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考える世界史 第70節 講義:第一次世界大戦後の西アジア~帝国の遺産と現代中東問題の起点~

  第一次世界大戦は、何世紀にもわたって西アジアに君臨したオスマン帝国にとどめを刺しました。この巨大な帝国の崩壊は、しかし、西アジアの人々に平和をもたらしたわけではありません。戦勝国イギリスとフランスは「委任統治」の名の下にアラブ人の土地を恣意的に分割し、大戦中にアラブ人に約束した独立を平然と反故にしたのです。
  この裏切りに対し、西アジア各地で民族の覚醒と激しい抵抗運動が巻き起こります。滅亡の淵に立たされたトルコでは、ムスタファ=ケマルがイスラームの伝統を根底から覆す徹底した世俗化改革によって近代国家を建設しました。イランではパフラヴィー朝が成立し、アラビア半島ではサウジアラビアが建国され、エジプトではワフド党が激しい独立運動を展開しました。そしてパレスチナでは、ユダヤ人入植者とアラブ人の間で、現代に至る終わりのない対立の種が蒔かれたのです。
  今日の中東世界が抱える紛争の根源は、すべてこの時代に遡ります。現代中東問題の「起点」を読み解く講義です。

第11章 二つの世界大戦

第70節 講義:第一次世界大戦後の西アジア~帝国の遺産と現代中東問題の起点~

導入:オスマン帝国なき後の西アジア

  皆さん、こんにちは。前回の講義では、1920年代の欧米三大国、すなわち「永遠の繁栄」を謳歌しつつ排外主義を強めるアメリカ、ファシスト党のムッソリーニが一党独裁を確立したイタリア、そしてスターリンが五カ年計画と農業集団化を推し進めるソ連の姿を見てきました。
  今日は視点を大きく移し、同時代の西アジア(中東地域)の動向を扱います。第67講で見たとおり、パリ講和会議が掲げた「民族自決」の原則はアジア・アフリカには適用されず、オスマン帝国の旧領土は英仏の委任統治領として分割されました。このことは、ヴェルサイユ体制がいかに帝国主義的な本質を残していたかを如実に示しています。
  しかし、この欧米の圧力に対して、西アジアの指導者たちは座して従ったわけではありません。彼らはそれぞれの方法で自立を模索しました。その方法は大きく二つに分かれます。一つは、トルコのケマルやイランのレザー=ハーンのように、イスラームの伝統を排除して西欧型の国民国家を建設する「世俗的近代化」の道。もう一つは、サウジアラビアのイブン=サウードのように、イスラームの原点に立ち返ることで国家を統合する「イスラーム復興」の道です。この二つの対照的なアプローチは、現代のイスラーム世界を読み解く上でも不可欠な視座となります。

パート1:トルコ革命とケマルの近代化改革

第1 オスマン帝国の近代化の系譜とその挫折
  ケマルの改革を理解するためには、19世紀以来のオスマン帝国の近代化の試みを振り返る必要があります。
  19世紀半ば、列強の圧力に直面したオスマン帝国は、タンジマート(恩恵改革)と呼ばれる上からの近代化を開始しました。「宗教・民族を問わず全臣民を法の前に平等なオスマン人とみなす」というオスマン主義を掲げ、行政・司法・軍事の西欧化を進めましたが、外債増加で財政が破綻しました。1876年にはアジア初の憲法であるミドハト憲法が制定され、二院制議会と責任内閣制が定められましたが、アブデュルハミト2世が翌年これを停止し、パン=イスラーム主義を利用した専制政治に回帰しました。1908年には日露戦争での日本の勝利に触発された青年将校たち(統一と進歩委員会)が青年トルコ革命を起こしてミドハト憲法を復活させましたが、彼らはやがてパン=トルコ主義(トルコ民族主義)に傾斜し、アラブ人の反発と離反を招いて帝国の解体を加速させました。
  つまり、オスマン帝国の近代化は「オスマン主義→パン=イスラーム主義→パン=トルコ主義」と統合理念を変遷させながらも、いずれも帝国を救うことはできませんでした。ケマルの改革は、これら19世紀以来の長い近代化の試みの延長線上にある究極の到達点であり、多民族帝国の維持を完全に諦めて、アナトリアのトルコ人のみによる国民国家と徹底した世俗主義を選択した決断だったのです。

