【イベント】桜のない桜まつりが、いちばん美しい——秦野アルプス四座縦走、3月22日
はだの桜まつりに行ってきた。
桜は、まだ主役ではない。ソメイヨシノは一分から二分咲き。枝の先に数輪がほころびかけている程度で、満開には一週間以上かかるだろう。枝垂れ系の早咲きは見頃を迎えているし、モミジイチゴやミツマタは満開だが、弘法山公園を埋め尽くす約二千本のソメイヨシノは、まだ冬枯れの骨格のままだ。
つまり「桜まつり」の看板を掲げながら、主役がまだ舞台袖にいる。
だが、これがいい。
弘法山公園は神奈川県でも屈指の桜の名所として知られている。満開のピークには秦野駅から山頂までの道が人で埋まり、権現山の広場は敷物だらけになり、馬場道の桜のトンネルでは立ち止まることすらままならないという。インスタ映えを狙ったカメラの放列、場所取りの攻防、山頂の屋台に並ぶ長蛇の行列——それが「正しい桜まつり」だとしたら、私はむしろ邪道のほうを推す。
桜のない桜まつりに来ると、この山が本来持っているものが見える。水の音。鳥の声。足元の小さな花たち。富士山と丹沢の稜線。そして、桜が咲く前からこの山にあった歴史の層。
今回は秦野駅から鶴巻温泉駅まで、浅間山・権現山・弘法山・吾妻山の四座を縦走する「秦野アルプス」を歩いた。関東ふれあいの道の一部でもあるこのコース、距離8.1km、累積標高は登り271m・下り348m。行動時間は休憩込みで4時間23分。低山とはいえ四座を繋ぐので、それなりに歩きごたえがある。
ルートの詳細(GPSログ・標高グラフ・コースタイム)はヤマレコに記録している。
桜の時期は異常に混むので、桜のない時期に桜を想像して訪れるのがいいとガイドうりぼーは言った。
秦野駅——まほろばの泉
小田急線秦野駅を降りると、駅前ロータリーの一角に「まほろばの泉」がある。岩を組み上げた小さな湧水モニュメント。「秦野名水 丹沢の山々が育ててきた名水百選『秦野盆地湧水群』の美しい地下水」と刻まれた石の間から、水が絶え間なく落ちている。OMOTANのプレートも見える。

秦野は環境省の「名水百選」に選ばれた地下水の街だ。丹沢山系に降った雨が地中を通って秦野盆地の地下に溜まり、あちこちで湧き出している。街を歩けば湧き水スポットがある。それが秦野の日常であり、観光資源であり、誇りでもある。
ボトルに水を汲む。この一杯が、今日一日の「水」の旅の始まりになるとは、この時点では思っていなかった。

弘法山公園入口——浅間山へ
駅から国道246号沿いを歩いて20分ほど。弘法山公園入口の看板が現れる。木の幹を模した台座に掲げられた木彫りの看板。この向こうに丹沢の稜線が見えている。カラオケ店が隣にあるのがなんとも言えない味わいだが、こういう「観光地然としていない入口」が弘法山の良さでもある。

ここから登りが始まる。いきなり急な丸太の階段。息が上がる。だが周りを見れば、小さな子どもを連れた家族も、トレッキングポールを突いた年配のグループも、ランニングシューズの若い男も、みんな同じ階段を登っている。弘法山のいいところは、ガチの登山者からベビーカーの家族連れまで、体力に応じた歩き方ができる懐の深さだ。
浅間山(せんげんやま)の山頂に出ると、視界が一気に開ける。

浅間山から権現山への道は、なだらかな尾根歩きだ。足元にはラッパ水仙が黄色い頭を揺らし、ユキヤナギが白い花をこぼしている。桜が咲いていないからこそ、こうした脇役たちの存在に気づく。桜が満開になれば、おそらく誰もこの花たちの存在に気づかない。主役が不在の舞台で、脇役たちが堂々と演じている。
途中から権現山への登りにかかる。丸太の階段を列になって登る。振り返ると、木々の間から秦野の市街地が見え隠れする。

年齢も装備もバラバラのハイカーが列をなす
権現山——富士山とミツマタと、帽子の銅像
権現山の山頂広場に出ると、景色が一変する。北西に秦野盆地越しの富士山。南東に相模湾。晴れた日には江ノ島まで見える。二方向に開けたこの展望が、弘法山公園の中でも権現山が最も人気のあるスポットである理由だ。

