Örlög 第三十九話 夕暮れの外港
Lの文字が看板のリスベリ商館に着いたのは、夕刻だった。海に沈む夕陽が美しかったので、エイリクは足を止めた。リュースにも見せてやりたかったのだ。
「どうだ、なかなかのものだろう。」
そう言って、リュースの首を軽く叩いたが、夕日よりも海の匂いの方が気になるのか、彼はしきりに鼻をひくひく動かしていた。
商館には、荷を運び終わった荷馬車が次々に戻って来ていた。
エイリクは、かつてその荷馬車に乗って事故にあった、オフェリアのことを思い出した。
彼女の髪と、ハムレットの髪とを、それぞれに届けたのはエイリクだった。
『泣き虫さえ治せば、妃になれる』
今、思えば、無責任なことを言ったと、胸が痛んだ。
約束の時間は来ていた。
エイリクは気を取り直して、商館の扉を叩いた。
「オーラヴソンさんですね?」
ヨアン・リスベリ本人が、エイリクを出迎えた。落ち着きはあるが、若く、洗練された男だった。「女官長…、いや、イングリドさんからのお手紙で、事情はよく承知しました。さあ、早く、こちらへ…」
ヨアンは、扉から周囲の様子を確認し、エイリクを中に引き入れた。
「それで、 “彼“の様子は?」
通された部屋は、二人っきりだったが、ヨアンはハムレットという名を決して、口にしなかった。その用心深さは、商人である以上の、彼特有の賢さを感じさせた。信頼出来る、エイリクは思った。
「目を痛めまして…。養生しながら、過ごしております。」
「では、とりあえず、無事だったのですね?」「はい…。」
クラァラに言われたことが引っかかっていたので、エイリクは多くを語らないことにした。「今、身を寄せられているのは、手紙にあった…、元修道院の建物ですか?」
「…ええ、古い建物です。」
それを聞くと、ヨアンは辛そうに天井を見上げた。
「その建物は、あの事故の時に…、オフェリアさんの遺体が運ばれた場所ですよ…」
エイリクはしばし、言葉が出なかった。
その場所に、今、ハムレットが辿り着いたというのか。
「…それは、…まさに神のお導きでしょうね…」
ヨアンも静かに頷いた。
二人は、約束どおり、商談を始めた。エイリクは腰に巻きつけた帯の中から、一粒のサファイアを取り出して、ヨアンの目の前に置いた。小さいものを一つだけ、テオドラの宝冠から外してきたのだが、それでも小豆くらいの大きさで、深い青の輝きは息を飲むほどだった。
「…これは、素晴らしい…手にとってもよろしいですか?」
そう断ってから、ヨアンはその青い石をつまみ上げ、蝋燭の灯りに照らしてみた。
そして、懐から小さな革袋を取り出した。中には真鍮の縁取りが施された小さなレンズが収まっている。それで、石をまじまじと眺めた。商人の目だった。
「いやあ、素晴らしい石です。我が家は長年、商いをしておりますが、なかなかお目にかかれない代物です。」
こんな小さな石が?とエイリクは思った。そんなことを言っていたら、あの廃屋の、自分の古ボケた寝台の下にある、“本体“はどうだというのだ。自分は、毎晩、その真上で寝ている。
「たぶん、お三人が数年は暮らせるくらいの代金はお渡しできます。何処から出た石ということは言えませんので、付加価値はつきませんが、それでもそのくらいになります。」
エイリクは目を丸くした。
「代金は、どのように受け取られますか?全額、お渡しすることもできますが。」
その気風のよさには、オフェリアのことが関係しているのかもしれなかった。だが、先の分からぬ自分たちに、それだけの現金は手に負えないとも思った。
「当面必要な額だけ頂いて、後は預かっていただけますか?」
「分かりました。ご安心ください。」