第2 セーヴル条約からローザンヌ条約へ
  第67講で扱った内容の復習になりますが、流れを確認しておきましょう。第一次世界大戦でドイツ側(同盟国)として参戦し敗北したオスマン帝国は、1920年のセーヴル条約で大幅な領土削減、治外法権(カピチュレーション)の復活、関税自主権の喪失を押しつけられ、事実上の半植民地化という国家解体の危機に瀕しました。さらにギリシア軍が小アジア西岸のイズミルを占領すべく侵攻してきました。
  これに対し、ガリポリの戦いで英仏連合軍を撃退した英雄ムスタファ=ケマルが抵抗運動を指導しました。1920年にアンカラでトルコ大国民議会を組織してトルコ国民軍を率い、激戦の末にギリシア軍を撃退しました(ギリシア=トルコ戦争)。1922年にスルタン制を廃止してオスマン帝国を滅亡させ、1923年にはローザンヌ条約を締結してセーヴル条約の屈辱的条項を撤回させました。治外法権は撤廃され、関税自主権も回復し、トルコの主権が確立されたのです。同年、アンカラを首都とするトルコ共和国が成立し、ケマルが初代大統領に就任しました。

第2 ケマルの近代化改革
  ケマルは、イスラームの伝統を排除して西欧型の国民国家を建設するという、極めて急進的な近代化政策(世俗主義)を断行しました。その内容は多岐にわたります。
  まず、1924年にカリフ制を廃止しました。イスラーム世界の最高宗教権威であるカリフの地位を消滅させ、オスマン家を国外追放したのです。これは政教分離に向けた決定的な一歩でした。1928年には憲法からイスラーム国教制の条項を削除し、トルコを世俗国家として明確に規定しました。同時に、イスラーム法(シャリーア)を廃止し、西欧的な法律を採用しました。新民法により一夫多妻制も禁止されています。
  文化面では、1928年にアラビア文字を廃止し、ローマ字(ラテン文字)によるトルコ語表記を義務づけました。アラビア文字は複雑で難しいため、国民教育の普及と識字率の向上が最大の狙いでした。新しいローマ字体系はトルコ語の母音をすべて表記できるよう合理的に設計されており、教育の面でも大きな効果が期待されました。また、太陽暦(グレゴリウス暦)を採用し、伝統的なトルコ帽(フェズ)の着用を禁止しました。神秘主義教団(スーフィズム)の修道場も閉鎖されています。
  女性の解放も重要な改革です。女性のチャドル(顔や体を覆う布)着用を禁止し、1934年には女性参政権を付与しました。同年、姓名法が制定されて西欧風に姓を名乗ることが義務づけられ、大国民議会はケマルに「アタテュルク(父なるトルコ人)」の尊称を贈りました。

第4 改革の限界と遺産
  しかし、ケマルの改革にも限界がありました。改革は上からの強権的なものであり、トルコは実態としてケマル率いる共和人民党の一党独裁体制でした。また、土地改革は実施されず、農村部の近代化は遅れました。
  さらに、トルコ民族主義を強化したため、国内のクルド人を独自の民族として認めず、「山岳トルコ人」と呼んで同化政策や弾圧を行いました。「国を持たない世界最大の民族」と呼ばれるクルド人は、トルコだけでなくイラク、シリア、イランにまたがって居住しており、サイクス=ピコ協定による人為的な国境線と、ケマルのトルコ民族主義が重なって生み出された問題です。この問題は現在に至るまで中東の不安定要因であり続けています。
  1934年の姓名法制定に伴い、大国民議会はケマルに「アタテュルク(父なるトルコ人)」の尊称を贈りました。ケマルは1938年に死去しますが、彼の世俗主義路線はその後のトルコ共和国の国是として受け継がれ、トルコがNATOに加盟して西側陣営に帰属し、EU加盟を目指す基盤となりました。
  それでも、ケマルの改革がセーヴル条約という不平等な戦後秩序を実力で覆し、近代的な国民国家を建設した点は、アジア・アフリカの民族運動に大きな希望と刺激を与えました。イランのレザー=ハーンがケマルをモデルに近代化を推進したことはその典型的な例です。

