『青鞜』抵抗する女性たちの群像 『『青鞜』女性解放論集』を中心に

 1923年9月1日に地震が発生し、その数日後に大杉栄と伊藤野枝、そして彼らの甥である橘宗一が亡くなった。犯人は当時憲兵であった甘粕正彦と彼の部下である。彼らの死因は震災関連死ではなく、人為的な殺人である。3人の死と地震は直接的な因果関係にはない。この事件を振り返ったとき、甘粕らの動機や殺人へ至るまでの経緯を見る前に、伊藤野枝が参加した文芸誌『青鞜』とこの雑誌が刊行された時代背景を見渡してみたい。ここでは堀場清子編『『青鞜』女性解放論集』(岩波文庫、1991年4月3日発行)を中心にして述べてみる。 


 『青鞜』は1911(明治44)年9月、平塚らいてうが中心となって、彼女の考えを共にする女性たちが参加した、日本で最初の女性のみが参加した雑誌である。そして1916(大正5)年2月まで通巻52号でもって休刊となった。岩波文庫版『『青鞜』女性解放論集』に収録された文章の執筆者を見ると、発起人である平塚らいてい、創刊にあたって原稿を寄せた与謝野晶子、木内錠、保持研、尾竹紅吉、上野葉、加藤みどり、福田英、上田君、岩野清(岩野泡鳴の内縁の妻)、安田皐月、茅野雅、荒木郁、生田花世(生田長江の妻)、山川菊栄、伊藤野枝などである。『女性解放論集』には収録されていないが他の参加者には田村俊子、野上弥生子、森しげ子(森鴎外の妻)、国木田治子(国木田独歩の妻)など文学者もいた。こうした文学者の参加は生田長江の助言があった。また創刊メンバーである神近市子はのちに大杉栄と愛人関係となるが、大杉が伊藤野枝へ心移りしたため、大杉を刺して怪我を負わせた。いわゆる日陰茶屋事件である。

 ここに上げた人物の中で今も著作が手に取りやすいのは与謝野晶子を除けば、伊藤野枝と山川菊栄、平塚らいていぐらいだろう。だからといって他の執筆者の書くものが劣るというわけではなく、それぞれに当時彼女たちが直面した問題に対し、熱量をもって対峙していることは、読んでいて伝わってくる。

 『『青鞜』女性解放論集』はテーマ別に編集されている。創刊宣言にはじまり、イプセンの『人形の家』をテーマとした登場人物である「ノラをめぐって」、明治時代末期から大正時代にかけて社会における女性のありかたをテーマとした「新しい女」「性・家・国家」、そして論争篇として「貞操論争」「堕胎論争」「売春論争」と分けられている。これらのテーマだけを見ても、その根底にある問題は、いまもなお引きずり続けているように思える。 

 「新しい女」は、『青鞜』が創刊された当時に言われた一種の流行語のようなものでもあったが、「新しい」という言葉が冠されているように、それまで女性が置かれた立場に変革を訴える空気があったとうかがえる。『青鞜』が発行されて間もない頃はジャーナリズムは好意的に受けとめていたが、ある出来事をきっかけにその論調は非難へ転じた。それは吉原見学であった。
 尾竹紅吉の叔父である尾竹竹坡(画家)の提案で平塚らいてうと中野初を伴い吉原へ見学に行った。そのことがスキャンダルに取り上げられ、卑俗なものとして中傷されるようになり、進歩的に受けとめられてきた「新しい女」は、一転して『青鞜』に対する非難の言葉となった。だがらいていは自分たちへの誹謗に対して開きなおり、「自分は新しい女である」と宣言し、『青鞜』第三巻の一号と二号の付録で「新しい女」の特集を組み、非難する世論に対し反論した。

 「新しい女」という主題からはらいてう、伊藤野枝、岩本清、加藤緑、福田英子の文章が選ばれている。らいてうはエレン・ケイ著の『恋愛と結婚』を紹介しながら、「新しい女」の所感を述べている。ちなみにエレン・ケイはスウェーデン人の社会思想・女性運動家であり、当時『青鞜』の参加者たちにとってひとつの指針となっていた。伊藤野枝は「新しき女の道」と題したエッセイを書いているが、文庫本にして3ページ程度の短い文章で、「新しい女」という定義の宣言文といった内容である。

 一方で岩野清の「人類として男性と女性は平等である」はユニークな視点で書かれている。冒頭、「男性を先輩として尊敬する」と持ち上げ、すぐに「婦人を論ずるある者のように、絶対に女性が男性よりも劣者であるという説には肯定できない」と言い切る。また、知人から男性と女性では力に差があり、男ひとりの力に対し、女は二人分必要という理由から「男は先天的に女よりも優者である」と言われたという。常識的に考えればまったく根拠もないし、いかにもマッチョな思考だが、こうした考えはいまも潜在的に存在するかもしれない(2025年1月以降のアメリカを見れば、それは顕著だ)。