冠雪の白と春霞の境界が溶ける
今日は快晴。富士山がくっきりと見えている。秦野盆地の街並みがジオラマのように広がり、その向こうに冠雪の三角錐。この構図を独り占めに近い形で見られるのは、桜が咲いていないからだ。満開のピークなら、展望台の前で記念写真の順番待ちが発生するという。今日は待ち時間ゼロである。


権現山展望台、銅像の少女と富士山。
この銅像に毛糸の帽子を被せたのは何を隠そう、私である。元旦のことだ。あれから3ヶ月近く経つが、まだ被っている。そろそろ暑くないかと思うが、銅像の表情は何も語らない。誰かが外すのか、風で飛ぶのか、あるいは来年の冬まで被り続けるのか。
そして今日のハイライト。展望台の脇で、ミツマタが満開を迎えていた。淡い黄色の丸い花房が枝先に連なり、その向こうに冠雪の富士山。この組み合わせを見て「木花開耶姫の微笑み」と書いたら気取りすぎだろうか。でも実際、冠雪の富士と花の取り合わせには、桜でなくても十分すぎる力がある。桜が主役を張る前のこの時期、弘法山ではミツマタが堂々と主役をやっている。

ミツマタはその名の通り、枝が必ず三つに分かれる。和紙の原料としても知られるが、花そのものの美しさはもっと知られていい。球状に集まった小さな筒状花が、まるで手毬のように枝先にぶら下がる。遠目には黄色い綿菓子のようだが、近づくと一つ一つの花弁に繊細な産毛が生えているのが見える。
権現山ではソメイヨシノ以外にも、さまざまな桜が咲いていた。カンヒザクラ系と思われる濃いピンクの花が、釣鐘型に垂れ下がっている。ソメイヨシノの淡い色とはまったく違う、主張の強い紅。枝垂れ桜も見頃で、枝の先に花の重みでしなだれる姿がなんとも優美だ。

ソメイヨシノより一足先に見頃を迎えている
そしてヤマザクラ。花と葉が同時に開くのがヤマザクラの特徴で、白い花弁と赤みを帯びた若葉の取り合わせが清潔な印象を与える。ソメイヨシノが「華やかさ」なら、ヤマザクラは「品」だ。弘法山にはもともとヤマザクラが自生していたはずで、馬場道の案内板にもある通り、大正期に植えられたソメイヨシノより先輩にあたる。人が植えた桜と、山にもとからあった桜。両方が同じ尾根にいるという構造が、この公園の奥行きになっている。

花と葉が同時に出る。ソメイヨシノとは異なる静かな美しさ

つぼみが膨らみ、数輪だけが開いている。あと一週間
ソメイヨシノのほうは、まだ「予告」の段階。開いた花と膨らみかけの蕾が同居していて、「あと数日」を全身で訴えている。
馬場道——二度目の命を持つ桜並木
一路、弘法山へ。

一週間後にはこの枝がすべてピンクに染まる
権現山から弘法山へ向かう尾根道が「馬場道(ばばみち)」だ。両側にソメイヨシノの大木が並び、満開時には頭上が桜で埋まるトンネルになる。が、今日は枝だけのトンネルである。太い幹と枝の骨格だけが空に伸びていて、その先にほんのりピンクの蕾がついている。満開を想像しながら歩く贅沢。

桜のトンネルの下には、桜まつりの屋台が出ていた。「Aloha」と書かれたクレープ屋の薄紫色の軽トラ。ホットドッグとアゲパンのフードトラック。つくね串の幟。まだ枝だけの桜の下に屋台が並んでいる光景が妙に可笑しい。来週の満開を先回りして場所を押さえている。客はまばらだが、これが一週間後には行列になるのだろう。


馬場道の途中に案内板がある。読んで驚いた。

昭和10年頃の花見の古写真付き
権現山から弘法山に続くこの道は、昔から「馬場道」と呼ばれてきた。馬場道周辺はかつて山林の入会地(共有地)で、明治20年頃に分割して住民に所有権が設定された。当時の農村では馬を飼っている家が多く、その一部を差し出して共有地として馬場が整備された。
大正天皇の即位を記念して、南矢名青年会の人々が道の両側に桜を植樹。以来、桜の名所となり、花見の季節には多くの露店も出て、大勢の人々が集まった。昭和10年(1935年)までは5月5日に祭りが行われ、この馬場道周辺で農民たちが競馬を楽しんだという。案内板には当時のAIカラー加工された写真が載っていて、馬場道に人が溢れている様子が見て取れる。
しかし、数百本を数えた桜は、終戦間際の薪炭不足のために昭和19年(1944年)に伐採された。花見の名所だった桜並木が、燃料として消えた。
現在の桜は、昭和30年代半ばから地元有志や市、観光協会らが植樹して復活させたものだ。
つまり、この桜並木には「二度目の命」がある。一度は大正期に人の手で植えられ、一度は戦争で失われ、もう一度人の手で甦った。それを知ってから見ると、まだ咲いていない枝の一本一本にも別の重みが宿る。今この枝に蕾がついていること自体が、半世紀以上前に誰かが苗木を植えた結果なのだ。放っておいたら生えてきた木ではない。意志を持って植えられた木だ。
馬場道を歩きながら、足元に目を落とすと、ハナニラの群落が桜の根元に集まっていた。薄紫の星形の花が、枯葉の間から顔を出している。遠くに富士山がぼんやり見える。

