Örlög 第三十六話 雷光の影
ラグナルは、朝早くにマチルダの部屋を出て、兄弟団の政務室に向かった。
マチルダのもとで夜を過ごすのは、めずらしくなかったが、今はそれを秘密にしていた。
政権奪取前は、あれほど頼りにしていたマチルダを快く思わない者も出て来たからだ。
理由は、二つ。
長であるラグナルを取り込んでいるという嫉妬。そして、もとは場末の娼婦であるという偏見。
マチルダの独特の物言いもあって、同志たちの中には、彼女を「魔女」呼ばわりする者が徐々に増えていた。もちろん、マチルダは呪術を使う訳ではない。だが、彼女の人の本音や弱さを見抜く力に、恐れを感じる者が少なくないのだ。
平等を理想の柱に組み込んだ、ブロドレネ・ミン・ロストの中に、早くも「排除」が芽吹いていた。
そして、もう一つ、ラグナルを悩ます動きがあった。それは「流血」である。
「閣下、ハムレットの居所はもっと徹底して、捜索すべきでしょう。」
ラグナルの右大臣トールケル・アスゲイルソンは苛立ちを抑え切れぬように、ラグナルに詰め寄った。
ラグナルの呼称は、最近、「団長」から「閣下」に変わった。同志たちが、自らを大臣と呼び始めた結果、その長であるラグナルもまた、それに相応しい呼び名を与えられたのである。
「火災のあった塔で、死んだのではないのか?人骨が見つかったのだろう?」
ラグナルは、またその話かと思いつつも、真面目にそう答えてみせた。
「遺骨は一体。それが、国王のものかどうかは分かりません。ただ…」
トールケルは、目をぎらりと光らせて、小声で続けた。
「城の火災の時に、黒マントの男がもう一人、男を乗せて、馬で疾走していったって証言があるんだよ。」
小声になると、トールケルは、昔ながらの話し方になる。
「そいつが、昔、国王の参謀だったホルム卿ってヤツじゃねえかとな。どう、思う?だとすると、馬に乗せてたのは、国王ってことも考えられる。」
ラグナルは、ホルムという名前に、内心、どきりとしたが、平静を装って答えた。
「ホルムは、前王の時に、ベルギーかどっかに出て行って、それきりと聞いてるぞ。」
「それが、こっそり帰って来てたって、噂だ。」
「ほお…。それは面白いな。」
「ラグナル、お前、ホルムの素性って、なんか聞いてないか?」
トールケルも、ラグナルのことを「お城育ち」と思っているらしかった。
「俺は城を離れて、十年以上にもなる。それに、ガキの頃に、ホルム卿なんかと喋る機会もない。知っているのは、相当の馬好きってくらいのことだ。」
実際は、それ以上には知っている。
少なくとも、本名は、エイリク・オーラヴソンであること。
だが、ラグナルは、それを口にすることはできなかった。
理由は、エイリクが彼にとっての英雄であったこと、そしてもう一つは、彼の失敗による心の傷によるものだった。
あの、馬上槍試合トーナメントの後、ラグナルは、エイリクやトルデンに会いたくて、仕方なかった。
父親にせがんでも、うるさそうに聞き流されるだけだった。だがしばらくすると、父親の勧めで、学校が休みの日は、ズェルヴァンにくっついて城へ行き、中で使いっ走りをさせてもらえることになった。
トーナメントから三ヶ月ほど経った頃だった。
決まった仕事がある訳ではないが、父親のいる王室文書室でぶらぶらし、「この束を会計室まで持って行け!」「この封書を届けろ!」と、声がかかる度、走る。最初は広い王宮の中を迷って、父親のところに戻れなくなったこともあったが、慣れてしまうと、楽しくて仕方なかった。
国王の台所では、ものすごい湯けむりで食事の支度がされている。見たこともない食べ物がいっぱいに並んでいた。
回廊では、目と鼻の先を歩く王妃様も見た。子どもながらに、その美しさにボーッと見とれた。後には、いい匂いが残っていた。
そして、国王も見た。槍試合の会場では、遠目に見て、『アイツか』と生意気なことを思ったが、すぐそばで見ると、威圧感で震えた。
国王は、父親ズェルヴァンよりも若かった。
深い藍色の長衣をまとい、肩には短い毛皮付きのマントを羽織っていた。ゆっくりと回廊を進み、後ろを歩く家臣に、何ごとか話していた。低い張りのある声だった。
ラグナルは、隅に寄って、初めて頭を下げた。そして、こっそりと上目遣いでもう一度、王を見ようとした時、目に入ったのは、王の後ろを歩く近衛長、あのエイリク・オーラヴソンだった。
黒に近い栗色の髪をなびかせて、王から指示を受けていた。
槍試合の時とは、違った格好よさだった。
その鮮やかな姿と、文書室で書類ばかり目で追っている父親とを、比較せずにはいられなかった。しばらくすると、ラグナルに願ってもない指示が飛ぶ。