 岩野はさらに、もっとも優勢な者は相撲取りになり、それよりの優位者は熊、大蛇になるという。ふざけた理屈になるが、そもそもが根拠のないふざけた言い分のため、拡張すれば永遠に冗談みたいな展開になる。ここで男性側がいう優勢とは、明らかに力による優位性を意味する。それは腕力であり、権力である。岩野の文章が発表されたのは1913年1月であることを踏まえると、力による優位性を誇らしく思う心理が男性にあって当然かもしれない。日露戦争に勝利し、朝鮮を植民地化していた日本において、優位性は暴力によって成し遂げられていた。それが男性の優位性であり、幕末の動乱から続く闘争の延長にある時代であった。

 だが女性も男性も性別以前に人間であり人類である。ただ生理的、身体的な機能が異なる。端的にいえば女性は妊娠する可能性があるため、社会的な活動が制限され、そのため家を守るのが必然になるという。こうした発想に対しても岩野は反対し、疑義を唱える。「我々は人類の中の女性である」と岩野は言う。

我々は母の体内において性の区別を受くる先きに人類の種として宿ったことをいって置きたい。しかして後に性の区別を受けたのであることをいわなければならない。

 岩野は動物学を論じるつもりではないと断り、そもそも男女の区別以前に人は生物として平等であること、そこに優越はないと述べている。岩野は生物としての男女差(セクシャリティ)は根源的なものであり、変えることはできない。だが社会や世間の中に入ると男女差、つまりジェンダーとして男女に優劣をつけることに疑問を投げかけ、怒りを滲ませる。この当時の日本においてジェンダーという言葉はまだ浸透していなかったであろうから、その概念も確立していないはずだ。岩野は当時の日本におけるジェンダーの問題を実感として受け取り、自らの言葉で表出している。「人類として男性と女性は平等である」は先見性に満ちたエッセイとなっている。

 女性たちは感情までも為政者によって制限され、国家は恋愛という個人の営為も法律によって制御しようとした。この時代、姦通罪が存在した。配偶者のいる者が他の者と関係を持つと罪に問われた。ただし姦通罪は女性にのみ適用されていた。荒木郁が書いた「手紙」はタイトルにある通り、手紙の体裁をとった告白体の創作となっている。この手紙を書いている女性は夫がおり、文面から察して夫ではない自分よりも年下の男性へ向けた内容になっている。そして赤裸々にその男性への想いを綴っている。これが事実かどうかわからないが、実際、荒木郁は恋多き女性であったという。そしてこの「手紙」が掲載された『青鞜』第二巻四号は初めて発禁処分を受ける。家父長制度を是とする国家は多感な女性を許さなかった。

 女性は家に収まり、守るもの│、男性側の理屈もしくは家制度の固定観念に平塚らいてうは正面から異論を唱える。「世の婦人たちに」でらいてうは女性たちに向けて世間の通念に対し疑うよう提起する。らいてうは人から「独身主義者なのか?」と問われると、それに対し「独身主義を唱えたこともなければ、結婚主義もまた良妻賢母主義とかいうものも主張した覚えはない」と答えた。当時の人々には「新しい女」とはすなわち独身を貫き、結婚をしない女性、という定説を勝手に抱いていた。らいてうは結婚自体を否定しているのではなく、女性にとって結婚とは家に入り、支えることがその役目、という発想に対し疑いを持てと、特に女性に向けて訴えてきた。それは男性に従属するものではなく、女性も自らの意見をもって対峙する姿勢をもつことの重要さを述べている。

 恋愛という個人的感情の発露。結婚という当事者同士の信頼を前提とする関係性。いずれにおいても女性は男性に従属する形が常識だと思われてきた。つまり男性側の力によって女性を従わせようとした。こうした関係性は次に取り上げる「貞操論争」「堕胎論争」「売春論争」で問題がより細分化される。

 本書に収められた安田皐月の「生きる事と貞操と」は、生田花世が雑誌『反響』(1914年9月)に掲載した「食べること貞操と」に対する反論として書かれた。編者である堀場の解説によると、生田は貞操の危機にあった女性を取り上げ、逃げる場所がない彼女は〈苦い盃〉を飲んだという。生田の論文が掲載されていないので〈苦い盃〉という表現が具体的に何を指しているのか、あるいは比喩なのかいまいちわかららないが、その後に〈砕かれたことは貴い意味がある〉と書いているので、察するに不本意な形で男性に従うことになり、それは食べていくために必要であった、ということかもしれない。〈女に財産と職業とがない限り、日に何百人と云う女は貞操よりも食べる事の要求を先にする〉とあるように、女性が日常を生きるだけで男性の支配下に置かれざる得ない実情を書いている。

