短編小説:子どもたちのお勉強会
舞台は未来の長野市郊外。
朝から降っていた雪は止み、雲の切れ間から冬の日差しが顔を出していた。
畑も果樹園も白く覆われ、リンゴの木々は静かに雪をまとっている。
私の名前は弥生(やよい)、14歳。
今日は近所のお寺でお勉強会の日だ。
古い本堂の障子を開けると、冷たい空気と一緒に子どもたちの元気な声が飛び込んできた。
「弥生お姉ちゃん、漢字の書き方教えて!」
「弥生お姉ちゃん、こっちの計算わかんない!」
「はーい、順番ね」
私は笑いながら返事をする。
本堂には10人ほどの子どもたちが集まっていた。6歳くらいの子から12歳くらいの子まで年齢はさまざまだ。
机の代わりに使っている長机の上には、手作りのノートや鉛筆が並んでいる。
「『森』って字はね、『木』が三つ集まるんだよ」
「ほんとだ!」
「だから木がいっぱいある場所を森って言うの」
「へぇー!」
目を輝かせる子どもを見ると、私まで嬉しくなる。
別の机では同い年の友達、京子(きょうこ)が計算を教えていた。
「36個のリンゴを6人で分けるんだよ。どうなる?」
「えっと……」
「リンゴ6個ずつの箱が何個できるか考えてみて」
「あっ、6だ!」
「正解!」
拍手が起こる。
私たち14歳の子どもたちが、小さな子どもたちに勉強を教える。
今では当たり前になった光景だった。
でも、昔の私はこんなふうではなかった。
私は元々東京に住んでいた。
小学生の頃は毎日塾に通い、憧れの私立中学校に入るために勉強していた。
難しい問題が解けるたびに嬉しかったし、将来は良い学校に行って良い会社に入るのだと信じていた。
ところが3年前、突然すべてが崩れた。
大人たちは不動産バブルとか貨幣経済の崩壊とか難しい言葉を口にしていた。
私にはよくわからなかった。
ただ、お金が急に価値を失い、お父さんもお母さんも仕事を失ったことだけはわかった。
学校は閉鎖された。
塾もなくなった。
街のお店も次々と姿を消した。
私が目指していた受験も、その先の未来も、まるで雪が溶けるみたいに消えてしまった。
何のために勉強していたのかわからなくなった私は、自分の部屋に閉じこもるようになった。
そんな時、家族で長野に移ることになった。
祖父母の果樹園を頼るためだった。
正直に言うと嫌だった。
友達もいない。
田舎暮らしなんて知らない。
東京に戻りたいと思っていた。
だけど、長野での生活は私の想像とは全然違った。
春には畑を耕し、
夏には野菜を育て、
秋にはリンゴやブドウを収穫し、
冬には雪の中で遊ぶ。
最初は何もできなかった。
リンゴの収穫も遅い。
野菜の見分けもつかない。
スキーも転んでばかり。
昆虫を食べる文化なんて理解できなかった。
私が東京で覚えた知識は、ここではあまり役に立たないように思えた。
悔しかった。
そんな私を外へ引っ張り出したのが京子だった。
生まれも育ちも長野。
私と同い年なのに、畑仕事も山歩きも何でもできる。
「弥生、また家にいるの?」
ある日、京子は平気な顔でそう言った。
「別に」
「畑手伝ってよ」
「やったことないし」
「じゃあ教える」
そのまま半ば強引に連れ出された。
最初は嫌だった。
でも京子は笑いながら何でも教えてくれた。
畑のこと。
果樹園のこと。
山のこと。
地域の祭りのこと。
私は少しずつ、この土地を好きになっていった。
そしてある日、京子が言った。
「子どもたち、勉強する機会ないよね」
「まあ……そうだね」
「だったら私たちで教えようよ」
「私たちで?」
「弥生、勉強得意なんでしょ」
「得意だっただけだよ」
「十分十分」
そう言って笑う京子に押し切られた。
学校は使うことができない。
だから地域のお寺を借りた。
最初は数人だった。
それが少しずつ増えていった。
今ではほぼ毎日のように開かれている。
「弥生お姉ちゃん!」
呼ばれて我に返る。
「この漢字できた!」
小さな女の子がノートを見せてくる。
少し曲がっているけれど、ちゃんと書けていた。
「うん、上手だね」
「やった!」
満面の笑み。
それを見ていると、胸の奥が温かくなる。
昔の私は、テストの点数や受験のことばかり考えていた。
でも今は違う。
誰かの役に立つこと。
誰かができるようになること。
それが嬉しい。
勉強には、そういう喜びもあったのだと初めて知った。
やがて鐘の音が鳴る。
お昼の時間だ。
「今日はここまでー!」
京子が元気よく声を上げる。
子どもたちが一斉に歓声を上げた。
持ってきたおにぎりや野沢菜漬を広げながら、みんなで昼食を取る。
外では雪がきらきら光っていた。
昼食を食べ終えた頃、京子が立ち上がる。
「午後は勉強なし!」
「えー!」
「その代わり!」
京子がにやりと笑う。
「みんなで雪合戦しよう!」
「やったー!!」
本堂が歓声で揺れる。
子どもたちは我先にと外へ飛び出していった。
私も立ち上がる。
「弥生も来るよね?」
京子が聞く。
「もちろん」
私は笑った。
雪の積もった境内へ出る。
冷たい空気が頬を刺す。
だけど不思議と寒くない。
子どもたちの笑い声が青空へ響いていた。
3年前には想像もしなかった未来だ。
受験も学校もなくなった。
でも、その代わりに失わなかったものもある。
人と人とのつながり。
学ぶことの楽しさ。
そして、自分が誰かの役に立てるという喜び。
「弥生ー!」
京子の投げた雪玉が飛んでくる。
「わっ!」
顔が雪まみれになる。
「やったな!」
私は雪を握りしめる。
冬の青空の下、子どもたちの笑い声はいつまでも続いていた。