商談成立後、ヨアンは、エイリクを食事に招待した。まだ事務的な手続きがあるので、このまま商館に泊まるよう勧めてもくれた。
二人が二階に移動すると、居間にはすでに食事の用意ができていた。
海外交易も多いだけに、エイリクが見たこともないような、外国の調度品が並んでいた。
絵画はもとより、天球儀や地球儀、ミニチュア細工、東洋の陶磁器や漆工芸品である。さほど広くはない部屋に、それらはぎっしりと並べられていた。唯一、エイリクが興味があったのは、異国の武具で、ヨーロッパの物とは趣の異なる黒光りした甲冑や剣であった。
「落ち着かない部屋でしょう。申し訳ない…、ご興味があるなら、どうぞ。」と、ヨアンが促したので、エイリクはその剣をぬかせてもらった。
長さは彼のロングソードと同じくらいだが、弓なりにやや反った刃には、波形の模様があった。とても美しかった。
「その模様は、鍛冶職人の腕の証だそうです。」魅入られるように見つめるエイリクの顔が、刀に映っていた。
「お気に召しましたか?」
「ええ…。」
エイリクは刀を鞘に納めた。
「以前の私なら…、譲っていただくかもしれません。」
だが今の自分には、鍬や鋤の方がむしろ似合う。そう思った。
ベネチアのグラスで振る舞われた酒は、とても美味かった。香辛料が効いた肉も、ひさしぶりに口にすることが出来た。
ヨアンは、エイリクを気遣ってか、重い話はしなかった。最近まで滞在していたというネーデルラントの話を聞かせてくれた。エイリクもベルギーにいたが、それには触れず、彼の見聞に楽しく耳を傾けた。ただヨアンが骨董の話で、武具について質問すると、エイリクも嬉しそうに蘊蓄を述べた。
「ところで…」
酒もだいぶ減ったところで、ヨアンが思い切ったように、こう尋ねた。
「ヴィグボルグ城で、王妃付きの侍女をされていたクラァラさんのことを、ご存知ではありませんか?」
エイリクは、どきりとした。
「存じております。」
正直に答えた。ヨアンの表情が一気に明るくなった。
「お元気ですか?」
「はい…」
この男がなぜ、そこまでクラァラを気にかけるのか、エイリクは訝しく思った。ヨアンはずっとクラァラのことを聞きたかったのかもしれない。彼は、神に祈るように両手を組み、何度も頷いていた。
「イングリドさんへの手紙でもお尋ねしたのですが、返事には書いていなくて…。そうか、お元気なのだ!よかった!」
エイリクは、クラァラへのヨアンの距離の近さが気になった。少し、彼を阻みたくなった。
「元気です。今は、子どもの母親です。」
「えっ!」
ヨアンの驚きは、すぐに落胆に変わった。
「ご結婚されたのですか?」
「ええ…まあ。」
「お相手はどのような方なんですか?」
困ったことになったと、エイリクは思った。真実を話すつもりはないが、今さら、相手を知らぬとも言えない。固唾を呑んで、返事を待つヨアンを交わす言葉が思いつかなかった。
「……」
そして、エイリクの口からは、いつの間にか、こんな答えが飛び出した。
「…私の妻です。」
ヨアンはさらに驚いたが、今度は気の毒なくらいに慌てふためいた。
「…そうでしたか…それは…それは…。安心しました。お幸せですね…。」
気まずい空気が漂い、沈黙が続いた。ヨアンは、グラスに残った酒を一気に飲み干すと、また普通の彼に戻って、明るく言った。
「実は、私はクラァラさんに求婚したことがあるんです。…でも、はっきり断られました。」
ヨアンはまた、爽やかに笑い、続けた。
「その時、感じたんです。この人は、誰かを待っているんだなって…。あなただったんですね。」「…申し訳ない。」
「何をおっしゃいますか!私は、あなたで安心しました。御主人が、あなたで嬉しいです。」
ヨアンはにこやかに、エイリクのグラスに酒をついだ。
