だったのに、すっかり冷めていたし、テオドラは味すら覚えていなかった。いつまでも指先に残る柔らかな感触に気を取られていたからだ。はるか昔、彼女は同じ仕草を、何度となく繰り返した。同じ色の同じ柔らかさの髪に。
テオドラは笑みを浮かべた。
「…勝った」
今、城のどこかで激しく感情を揺さぶらせているであろうあの男に、自分は勝った。麦色の髪には、あの男に欠けた理性が宿されている。
「消せはしないのだ。」
テオドラは、まだ日の落ちぬ広大な城の庭を見おろしながら、不吉な覚悟を固めていた。
そしてーこの晩餐の主賓、麦色の髪の『亡霊』はと云うと、先ほどの宴で聞けず終いであったある問いを携えて、厩へと向かっていた。
外はまだ明るかったが、厩の中は、蝋燭の灯りが揺れ、馬たちに安らぎを与えていた。
一番奥の馬房から何かが光った。
また馬の方が先に、訪問者に気づいて嘶く。主人である男は、ハムレットに背を向け、胡座をかいたまま言った。
「殿下、またお見えですか?」
振り向きもせず、自分の剣を蝋燭の灯りに透かしている。
「よく私と分かるな、エイリク。」
「馬がそう言いましたゆえ。」
エイリクは、鋒から剣身に視線を這わせ、ふと気になったのか目を止め、脇に置いていた布で丁寧に擦った。
「これも昔、そなたに習ったな。」
エイリクのあだ名には、馬撫で(Hesteklapper)ともうひとつ、剣磨き(Sværdpudser)がある。
ー常に剣の手入れを怠ってはならぬ、剣の技以上に大切な、剣を持つ者の礼儀であるーと、少年の頃、ハムレットはエイリクに教えられた。もっとも「剣」がそのまま「馬」に置き換わったバージョンもあり、エイリクの生活がいかに剣と馬中心であるかは、少年のハムレットにもよく分かった。布に取る、黄色みを帯びた獣脂も、剣をしなやかに保つ、彼独特のこだわりの品だった。
「なあ、エイリク、教えてくれるか?」
「なんでしょう。」
エイリクの目はまだ剣に向けられている。
「私が生まれる少し前の戦のことだ、この国とノルウェーとの…。なぜ、戦になった?」
「単純なことでございましょう。誰が民を導くのに相応しいかを決めるため…勝った者が導く、ただそれだけのこと。」
「この国の前王は、ノルウェー王だったと聞くぞ。父上が倒して、王位に着かれたのだな?その方は、この戦に出ていたのであろう?」
「いかにも。ただ二十歳になるかならぬかの、小童…」
エイリクはわざとハムレットを見て、言い直す。「失礼、若輩者…いや、失礼…鼻垂れ…」
「そんなことはどうでもよい!」
焦らすなとばかりに、ハムレットはエイリクを軽く小突く。こんな風に二人は、主従ではなく、師弟でもなく、年の離れた兄弟のように気の合うところがあった。
「陛下の側近として、お側に上がったのは、もっと後のことですので、政治のことは分かりませなんだ。ひたすら相手を倒すことだけ。ただ…」
「ただ?」
エイリクは懐かしそうに窓の外に目を馳せた。
その先には、国王一家が住まう主塔がある。
「我らの勝利の後、輿入れされた王妃様、殿下の母君はお美しかった。見守る者が湧き立つほどのお美しさでございました。…ただ」
「ただ?」
ハムレットはまた聞き返した。
「遠目に見ても、ひどくお寂しそうであられた。」
エイリクが剣を鞘に終い込む。
「小童のエイリクが覚えているのは、その程度でございます。」
二人は沈黙した。ただ、馬だけが小さく嘶いた。