桜の根元にひっそり。背景にうっすら富士山
掲示板には来週のイベント告知が出ていた。「弘法山公園パンまつり 2026.3.28(土)・29(日)10時〜16時 権現山山頂にて開催!」。秦野市内のパン屋——まるきパン、にこにこパン工房、Hibi Pan Bakery&cafe、ペンギンベーカリー秦野店ほか——が山頂に集結するらしい。「天候や開花状況により4月4日・5日に延期 売り切れ次第終了」。「きれい」と「おいしい」どっちもうれしい、というコピーが素朴でいい。

来週末、桜とパンが同時に楽しめるか
弘法山——鐘楼と乳の水と、散る花の歌
馬場道を抜けて、弘法山の山頂へ。
「かながわの景勝50選 弘法山」の石碑が立つ。

弘法山という名の由来は、弘法大師(774〜835年)がこの山頂で修行したという伝承にある。山頂には釈迦堂が建ち、「弘法大師」の額が掲げられている。もとは福泉庵という堂があったところに、江戸時代中頃、龍法寺の僧・澤水芳がこの荒廃を嘆いて新たに堂を建て、釈迦如来像と弘法大師像を祀って釈迦堂とした。明治3年の火災で焼失し、石造だった弘法大師像はこの時から露座となった。堂の再建後は弘法大師の木像のみを安置していたが、関東大震災や昭和7年の台風でも被害を受け、長く仮堂のままだった。現在の釈迦堂は昭和39年の完成だ。

「弘法大師」の額。脇に解説板
釈迦堂の裏手には鎌倉時代後期の経塚があった。経典を書写して埋納する信仰上の施設で、日本では平安時代末期に出現している。弘法山の経塚は昭和7年に神奈川県により調査され、大甕の口縁部が楕円形をしていたこと、経石には「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」の一字一石が大理石に記載されていたことなどが記録されている。
山頂のもうひとつのランドマークが鐘楼である。

鐘楼と「弘法山」の木彫り標識
弘法山の鐘は享保年間(1716〜1735年)に行者の発願で鋳造が始まったが、寄進がなかなか集まらず、完成は宝暦7年(1757年)12月のこと。実に40年以上かかっている。ところが完成から9年後の明和3年(1766年)、山火事で鐘がひび割れて音が悪くなってしまう。新たに造り直すことになり、松田出身の尼僧・松瀬智貞や周辺村の有志、さらには徳川御三家や諸大名からも寄進を得て、享和元年(1801年)5月に完成した。この鐘は以来150年以上にわたって「時の鐘」として親しまれ、朝夕に時を知らせ、災害の発生も告げていた。昭和31年(1956年)まで打ち鳴らされ続けたという。現在の鐘楼は慶応3年(1867年)に再建されたものだ。
そして「乳の井戸」。

木組みの屋根の下に井戸枠。手押しポンプが脇にある
この山頂には古井戸があり、湧き出る水は白く、乳の香りがしたと伝えられている。この水で粥を炊くと乳が出るという信仰から「乳の水」と呼ばれ、昭和30年代初頭まで、授乳期の母親や妊婦が遠方からもこの水を求めてやって来た。真夜中に誰にも知られずこの山に登り、乳の水を飲むと乳が出るようになる、という言い伝えもあったという。子を抱えた母親が夜中に山を登る姿を想像すると、その切実さに胸を打たれる。

秦野ライオンズクラブ寄贈
山頂に水があるというのは、考えてみれば不思議なことだ。秦野駅前のまほろばの泉は盆地の地下水だから理解できる。しかし山頂の井戸は、地形的には湧き出す道理がない。それでも水は出た。白い水が。この「道理を超えた水」が信仰の源泉になるのは、ある意味で当然のことかもしれない。
鐘楼の脇にはベンチとテーブルが並び、ハイカーたちが弁当を広げている。提灯が木々の間に吊るされ、桜が咲けばここが宴会場になるのだろうと想像がつく。「鶴巻温泉→」「善波・高取山・大山→」の道標が立ち、ここが通過点であり分岐点であることを示している。

