昇格した音がした
今から10年前。彼と初めて二人っきりで居酒屋に行った日のこと。
提灯の灯りが、濡れたアスファルトに滲んでいた。
レモンサワーって注文する彼の声が、上ずってた。
壁を背にした私の席からは、入り口が見えた。仕事帰りのサラリーマン。隣にいる二人はカップルだろうか。誰かに見られたらどうする。
私はつい口元を隠して、メニュー表より入り口ばかり見ていた。テーブルが小さくて、肩をすぼめて座った。ひじの置き場に戸惑う。
彼が頼んだのは焼き魚と玉子焼き。チョイスがおかしい。どうやって取り分けるんだ?全然平気なふりして、玉子焼きを取り分けようとしたら、少し崩れた。
笑顔の下で、落ち着かない気持ちが忙しかった。私、何歳だっけ。もう40過ぎてるのに、このムズムズする感じは何だ。
・・・何だか、高校生みたいだった。
箸を落としそうになった。
メニュー表に並んだサワーが皆一緒に見えた。選べず、彼と同じレモンサワーにした。
彼はハイボールにうつった。
「にこっち、絶対オレのこと好きでしょ」
両手をいっぱいに広げてみせた。こんぐらい好き?
血が上った。ぶんぶん首を振って見せた。
冗談じゃない。
何、言っちゃってんの。
私は単に、ずっと先延ばしにしてた二人飲みに付き合っただけだから。
飲み会は、ずっと断って来た。行く理由がないと思ってた。
行かないって二回目に言った時、明らかに彼は変だった。私を避けた。
コソコソと、飲みのメンツを探してた。私を外して。
そんな二面性、嫌いだった。病んでると思った。
でも、逆に気になってしまった。
悔しかったけど、夜も昼もずっと断ったことを後悔した。病みがうつってる。なんでだろう。
なんでかわからなかったけど、たぶん、こうするしかなくて、今この席で玉子焼きに苦戦している。玉子焼きは必然だった。
「・・・わかった。じゃ、これくらい?」
肩幅よりちょっと狭めて、ニカッと笑いかけた。全然、わかってない。
彼は、ムダが嫌いだった。
階段を登るなんてムリ。歩いて移動するくらいならすぐ車を出す。雑談はするけど、残業はしない。
その淡々とした仕事ぶりが、途中で変わった。
斬新なアイディアをぶっこんでくるところ。後輩を巻き込んでいくところ。華麗なる、後出し。
得意なのは、後から一番、最短距離の案をかぶせてくるところ。だから、彼の意見は珍重された。
彼の顔を、ぼんやり眺める。
彼のメガネはよく見たら、黒い縁の端が、黄色かった。ムダが嫌いない彼に不釣り合いな気がして、思わず私は、彼の顔を凝視した。ごま塩になってる頭にメガネだけがふざけて見えた。
玉子焼きをつついて遊んでいた彼が、ふいに聞いてきた。
「来世ってあると思う?」
・・・ん?来世?!
急だった。どこを見ればいいか一瞬わからなくなって、部屋の天井の隅をみた。不自然なしみがあった。
彼が時々見せる、無言の横顔。現実から離れてるような、何枚も透明なバリアを貼った向こう側にいて、声をかけづらいように感じた瞬間を、思い出した。
車と、お酒と、進撃の巨人と、筋トレと、合理主義の向こうに、見たことのない彼がいた。
そう言えば、子どもが生まれる前後に無心に読み漁っていた本があった。夫が買いため、本棚にたまっていった本たち。来世とか、前世とか、前世療法とか。夫は信じていたんだろうか。
夫と話したことはない。あくまでこっそり盗み読みしていただけだった。でもいつしか、私は来世を、歯磨きしてお風呂に入るくらいの感覚で、普通に信じるようになっていた。夫が、そのきっかけともいえた。
だから、何?
私は、少し沈黙した後、返した。
「私は、来世を普通に信じてますよ。来世は、普通にあると思う」
その言葉を聞いた時、彼の質感のない日に焼けた顔に、みるみる熱が広がっていった。水面に波紋が広がり、熱を帯びていく。目に、輝きがあった。
その強さに、一瞬固まった。
グラスの中で、氷がひとつ、静かに音を立てて崩れた。
「やった。見つけた」
聞き逃さなかった。
私に聞こえるギリギリのボリュームで、彼はささやいた。
玉子焼きとハイボール片手に、何を言ってるんだ。
既婚同士で、何を言ってるんだ。
私のレモンサワーはもう氷だけになって、カラカラ言ってた。急にのどの渇きを覚えて、コップをあおり、氷をがりがりとかじった。
急にサラリーマン同士の会話が耳に飛び込んできた。
職場の、どうでもいい愚痴を言ってる。なんて平和なんだ。昨日まで、私もそちら側だったのに。その濁りのない言葉遣いが、真っすぐ一直線に私を刺した。
抗いようがなかった。
彼の存在が、単なる同僚から昇格した音がした。
運命かも、という言葉を思い出さずにすんだらよかったのに。
居酒屋を出た。急に店の喧騒から暗がりに出て、ひんやりとした風が頬の熱を奪っていく。
見上げると、月が薄雲の向こうに浮かんでいた。
隣に並んで歩くだけで、彼の体温が空気から伝わるようで、恥ずかしくなって、10センチ距離を開けた。
彼が、そっと肩を抱こうとしてきた。
ガッチリした体なのに、背は私と同じくらい。窮屈だった。驚いて、振りほどいた。そんなんじゃないし。
駅に向かって歩く私たちと反対側から歩いてくる帰宅途中のスーツ集団の視線が、痛かった。私、何やってるんだろう。スーツ集団にどう思われてるんか。顔を合わせることもできなかった。
帰宅後、LINEが届いた。
「今日はとても楽しかった。ありがとう」
その画面をしばらくの間、じっと見つめていた。
遠くで、救急車のサイレンが尾を引いて消えていった。
彼の行動がどこかしら、手馴れてる気がした。戦略だったのか、本能だったのか、わからなかった。
わからないまま、私はその夜、指先だけがずっと冷たかった。
次の日から、彼はまた、いつもの彼に戻った。
チャットでは踏み込んでくるのに、廊下ですれ違っても、目も合わせなかった。
淡々と、日々は過ぎていった。
