【愛縁奇縁/転生編】第零話:結んだ想い
―如月――
山の天気は気まぐれだ。
さっきまで澄んでいた空が急に翳り、如月の頬を雨粒が打つ。
「……っ、うそ…………」
下山はもう間に合わない。
濡れた岩肌は滑りやすく、足を踏み外せばただでは済まない。
焦る心を押さえ、私は目を凝らす。
視界の先にぽっかりと口を開ける洞窟を見つけた。
「……ここ、なら……」
薄暗い洞窟の中。雨音だけが響いていた。
息を潜めるように中へ足を踏み入れた如月は、
何かに引き寄せられるように奥へ進む。
空気の重いその場所に、黒い岩が鎮座していた。
まるで誰かが眠っているかのような輪郭。
風に揺れる数枚のお札が貼られている。
「っ……なに、これ…………? ……」
私は奇妙な岩の前で立ち尽くす。
理解を超えた恐れと、どうしようもない懐かしさを感じた。
呼吸が浅くなり私はそっと手を伸ばす。震える指先が札の角を掠める。
ぱしんっ――
張り詰めた空気が裂けるような音が響いた。
風もないのに突風が巻き起こり、足元が揺らいだ。何かが崩れる音。
目の前の【岩】が罅《ひび》割れる。
「……っ!?」
私が後ずさった瞬間、割れた岩の中から一人の男が現れた。
閉じていた瞼がゆっくりと開かれると、真紅の瞳と目が合う。
額には入れ墨のような紋様。
赤黒い角が生え、肌は白磁のように滑らかで冷たい。
だがその表情はどこか苦しげで、懐かしさを宿していた。
「……如月……?」
低く、どこか震えた声が空間に響く。
「え……どうして、名前?」
私がそう問いかけると、男は血の様に赤い瞳を細めた。
次の瞬間、戸惑う私の腕を掴み抱き寄せる。
驚いた私は息を呑み、固まった。だがすぐに我に返り、抵抗する。
「っ! ちょ、ちょっと!!」
「夢じゃ、ない……やっと、やっと会えた……如月っ」
体温は人間とは思えないほど冷たい。だが、その声は酷く切実だった。
恐怖と混乱の中でも、私の心に何かが響いた。
そのとき、奇妙な違和感が走る。
初めて見るはずなのに、腕の中だけが何故か懐かしい。
「……え、え? だ、誰……?」
「如月……俺は、黑《よる》じゃ。
こん名はな……かつて、お前さんが俺さくれた名だ。
……のう、覚えちょらんか? なんぞ、思い出さんか?」
まるで祈るように、縋るように、弱々しさを含んだ声。
その声音は、眼前の男には不釣り合いで……でも、とても懐かしい。
目の前の男の声に重なるように、
遠いどこかで同じ声を聞いた記憶……――――いや、感覚だけが蘇る。
(風が、鳴いていた……あの場所で…………)
脳裏に、古びた神社の境内。
酷く寒い夜「助けて」と呟いた私に手を差し伸べてくれた誰かの温もり。
名も知らぬその人に、呼ばれた記憶が残像のように脳裏を掠める。
(……誰かが、私を……呼んだ? あの声……)
言葉には出来ないのに心だけが覚えている感情。
忘れていた筈の悲しみと、安らぎと、恋しさが綯《な》い交ぜになって、
更に胸が締めつけられる。
「……よる……なんで?
あなたの、声が……名前がっ、こんなにも……懐か、しいの?」
ぽたりと落ちた滴は雨ではない。再会の涙だ。
時を超えても魂は惹かれ合う。私たちは、再び出会えた。
その瞬間。洞窟の闇が静かに明るくなり始める。
私の中で忘れられていた痛みと温もりが、
ゆっくりと蘇っていくのを感じた……――――。
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