noteが存在する理由(もっと普遍的で美しくて圧倒的な何か)
その文章は読むものを圧倒していた。
何がすごいのか、それを正しく言葉にすることができない。文章なのに。その凄さを、その偉大さを、体内のしれない底知れなさ、それらは言葉にすることができないのだ。
いくら考えて、いくら時間が経ったとしても、もうそこには到達できない。
その文章は難しい言葉が使ってあるわけではない。決して意味のわからない言葉を1つたりとも使ってはないのだ。小学3年生でも理解できる文章で、当たり前のことを当たり前に書いている。けれど、そこから立ち上ってくるのは、普遍的で美しくて圧倒的な何かであった。
考えすぎな見方をしているのではないかと思うかもしれない。けれど、その文章を読んですぐにわかったのだ。僕はここには到達できないだろう、という気迫がその文章から漂ってきた。
決して言語化できているわけではない。正確に表すことは困難だ。だからどこかでこの文章に出会っていると想像していて欲しい。
普遍的で美しくて圧倒的なそれを感じる文章を書きたいと思っている。
そんな果てしないこと、どうしてやろうとするのか。当然の疑問である。誰にも到達できないような圧倒的な文章。それは偉人がすることである。文化を生み出す人がすることである。何かを成し遂げた人がすることである。何も成し遂げていない、どこにでもいる中年ができるわけがない、と感じるかもしれない。
けれども僕は、そこを目指すのだ。「どうして必要があるのですか?」と思うのであれば、その圧倒的な何かを自分の中に取り入れたいと考えているからであって、その圧倒的な何かはただ自分ひとりだけでは完結しないからだ。
取り入れたものをそのままアウトプットする。その作業が必要なのである。
僕の中を、その普遍的で美しく圧倒的な何かが通り過ぎていく。広く、そして一瞬で全身を駆け巡り、熱い塊として僕の中で集結していく。それは時として発熱を伴うのかもしれないし、頭痛や腹痛、何かのだるさ、喪失感、ときには昂ぶりなのかもしれない。そういう体験をした上で、その圧倒的な何かは僕の中で形作られる。
その形作られたものを吐き出すだけである。
完璧に吐き出せることなどないだろう。けれど逆に、それは既に圧倒的な何かとして僕に取り入れられたから、その時点で完結しているわけでもある。
だから、僕の中に入った以上、僕の何かがそこに付加され、そしてそれを吐き出すのだ。その過程がなければ、僕はただ外からのものを一時的に住まわせているだけに過ぎない。それだけでも意味はあるのかもしれない。けれども、その圧倒的な何かを自分の中に取り込み、吐き出したと感じたいのだ。そうしなければ、僕は僕でなくなってしまうからだ。
そうやって僕の中に入ってきたものは、僕の中で別の形になり、次第に鮮明に、色鮮やかになってくる。その中から取り出すのである。
具体的に言えば吐き出すだけなのだが、それは僕の体の中にあって、既に形作られているから、削り取っていけばそれが現れるだけである。
つまり僕は、巨大な消しゴムで自分を消していくのだ。僕の輪郭や顔、手足を、どんどん巨大な消しゴムで消していく。すると大量に発生する消しカスとともに、その普遍的で美しく圧倒的な何かが削り残っていく。
消しカスは僕自体だから、その消しカスを集めれば再び僕が誕生する。消しカスの部分と、圧倒的な何かの部分。もちろんその圧倒的な何かの部分によって、僕の肉体は侵され、積み重なって大きく、深く、熱くなっている。
そうやって、その圧倒的な何かは人々の体を通し、吐き出され、育ち、受け継がれてきたというわけである。
消しカスになった僕は、再び滑らかな輪郭となり、元の姿へ戻っていく。完全に消えてしまうわけではないのだ。むしろ消しカスとして再形成された僕は、新たな生まれ変わりみたいな、すっきりとした気分である。
その過程はこの歴史において必要なものであり、誰しもが体験することなのではないだろうか。その普遍的で美しく圧倒的なものを残せた喜びに満ちあふれている。
