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終戦の日なので、祖父の話をしよう

祖父が亡くなって、もう何年もたつ。
特に母方の祖父とは仲が良く、いろんな経験をさせてもらった。いろんな話を聞いた。竹藪に入ってたけのこをとって、山できのこをとった。山菜をとろうと入った山で「熊がおったあとがある。そっと逃げるぞ」といって音をたてないように下山した時のことは鮮明に覚えている。祖父がつけた漬物が大好物で、レシピを聞いたら「お前のうちじゃ無理だ。何十キロも漬ける場所ないやろ」と言われたりもした。もう、食べられない。

その祖父は、戦争に行って帰ってきた人だ。何でも教えてくれたし、いろんなところに連れて行ってもらって、大層かわいがってもらったと思う。が、祖父は戦争のことについては、ほとんど語ろうとしなかった。祖母もそれに合わせて何も言わないようにしていた。
祖父から戦争のことを聞いたのは、小学校時代のこと。学校から、「おじいさんおばあさんから戦争のことを聞いてくる」という課題が出た。ノートを片手に祖父を訪ねていくと、やはり断られたが祖母が「宿題だっていうんだから」と言うとしぶしぶ語ってくれた。

祖父は招集されて海外へ行った。
すでにその時祖母と結婚して子供もいた。代々の土地で農業をしながら、会社勤めをしていた。召集令状がきて、そのまま海外へ。銃を持ち、敵と戦っていたらしい。
詳細はわからないが、その戦いの中で祖父は足に銃弾を受けて負傷する。そのまま戦うことはできない。また、治療も現地ではできないということになり、戦地を離脱。帰国することになる。
帰国して治療を受けている中でも、早く戻らねばならないと思っていたらしい。
しかしその思いとは裏腹に、終戦を迎えた。
同じ隊の人たちは全員戦死なさったそうだ。けがをして帰国していなかったら、祖父は生きて帰ってこられなかっただろう。
表立って何か言う人はいなかった。(戦争が終わっていたのが大きいとは思うが)ただ、祖父本人としては、ものすごく居たたまれなかったそうだ。おめおめと帰ってきて、戦地で戦ってお国のために散ることができなかった、と。
これを、さめざめと泣きながら語ってくれた。聞くんじゃなかった、と当時は思ったけれど、今では聞いておいてよかったと本当に思う。

一度私に話してしまったからか(実はこの話を聞いた孫は私だけで、一番かわいがられていた私の弟をはじめ、ほかのいとこたちも知らないらしい)、その後私に戦争のことをぽつりぽつりと祖父は語るようになった。
そのうちの一つが、靖国神社のことだ。祖父は車や電車でけっこういろんなところに出かけていくアクティブな人で、靖国神社にも一度参拝したことがあるそうなのだが、年老いて行動力が落ちてしまってからも、「出来ればもう一度靖国神社に手をあわせにあがりたい」と思っていた。
ある日、施設入所している祖母を見舞った私が、祖父をたずねていくと、洗濯物を取り入れながら祖父がぽつんと言った。
「俺はもう行けんけれども、もしよかったら……機会があったら俺の代わりに靖国神社で手を合わせてきてくれんか」
その時、私は軽く引き受けた。
フットワークの軽いオタクだったから、東京や横浜には年に数回行っていたし、なんならそれを口実に祖父から交通費をせしめられるかも!ぐらいは平然と思っていた。
ただ、祖父存命中にその約束を思い出すことはなかった。