 生田のエッセイを読んだ安田は、貞操を捧げることが〈食べていくために必要〉という件に強い反感を抱く。

「どうせ女だ。女というものは食べられなくなればそんな者さ」
 といわれているような不快を感ずる。

 
 1887年生まれの安田は自立しようと思い、果実店サツキを開いた。女性が自立して生きることに対して積極的だったが、程なくして閉店する。その後声楽家の原田順と結婚。ちょうど貞操論争の時期と重なるという。
「生きる事と貞操と」の中で安田が繰り返し述べているのは「私は私である」という宣言である。自立心の強い彼女にとって生きる手段として仕事を持ち、自らの口を養うことがなによりも第一であった。そこには女は家庭に入り、配偶者に従って生きることへの抵抗があった。食べていくために不本意な形で世話になんてなるか! そんな強い意志が「私は私」と繰り返し言わせたのであろう。女性が食べるためにその身を男性に委ねることは、すでに従属していることであり、人間として扱っていないようにも実感する。だからこそ安田は自立する手段と方法を探り、実践した。

 また安田は結婚後に原田皐月の名義で小説も書いている。「獄中の女より男に」と題された作品は、堕胎罪に問われた女性が獄中で男性に語りかける体裁となっている。これは創作ではあるため彼女の想像の産物であるが、妊娠・堕胎をめぐる当時の世間の認識が見えてくる。未婚の男女が同棲し、女性が妊娠する。だが生活困窮のため、語り手である女性は堕胎することを決意する。だがそのことが発覚し、逮捕される。そして裁判の過程において彼女が生活のための堕胎したこと、本人の意図しない形で妊娠はすること、そして女性は「月々たくさん卵細胞を捨てている」と言い、「受胎したというだけでまた生命も人格も感じ得ません。全く母体は小さな付属物としか思われないのですから」と反論した。これに対し裁判官は「虚無党以上の犯罪」と語り手の女性を糾弾する。女性の身体を法によって支配し、その法に則って女性の人格を否定する裁判官の姿は、権力者の象徴となっている。本作は小説であるが、当時の女性が置かれた身体と法にまつわる問題の核心が描かれており、そのため掲載された『青鞜』が三回目の発売禁止処分を受けることになった。

 そして安田皐月本人には、さらに厳しい現実が待っていた。夫と別居。子供を引き取るが、生活苦と病気に悩まされる。1933年、らいていに手紙を残して失踪。のちに箱根山中で自死したという。

 伊藤野枝は安田皐月の書いたものに反応し、「貞操についての雑感」「私信 │野上弥生様へ│」を書いている。野枝の書くものを読むと、直感の人という印象を受ける。そのため粗雑なところもあるが、そこが彼女の魅力であり、人物像にも反映されていたのかもしれない。そして彼女の直感はことの本質を言い当てている。

最も不都合な事は男子の貞操をとがめずに婦人のみをとがめる事である。これは最も婦人の人格を無視した道徳であると思う。

 これは正論である。なぜ道徳心を女性にばかり求め、男性には免除するのか。その感覚は今も100年前とさほど変わらないが、ネット世論が蔓延る現在において、より酷くなっているかもしれない。それはともかく、この時代、女性には処女性を求められた。野枝はそのことに対し意見する。

私は女が処女を失くしたからといって必ず幸福な結婚ができないという理由はないと考える。

正直な人たちはそうした処女を失ったことを涙と共に告白してかなしい独身生活とかいうあきらめの陰に隠れている。けれども不正直ないわゆる悧巧な人たちは処女を失ったということなど知らぬ顔で立派な結婚をして幸福らしく暮らしている。

 道徳感は時代とともに変化するため、現在の感覚とからすればややずれるところもあるかもしれないが、事の本質は変わらない。根拠のない貞操観念を女性は強いられ、その囲いの中で生きるよう方向づけられる。野枝は世間の常識を疑い、「習俗打破! 習俗打破!」と強く叫ぶ。

「私信」の中で野枝は、「獄中の女より男に」で安田皐月が自分の中で誕生した命を不自然な方法で殺すことは、自分の腕一本を切り落とすのと同じあると述べたことに対し、理解を示しつつも自分の考えは異なるという。