しかし、簡単に心を許してはいけない。その普遍的で美しく圧倒的なものを、ほったらかしにしておいて良いものではない。僕が受け取った以上、誰かに向けて発信しなければならない。そしてそれを誰かに取り込ませるのだ。それこそ人類に託された使命であると、僕は考えている。
それをどういう形で次の人に受け渡せるのか。その方法は様々あるだろう。
今まで、それを文章として生み出した人、歌として生み出した人、建築物として生み出した人、戦争として生み出した人、犯罪として生み出した人。そうだ、その普遍的で美しく圧倒的な何かというものは、時として人類の未来にはふさわしくない場合もある。むしろその可能性は半分くらいだ。だから気をつけたほうがいいんだ。慎重に扱わなければならないのだ。
そういう危険性を孕んでいるものであることを自覚しつつ、それでもどこか、ただ棚上げにしておくだけではいけない強いものである。
その形についても、じっくりと考えていけば良い。幸い時間は限られていない。あなたの中から発生したその普遍的で美しく圧倒的な何かは、あなたなりの形で次の人に継承すれば良い。
僕はそれを叶える場所として、このnoteがあるのではないかと考えている。「何を大げさな」と思うかもしれない。けれども、時として人は誰かの記事を読み、心を揺さぶられ、自分も何か書きたいと考えるのだ。そうやって新しい記事は生まれていく。
僕にはそれが人類の「集合知」みたいなものだと感じるのだ。その集合知を受け取り、自分なりに解釈をして吐き出す。それほど多くの人には届かないのかもしれない。また、全く誰からも反応されず、過去記事になっていくのかもしれない。
それでも別に構わないのだ。
この場所、この保存庫に残せたということが重要である。あなたが心血注いで、あなたから削り取られたその何かがそこに表現されていれば、それで良いのだ。
それは1つの記事では終わらないかもしれない。何日もかけて書き続けて、ようやく完成するかと思えば、するすると逃げていく。どこまでも終わりがないものなのかもしれない。
そうだとしても、その完成をめがけて走っていくという状態が重要である。その状態にあることが辛いかもしれないけれど、はっきりと言えるのは、それが幸福に違いないということだ。
そういうわけだから、今すぐとは言わない。いつでもいい、気が向いたら書き始めてくれたまえ。その圧倒的な何かを僕に読ませて欲しい。
それを取り入れて、僕も吐き出す。そうやって僕の中の何か、あなたの中の何かは高まっていく。より強く、より深く、静かに輝くものになっていくのだ。
誰かが書いたその北極星みたいな何かは、誰かに解釈され、そして模倣され、自分の中に取り込んだものを吐き出し、新たな形に変化していく。けれども、そのコアの部分は変わらない。誰が装飾しようと、経験を積み重ねようと、そこにあるものは変わらない。それを見つけるのだ。
それを探し続けるのだ。いつ見つかるかはわからない。油断してはいけない。いつも研ぎ澄ませていよう。どこで見つけるか、何が降ってくるかわからない。もしかしたら無意識のうちにそれに触れているかもしれないのだ。「そんな大層なことはできない」と思ってはいけない。きっと到達できるのだ。誰でも、徒歩ででも、いつでも到達できるはずである。
なぜなら、それがあなたなのだから。
僕はこのnoteの中で、そういう記録を積み重ねてきて今があると考えている。
告白すれば、これは眠る前の思考である。
眠る直前、音声入力により喋り続けているに過ぎない。だから支離滅裂で何を言っているのかわからないところが多々あるだろう。また同じことを何度も何度も言っている。だから話半分で、そういうものとして理解して読んで欲しい。
何とか5000字に到達させなければならないのだ。今週は5000字と決めて何本か書いてみたのだ。5000字の記事を5本書いた。書いたというか、しゃべった、ということだ。