祖父が亡くなって10年ほど経過した頃、ふいにその約束を思い出した。行かなきゃいけない。唐突にそう考えた私は、暑い夏の日に靖国神社へいった。実はそれより前に、靖国神社の近くまではきていた。元々神社仏閣が好きで御朱印を頂く機会が多い私だけれども、なんとなく靖国神社はカジュアルな気持ちで行く場所じゃないと思っていた。だから近くを通っても、「じゃあついでに御朱印頂いていくか~!」とは思えなかった。そんなふうに思っちゃいけないんだ、と考えたからだ。
ただ、その日は「じいちゃんのかわりに、ご挨拶にあがる」と心に決めていたし、そのつもりで、この旅のメインに据えて足を運んだ。
日付は終戦記念日の数日後を選んだ。終戦の日前後数日は人が多いだろうし、ゆっくりと参拝が出来ない気がした。土日も避けた。あえて平日を選んだ。
暑い日だった。でも、日傘をさす気にはなれなかった。
人はあまりいなかった。東京にある大きな神社とは思えないぐらい静かで落ち着いている場所だなと思った。
手を合わせて、祈った。祖父の代わりにここにきたこと。私は戦争を知らない世代であること。安らかに眠ってほしいこと。ここに来たがった祖父のことを思い出しながら手を合わせていたら、思ったより長い時間目を閉じていらしかった。顔を上げて歩き始めた私に、年配の女性が声をかけてきた。
「ご身内に、戦没者の方がいらっしゃるの?」
私は簡単に説明した。戦争に行った祖父がいたこと。祖父は生きて帰ってきたが、戦友たちは皆戦死なさったこと……。祖父が、生前ここにもう一度来たがっていたことまで。
うんうん、と頷きながらそのご婦人は聞いてくれた。どうも、鳥居をくぐるあたりからご夫婦で私を見ていたらしく、長い間手を合わせていたのが気にかかって声をかけてくれたらしい。
「おじい様も、喜んでらっしゃるでしょうね」
「どうでしょう、約束したのにしばらく忘れてて。やっと、なので遅いわ!って怒ってるかもしれないです」
ご婦人は笑ってくれた。

祖父の家には立派な神棚があった。仏壇もあったけれど、祖父は神道の人だった。毎朝毎晩、しっかり時間をとって手を合わせていたし、特別な日には祝詞もあげていたようだ。(すいません、詳しくないので)
時々、神棚の前にぴしっと座っているところを見かけた。祖母は「邪魔したらいかん」と言っていた。今思うと、あれはかつての戦友たちのことを考えていたのかもしれない。(だと思うと辻褄が合うので)

祖父の足には銃弾が残っていると言っていた。レントゲンにも写っていて、私もそれを見たことがある。
「ここに弾が入っとる」
とさすっていたのを何度か見た。
戦中、戦後の医療技術ではその弾を取り出すことは出来ず。ただ、平成に入ってから、取り出せるかもしれないと言われたことはあったようだ。しかし、結果的に祖父はそのままにした。年齢を理由に断ったのかもしれないが、祖父にとってその弾は戦争の象徴みたいなものだったから、もしかしたらそれを抱えて生きるつもりだったのかもしれない。
しかし、亡くなって火葬ののちその弾はなくなっていた。おじやおば、母をはじめ親戚たちは全員祖父の足にのこる銃弾のことは知っていたので、火葬後皆探したのだが、なかった。
「このへんよな?足よな?」
おじは、ちょちょっと骨をつかんで探していたが、ない。埋もれているのかと思ったが、どこにもなかった。
すると、火葬場のスタッフの人がそれを聞いてこう言った。
「戦争終盤になると、日本軍もアメリカ軍も、武器の質が悪くなっていった。なので、お祖父さまの足にはいっていた弾も混ぜ物をいれた粗悪品だった可能性が高いです。すると、火葬するときの温度で溶けてしまうこともありますね」
溶けた後もなかった。
レントゲンには写っているのを何人もが見ているし、それ以降に手術を受けたこともないので、弾がなかったということは絶対にない。けれど、現実に弾は残らなかった。

火葬場にこれなかった祖母にそれを伝えると、
「それでいい」
とぼそっと言った。仲がいい夫婦だったから、祖父がその弾に対してどういう感情を抱いていたかはよく知っていたはず。その祖母が「それでいい」というのだから、それでいいのだろうと納得した。

ちなみに、祖父が戦争に行くときに、祖母にはもう二度と会えないつもりだった。祖母ももう会えないし、子供たちと今度は生きていくしかないと覚悟を決めていたそうなので、帰ってきたときは祖母は心の底から安堵したらしい。実際は、歩行になんら支障もないレベルに回復したのだけれど、もし歩けなくなっても何とかするつもりで祖母はいたんだそうな。
祖母は祖母で、たぶんご近所からあれこれ言われただろうと思うので、大変だったことは想像に難くない。
なんせ祖父母は、大恋愛の末の結婚だったので、孫としては生きていてくれて本当に良かったと思う。

自分が靖国神社に参拝したからだろうか、その後からニュースなどで靖国のことを耳にするとなんだか心がざわつく。あの場所は少なくとも祖父にとっては大切な場所だったし、せめて終戦の日は静かに思い返す場所であって欲しいと思う。

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