関東平野を見下ろす
だが今日は、提灯の下で静かに昼食をとるハイカーの向こうに関東平野が広がっていて、その余白がなんとも心地よかった。桜がないから空が広い。空が広いから、景色の奥行きが深い。
歌碑がある。秦野出身の国学者・歌人、原久胤(はら ひさたね、1792〜1844年)。相模国下大槻村(現・秦野市下大槻)の人。通称・新左衛門。号を契月、つきの屋と称した。奥村梁・山平伴鹿らに学び、さらに本居春庭に入門して国学を究めた。万葉調の歌に優れ、江戸・相模・駿河で活躍。歌集には門人日善の編集した「五十槻採葉集」三巻等がある。没後150年にして故郷を望むこの地に歌碑が再建された。

「我庵は盛も人のとはぬかな をしまれて ちる花もあるよに」
私の庵は、花が盛りの時でさえ人が訪ねて来ない。世の中には散る花を惜しまれるものもあるというのに——。
寂しさの中にかすかな矜持がある歌だ。そしてこの歌を、桜がまだ咲いていない山頂で読む。来週には多くの人がこの山に登るだろう。しかし、この歌碑の前で立ち止まる人はどれだけいるだろうか。満開の桜は圧倒的だ。圧倒的なものは、他のすべてを消してしまう。
弘法山から吾妻山へ——杉林とモミジイチゴ
弘法山を後にして、善波峠方面へ下る。ここからは杉林の中を歩く区間が続く。弘法山や権現山の開けた展望とは対照的に、視界が一気に狭くなる。杉の幹が両側に立ち並び、足元は根が露出した山道。すれ違うハイカーとの挨拶が、狭い道の中でより親密に感じられる。

この区間で目を引いたのがモミジイチゴだ。バラ科キイチゴ属の落葉低木で、花は白く、下向きに咲く。葉の形がモミジに似ていることからこの名がある。初夏にはオレンジ色の甘い実をつけるが、今の時期は花が見頃。蜂が忙しそうに花から花へ渡り歩いていた。

白い五弁の花が下向きに咲く

鋸歯のある若葉と花弁の取り合わせが清潔
キブシの花も見事だった。穂状に連なる黄緑色の蕾が、暖簾のように枝から垂れ下がっている。これもまた桜の前座を務める早春の花。桜が咲いてしまえば誰も見向きもしないが、今日は主役不在の舞台で堂々と存在感を放っていた。

暖簾のように枝から下がる

道標には「権現山 0.85km」「善波峠・吾妻山」の表示。
ここから吾妻山への登り返しにかかる。
吾妻山——日本武尊の嘆き
吾妻山の山頂には吾妻神社が鎮座している。日本武尊が東征の帰途、走水(横須賀)の海で自ら身を投じて海を鎮めた妻・弟橘比売命を偲び、この山に立って東を望み「あづまはや(ああ、わが妻よ)」と嘆いたという伝承が残る。この「あづま」が「東(あずま)」の語源になったとも言われている。


走水の海で妻を失った男が、この山から東を見て嘆く。弘法山の歌碑で「人が訪ねて来ない」寂しさを詠んだ原久胤とは異なる種類の孤独だが、どちらも「不在」を見つめている。まだ咲いていない桜を見る今日の私たちもまた、不在を見つめている点では同じかもしれない。
山頂からは秦野市街が一望できる。弘法山や権現山からの富士山側の眺望とは逆に、こちらは鶴巻温泉・東海大学方面を見下ろす景色だ。

登山道を下っていく途中に、無人販売所がある。里いも・キクイモが200円、みかんが300円。ビニール袋に入った野菜が木の棚に並べられ、空き缶の料金箱が置いてある。登山道上のマイクロ経済圏。誰が買うのかと思うが、ここを通る人は確実に買っている。下山する時に手にビニール袋をぶら下げている人を何人か見かけた。

信頼で成り立っている。無人販売は、売る側と買う側の信頼が可視化された最小単位の経済だ。200円のキクイモに、レジも防犯カメラも領収書もない。ただ野菜と空き缶がある。それで回っている。
鶴巻温泉——水の旅の終着点
吾妻山を下り、住宅街に出る。道祖神の脇には「鶴巻再発見・鶴巻まちづくり協議会」の黄色い札がかけられていた。地域の歴史を掘り起こし、日常の風景に意味を与える活動。こういう地味な営みがまちの層を厚くする。
宮永岳彦記念美術館の前を通ると、OMOTANコインの幟がはためいている。秦野の電子地域通貨だ。駅前のまほろばの泉にもOMOTANのプレートがあった。山の上から街の中まで、秦野はこの地域通貨の認知を少しずつ浸透させようとしている。