もう、書くようにしゃべることができる。いや、正確に言えば、完全な書き言葉ではなく、話し言葉を混ぜたハイブリッドみたいな文章だ。けれど、それが決して整っていないとか勢いがないということではなく、何か独自のものであるような気がしている。そういう僕としての文体である予感がある。
まだ完璧に構成されていない、その手法も確立してはいないけれど、徐々に固まってきている。
これは僕が吐き出すために長い時間をかけて、動きながら試して到達した領域である。誰にも真似できず、誰にも届かないくらい研ぎ澄ませ磨いてきたやり方である。
「同じようにやってはどうですか?」などと勧めようとも思わない。けれども、これをやって記事を満たしていく、その様を示すのだ。これが創作の新しい形の1つであると示すことができたなら、僕はこの記事を書いた甲斐があるというものだ。
そういう風にして日々、僕は記事を書き続けている。これからも同様に書き続けていくに過ぎない。
今のところやめる気はない。やめてはいけないと思っている。それが僕に課された使命なのだと、大層なことを考えているのだ。
誰にもそう言う使命を課せられている、と思っている。その使命は様々だけれど、また時期によってどんどん変化していくものだけれど、確実にその人を構成するために、乗り越えるべき使命が課せられているのだ。それを自覚する、間違っていたとしてもいい、何か自分には使命がある、と勘違いすればいい、それを乗り越えようと切磋琢磨するあなた自身があればいいのだ。
その背中で語ればいい。背中は口以上に雄弁に語り出す。それを見てついてくる人がいる。アドバイスをくれる人がいる。時には否定されるかもしれない。そんなやり方は傲慢だと怒り出す人がいるかもしれない。気にしてはいけない。主観と客観を行き来して、自分が信じる道を進むだけである。
そこに答えは必ずある。その答えを探し続けながら生きよう。風呂上がりのビールを飲み干すような瞬間を糧にすればいい。いつでもどこでも実現できる糧があれば、人はしぶとく、強く、生きていける。本当だ。
疲れたら、ゆっくり休もう。外に出て木陰に入り、風を待とう。すぐに風は吹いてくる、風をまとって上昇しよう。雲の上は気持ちよく、遠くまで見渡せるあの街へ、今度は行ってみようか、と空想する。その街である出会いがあって、その出会いが運命のもので、あなたは波に乗る。時代の波に乗ってしまうのだ。そう言うことを空想しながら、風をやり過ごそう。
あと600字である。何もわざわざ5000字書く必要がないのではないか、と自問自答しながらそれでも続けている。大体、需要がない。この世の全ては需要と供給だろう?一つの記事で5000字も求められていないのだ。多分。せいぜい1000字ぐらいだろう。たまには重厚なものが読みたくなって、偶然出会ったら小躍りするかもしれないが、所詮、みんな忙しい。みんな自己主張が激しい。他人の記事を読む体制にないのだ。けれど続けなければならない。僕が自ら課した制約に向かって突き進まねばならない。それが僕の使命である。運命を切り開くために、覚悟が必要だ。その覚悟を今、したのだ。僕はなんのメリットがあって、書き続けているのか。何もない。誰からも求められていない。けれど書き続けるのが、紛れもなく僕自身からの指令だ。明日で一旦元に戻そう。別の形で文章を修行しよう。頻度を上げる、とか言う形でいいじゃないか。それだったら喜んでくれる人がいるかもしれない。きっといるはずだ、そう信じたい。下書きとして、ストックがたくさんあるが、結局それは使えない。勢いで書き出してしまう方が早い。そう言う仕組みになっている。ようやく終わりが見えてきた。意味なく言葉を繋がなくても良い。お付き合いいただいた方はありがとうございました。なんとか目標達成できそうです。こんなことを続けているのは、確実に毎日訪れてくれるあなたがいるからです。感謝感激雨霰であります。
こうして無理やり引き延ばした、無理やり付け足した記事であることに間違いはないが、それだって僕が嘆き苦しんで生み出した、紛れもない普遍的で、美しくて、圧倒的な何かである。