「おい、これに厩舎長の署名をもらって来い!」ラグナルは書類を受け取り、小躍りしながら、厩舎に向かった。馬は城にとって財産である。馬の力がなければ、国を栄えさせることも、守ることもできない。なので人の出入りには厳しく、十歳の少年ですら、今まで近寄れなかった。だが、今日は違う。
係員に、文書室からの命を伝えると、厩舎長の小屋に入らせてもらった。そして、署名をもらうと、ラグナルは、思い切って願いごとを口にした。
「槍試合の優勝馬を見せてください。」
厩舎長は、ラグナルを上から下まで、じろりと見た。
「文書室のハルヴェルクの息子だったな?ま、よかろう。」
ラグナルはこうして、トルデンと対面することになった。厩舎係の老人は、全部の馬を自慢げに説明してくれたが、ラグナルにとってトルデン以外はどうでもよかった。だが、トルデンの馬房は一番奥にあったので、我慢して聞くしかなかった。そして、いよいよトルデンである。
「コイツはなぁ、近衛長のエイリクが、ほとんど一緒に暮らしてるって言ってもいいくらい、面倒みてやってるんだ。だから、戦ん時も、この間の試合の時も、一心同体の動きができる。コイツはアイツで、アイツはコイツだ。」
老人は、エイリクがラグナルくらいの歳の頃から知っている。近衛長に昇格しても、エイリクはエイリクだった。
トルデンの毛並みは、エイリクの髪の色に似ていると思った。鼻筋には、乱れた丸の白斑が、目と目の間に入っている。今まで見てきた馬とは違っていた。
「この模様は、乱星って言うんだ。触ってみろ。」
老人が鼻筋を撫でると、トルデンが頭を寄せてきたので、ラグナルも便乗して、そっと撫でた。
熱っぽいくらい、温かかった。
「こんないい馬はなかなかいねえ。」
老人が目を細めると、トルデンは当然だと言わんばかりに、鼻から息を吐いた。
「またな、トルデン!」
こう言って、ラグナルは文書室に戻ったが、次に城に来た時も、またトルデンに会いに来るつもりになっていた。だが、それは最悪の事態を引き起こす。
その日、ラグナルは定刻より早く仕事をあがらせてもらった。厩舎に行くためである。もちろん、父親にはそうとは言わず、適当な嘘を言って、文書室を出た。途中、厨房室の裏口前を通ったのだが、そこで目にしたのは、籠一杯に入ったエシャロットだった。なんとなく、トルデンのおやつに良さそうな気がして、幾つかポケットに入れた。自分が食べるのではない、王室の馬に食べさせるのだから、悪いことだとは思わなかった。
そして-彼はそれを厩舎でトルデンに差し出したのである。
結果、ラグナルは憧れの英雄から突き飛ばされ、怒鳴られる羽目になった。ショックで泣き出し、厩舎を飛び出した彼は、たまたま飛び込んだ洗濯場で人目をはばかりながら、ひとしきり泣き続けた。
『あんなやつ、大嫌いだ。』
ラグナルの頭の中では、近衛長が浴びせた怒号がいつまでも繰り返していた。
「おい、聞いてんのか、ラグナル?」
トールケルの机を叩く音に、ラグナルはハッとした。
「ハムレットは始末した方がいい!」
「あんな、弱々しい奴に何ができる?」
ラグナルは、妹が命懸けで愛した男のことをそう言って、切り捨てた。事実、あの事件には、ハムレットの優柔不断な性格も起因していると思った。
「だが、もしホルムがまたあいつを担ぎ上げて、王室の残党を指揮したら?」
「残党?この国の領主たちのほとんどが、兄弟団についてるんだぞ、勝ち目などあるまい。それに…」
ラグナルは、厳しい目でトールケルを見つめ返した。
「ハムレットを捕まえて、どうする?…処刑か?」
「…それもあるかも知れんな。幽閉か処刑か、皆が望む方だ。」
トールケルは言い切った。
彼は鍛冶屋の息子で、同志の中でも一番の荒くれ者である。単なる怒りの声の塊を、政権として成立させるために、ラグナルの片腕として、最も苦労し、活躍した男だ。処刑という極端な選択をしても、不思議はなかった。
ラグナルは、政務室に掲げられたブロドレネ・ミン・ロストの党旗を指差して言った。
「俺たちが作ったこの党が重んじているのは、平等と理性だろう?暴力や流血は認めない。それは、狂気のなせるわざだ。」
「あんたは分かっていない。そんな綺麗ごとがいつまで通用すると思ってるんだ!」
トールケルは、苛立ちのあまり顔を真っ赤にして、握り拳で机を叩き、そのまま立ち去った。
党の理念は、ラグナルが熱い思いで練り上げたものだった。それを、トールケルをはじめとする団員たちは、目を輝かせて賞賛した。
だが、国を統治する側として動き始めた今、早くも様相が変わり始めていた。
党の象徴とした「雷光」も、その意味合いが変わってしまわないかと、ラグナルは党旗を眺めながら、複雑な気持ちになった。