私は自分の身内にあるうちでも子供はちゃんと自分の「いのち」を把持して、かすかながらも不完全ながらも自分の生活をもっていると思います。

 野枝は前夫の辻潤との間には一男の辻まこと(のちにデザイナー、エッセイスト)がおり、大杉栄との間には一男四女がいた。多産であり、先に引用した文章とあわせて考えると、彼女の身体の丈夫さと自立心の強さが伝わってくる。もっとも現在における妊娠という状態の見識からして、母の胎内において〈不完全ながらも自分の生活をもっていると思います〉という意見は妥当かどうか微妙なところだが、あくまで野枝自身の考えとして見るのが適切である。

 この「私信」に対してらいていも反応し、「「個人」としての生活と「性」としての生活との間の争闘について(野枝さんに)」を書く。それだけ伊藤野枝の存在と彼女の発言は無視できないものであった。

 また山田わかによる「堕胎について」は、生活と妊娠を主題としている。ここで書いていることを端的に記すと、生活苦にある者が妊娠したとき、果たして国家はそれを助けてくれるのか、その法整備は整っているのか? という課題を投げかけている。この文章が『青鞜』に掲載されたのは1915年である。110年経つがいまだこの課題は今もなお継続している。

〈売春論争〉は伊藤野枝と青山菊栄(のちの山川菊栄)のテクストが収録されている。野枝が売春問題について書いた「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業について」を読んだ山川菊栄は、「日本婦人の社会事業について伊藤野枝氏に与う」を書いている。このエッセイでもって山川は『青鞜』にて誌面デビューしたが、元々らいてうとは女学校で面識があり、創刊当時に参加してもらうことを考えたが、学業で忙しく断念した。ようやく『青鞜』末期に参加し、売春をテーマにした伊藤野枝の文章に対する返答で登場した。

 編者の堀場も書いているが、山川菊栄の書くものは方法と論旨の展開など技術的には野枝より勝っている。ここで論争の主題となっていることは売春を生業とする女性たちに対する社会的な扱いについてである。野枝は世間的に地位のある婦人たちの団体が、芸娼妓の女性たちを「賤業婦」と呼んでいることに批判する。いわば同じ女性でありながら、社会的な立場が違うからといって娼妓を見下すことに怒りを覚えた。

 これに対し山川はそもそも娼妓という仕事が、国の認可によって行われていることが問題の根本だと提起する。そのためこれは女性間のことではなく、売春を認める国家の制度とそれを許容する状況に問題があると指摘する。すでに吉原のような遊郭は廃止されたが、異なる形で売春及びそれにともなく女性の売買は行われていた。いわば人権問題として公娼制度の存在を批判していた。ちなみに伊藤、山川の売春論争が『青鞜』誌上で展開していたのは1916年である。余談になるが、その2年後の1918年に日本政府は前年に起きたロシア革命を受けて、シベリアへ軍隊を出兵している。その際、男性だけでなく女性も補助の名目で派遣されているが、その中には慰安婦も多くいた。従軍慰安婦のはじまりともいえ、現地では性病が蔓延したという。

 『『青鞜』女性解放論集』を中心にして大雑把であるが振り返ってみた。本書を読むうちに気付いたことは、ここで取り上げられた主題は形が変わったもの、あるいはいまも変わらぬ普遍的な問題もあるが、彼女たちが問題として提起していることは本来ある女性の身体の事情、そしてその身体を道徳や法律でもって制限し、固定観念を植え付けようとする国家あるいは権力者へ対して、常に抵抗し続けているということだ。今から約110年前のことだが、こうした考えは未だに変わらず問題としてあり続ける。それは多くの男性によって占められる為政者側にとって都合が良いからだろう。現在では批判的な態度に出る者に対して露骨な弾圧はできないが、『青鞜』があった当時は権力側の者が直接的な暴力行為によって黙らせることは可能であった。結果としてみれば、関東大震災の発生は為政者である軍部にとって都合が良かった。

 1923年、地震発生から数日して伊藤野枝は大杉栄、甥っ子の宗一と共に甘粕正彦が指導する部下たちによって殺害された。権力者は自分たちの築いた地位を守るため、新たな意見や思想は好まない。大杉の無政府主義、野枝の女性解放論は甘粕のような立場の者にしてみれば、鬱陶しく、危険な言説であった。殺すことで口を封じるのがてっとり早かった。甘粕は逮捕されるも、その後釈放され、満洲へ渡ってプロパガンダを目的とした映画会社を設立し、権勢を振るった。

 1925年、治安維持法が公布される。この悪法は共産主義を取り締まるために作られたが、その範囲は広がり、政権に批判的な者はイデオロギーがなんであれ逮捕の対象となった。それは『青鞜』に参加した女性たちも例外ではない。戦争へ突き進む日本において言論は封殺され、女性解放を唱えた『青鞜』の参加者たちの口も閉ざされた。そして自由な言論が許されまで数十年の時日を要することになった。

いいなと思ったら応援しよう!