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【Ⅲ】『営業ゼロ件、僕はそこから始まった』  自分書店

第3章:再挑戦の朝

 翌朝、健一は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。
 いつもなら布団の中で二度寝を繰り返し、出社の直前に慌ただしく飛び起きていたのに、この日は違った。
 枕元には昨夜、古本屋「サンサーラ」で手に入れた一冊──
『勉強が嫌いだった私が、“学び”を仕事にするまで』が置かれている。

 まだ朝焼けの薄い光が差し込む中、健一はその本を手に取り、数ページを読み返した。

「学びは、自分を守るためではなく、誰かのためにある」

 シンプルな言葉なのに、胸の奥を強く揺さぶる。
(誰かのために……。俺はずっと、自分の数字や評価ばかりを気にしていた。家族の顔、顧客の声から目を逸らしていたんだ)

 そう思った瞬間、心の奥に小さな炎が灯った気がした。


 健一は布団から抜け出すと、スーツにアイロンをかけ始めた。
 シュウ、と蒸気が立ちのぼり、深い皺が伸びていく。
 (俺自身も、こんなふうにほぐしてやらなきゃいけないんだな)と思わず口元が緩む。

 ワイシャツのボタンを留め、ネクタイを結ぶ。
 鏡の前に立つと、相変わらず疲れた顔だが、目の奥には昨日までになかった確かな光が宿っていた。
 その変化はわずかでも、自分にとっては大きな一歩だった。


 リビングに降りると、妻の有里が朝食の支度をしていた。
 トーストの焼ける香ばしい匂いが広がる。
「おはよう。……今日は早いのね」
 振り返った有里の表情には驚きと、少しの安堵が浮かんでいた。

「ちょっとな。やりたいことがあるんだ」
 健一は、昨夜から胸に溜めていた言葉を迷わず口にした。

 食卓に座った息子がパンをかじりながら言う。
「パパ、今日かっこいいじゃん」
 その一言に健一は思わず笑みをこぼした。
 その笑顔を見て、有里もふっと肩の力を抜いたように微笑む。

「……期待してるわよ」
 小さな声だったが、確かに背中を押してくれる言葉だった。


 通勤電車に揺られながら、健一はカバンの中の本を撫でていた。
 開かずとも、その存在が心を支えてくれる。
 窓に映る自分の顔に向かって、小さくつぶやく。
(今日は変わる。俺は“聞く営業”をやるんだ)

 目指すのは、何度も訪れては門前払いを食らってきた中小企業の社長のもとだった。
 これまでは「契約を取らなきゃ」と焦るあまり、相手の話を遮っては商品の説明をまくし立て、煙たがられてきた。
 今日は違う。数字を追いかけるのではなく、まず相手の声を聴く──その決意だけは固まっていた。


「佐藤さん、また来たのか」
 応接室に通されるなり、社長は苦笑した。
「正直に言うと、うちはもう他社に頼んでる。君と話すことなんてないんだ」

 健一は深呼吸をし、これまでの自分を振り払うように言った。
「社長。もし差し支えなければ……御社が今、一番困っていることをお聞かせいただけませんか?」

 社長の眉が動く。意外そうな顔でこちらを見た。
「困っていること……?」
「はい。今日は売り込みではありません。御社の状況を知りたいんです。何か力になれるかもしれない」

 沈黙。
 その間、健一の心臓はドクドクと音を立てていた。
 だがやがて、社長は視線を落とし、言葉を吐き出した。

「……実はな、人手不足で現場が回らんのだ。受注を増やしたくても、対応できない。だから新しい契約なんて考えられなかったんだよ」

 健一はうなずきながら必死にメモを取る。
 (これまでなら“契約できない理由”と切り捨てていた。でも今は違う。これこそが“学びの材料”なんだ)

「なるほど……。現場の負担を減らす仕組みがあれば、受注拡大も視野に入るんですね」
 自然と、相手の言葉を繰り返しながら整理していた。

 社長は少し驚いたように笑い、
「君みたいにちゃんと話を聴いてくれる営業マン、久しぶりだよ」
と呟いた。

 契約はその場では成立しなかった。
 だが帰り道、健一の足取りは軽かった。
 断られることに慣れきっていた自分が、今日は確かに“相手の声を聴く”ことができた。
 それだけで胸が熱くなった。


 数日後。
 会社で報告書を書いていると、スマホが震えた。
 表示されたのは──あの社長の名前。

「佐藤さん。この前はありがとう。実は、新しいプロジェクトが動き出すことになってね。君に一度、相談したいんだ」

 その一言に、握っていたスマホが熱を帯びたように感じた。
 心臓が高鳴り、視界がにじむ。

「ありがとうございます! ぜひ伺わせてください!」

 通話を終えると、こらえきれずに椅子に背を預け、天井を仰いだ。
 契約の話ではなく、“相談したい”と言われたことが何よりも嬉しかった。

(俺は……まだやれる。きっとやれるんだ)

 小さな奇跡が、確かな自信を胸に刻んだ。


🔮次回予告

第4章「愛する人の支え」
小さな成果を家族に報告する健一。
「パパ、すごい!」──子どもたちの笑顔、妻の安堵の涙。
家庭に再び光が差し込む瞬間を描く。

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