弘法の里湯に到着。ここで汗を流す。カルシウム含有量日本一と言われる鶴巻温泉の湯は、秦野盆地の地下水とはまた異なる、少しとろみのある独特の質感がある。


入口の横には温泉スタンドがあり、ペットボトルに温泉水を汲める。ここでもまた水を汲んだ。
振り返れば、今日の行程は「水」で貫かれていた。秦野駅前のまほろばの泉で湧き水を汲み、弘法山の乳の井戸の伝承に触れ、鶴巻温泉で温泉水を汲む。秦野という土地は、山の上にも麓にも、駅前にも温泉街にも、至るところに水が湧いている。名水百選に選ばれた地下水脈が、街全体の地面の下を走っている。四座を縦走しながら、その足元に水脈があることを、一日かけて身体で確認した。
鶴巻温泉駅前の手湯「千の泉」にも立ち寄る。

秦野の湧き水は冷たく、硬度が低く、角のない柔らかさがある。鶴巻温泉の水は、それとは明らかに違う。カルシウムの含有量が違うのだろう、少し引っかかるような感触がある。同じ地下から出てくる水でも、場所が変われば質が変わる。当たり前のことだが、一日かけて何箇所も水に触れると、その違いが指先で分かるようになる。

白髭食堂——丹沢ジビエ

鶴巻温泉駅のほど近くにある白髭食堂で丹沢ジビエをいただいた。ハンバーグ、チキンカツ、オムライス、ロースカツといった王道の洋食メニューに加えて、丹沢で獲れた鹿や猪を使ったジビエ料理を出している。
地元の山の肉を地元の店で食べる。登山道の無人販売所で地元の野菜を買う。駅前の湧き水を汲む。鶴巻温泉に浸かる。全部、秦野の中で完結する。都心から電車で一時間の場所に、こういう循環がある。
お前に喰わせるジビエはねぇ(鉄板ネタ)、と言いたくなるかどうかは食べてのお楽しみだが、乙🍛さまでした。
本日の報酬

秦野産のみかんとブンタン。みかんは結構傷んでいるが、「気にするな」と言われた。秦野産のキクイモとヤーコン。ヤーコンについては「とりあえずイモらしい」という認識しかないが、調べたらオリゴ糖が豊富で腸にいいらしい。秦野産のささげ。そして金井酒造の「弘法山 白笹つづみ」、手造り生貯蔵酒。
全部うれしいが、やはり酒が一番である。
これだけの地場産品が一度に手に入る街は、東京近郊では珍しい。みかんも、キクイモも、湧き水も、ジビエも、地酒も、全部秦野で完結する。観光パンフレットに書くような話ではなく、実際に足を運んで手に入れたものの重さとして、そう感じる。
桜がまだ咲いていないということ
弘法山の桜は来週末あたりから見頃を迎えるだろう。パンまつり(3月28・29日)と重なれば、権現山は相当な賑わいになるはずだ。

だが、桜がまだ咲いていない弘法山で見たものを、私はたぶん満開の桜より長く覚えている。
ミツマタ越しの富士山。帽子を被った銅像。枝だけの桜のトンネル。二度の命を持つ馬場道。乳の水の井戸。散ることを惜しまれる歌。
馬場道の桜は、戦時中に一度伐られている。今ある桜は昭和30年代に植え直されたものだ。つまりこの山の桜は、放っておいたら咲いたのではない。誰かが植えたから、咲く。誰かが手入れをしたから、毎年咲き続ける。弘法山の鐘もそうだ。40年かけて鋳造し、山火事で割れ、もう一度造り直した。乳の井戸の水を求めて夜中に山を登った母親たちもそうだ。この山にあるものは、すべて誰かが「もう一度」と思ったから残っている。
まだ咲いていない枝を見上げる。あと一週間。あの蕾がすべて開いたとき、この山は圧倒的に美しくなるだろう。しかし、その美しさの中に、馬場道の歴史も、乳の井戸の伝承も、原久胤の歌碑も、溶けて見えなくなる。桜は圧倒的だからだ。圧倒的なものは、他のすべてを消してしまう。
まだ咲いていないものを想像する。それは、もう咲いてしまったものを眺めるより、少しだけ贅沢な時間かもしれない。
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