パート2:イランとアフガニスタン

第1 パフラヴィー朝イランの成立
  イラン(カージャール朝)は、第一次世界大戦で中立を宣言したにもかかわらず、イギリスとロシアの軍事介入を受け、戦後もイギリスの強い影響下に置かれてカージャール朝の威信は地に堕ちていました。
  1921年、軍人レザー=ハーンがクーデタを起こして実権を掌握し、1925年にはカージャール朝を廃して自ら国王(シャー)となり、パフラヴィー朝(1925~79年)を創始しました。
  レザー=ハーンは、トルコのケマルを明確にモデルとした「上からの近代化(世俗化)」を推進しました。不平等条約の破棄による主権回復を図り、徴兵制や太陽暦を導入し、西欧の法体系を取り入れた刑法・商法を制定しました。また、女性のヴェール着用を禁止するなど、社会的慣習にも踏み込んだ改革を行いました。1935年には、古代イランの伝統を強調し民族意識を鼓舞するため、国号を他称の「ペルシア」から「イラン」(アーリヤ人の国の意)へと公式に変更しています。
  しかし、国内最大の富の源泉である石油利権は依然としてイギリスのアングロ=イラニアン石油会社に握られたままでした。イランの石油は大英帝国の海軍を支える戦略物資であり、イギリスが最も手放したくない利権の一つだったのです。レザー=ハーンはイギリスの干渉を排除するためにナチス=ドイツに接近しましたが、これが仇となり、第二次世界大戦中に英ソの侵攻を受けて退位させられ、息子のパフラヴィー2世に王位を譲ることになります。石油利権をめぐるイランとイギリスの対立は、その後も1951年のモサデグ首相による石油国有化運動や、1979年のイラン革命へとつながっていく長い歴史の出発点です。

第2 アフガニスタンの独立
  1880年の第2次アフガン戦争以来、イギリスの保護国とされていたアフガニスタンは、大戦後の1919年に第3次アフガン戦争を起こしてイギリスと戦い、ラワルピンディー条約によって外交権を回復して完全な独立を果たしました。立憲君主制のもとで近代化に着手しましたが、急激な西欧化は保守的な部族や宗教指導者の反発を招き、政情不安が続きました。

パート3:アラビア半島とサウジアラビアの建国

第1 フセインのヒジャーズ王国とアラブの反乱
  第一次世界大戦中の1915年、イギリスはアラブ人に対し、大戦後の独立を約束する秘密協定(フセイン=マクマホン協定)を結びました。これに基づき、メッカの太守(ハーシム家)であるフセインはオスマン帝国に対する「アラブの反乱」(1916年)を起こしました。武器はイギリス製であり、実際にアラブ軍を支援・指揮したのはイギリスの軍人ロレンス(「アラビアのロレンス」として有名)でした。フセインはアラビア半島西部にヒジャーズ王国を建国しましたが、大戦後、イギリスが独立の約束を反故にしたことで、彼の権威は急速に衰えていきます。

第2 サウジアラビア王国の成立
  一方、アラビア半島内陸部のネジド地方では、厳格なイスラームの原点回帰を唱えるワッハーブ派と結びついたサウード家の首長イブン=サウードが勢力を拡大していました。ワッハーブ派とは、18世紀半ばにイブン=アブドゥル=ワッハーブが始めたイスラーム復興運動(復古主義)です。「ムハンマドの時代に帰れ」をスローガンとし、コーラン(クルアーン)とハディース(預言者の言行録)のみを信仰の拠りどころとする厳格な唯一神信仰を説きました。のちにトルコ人やイラン人が持ち込んだとされる神秘主義(スーフィズム)の儀礼や、普通の人間を崇める聖者崇拝を堕落として徹底的に批判し、各地で聖者廟を破壊する運動を行いました。
  イブン=サウードは、このワッハーブ派の宗教的権威を背景に軍事力を拡大し、イギリスの支援を失ったフセインのヒジャーズ王国を攻撃してこれを滅ぼしました(1924~25年)。そして1932年にアラビア半島の大半を統一してサウジアラビア王国を建国したのです。
  サウジアラビアは、トルコやイランの世俗的近代化とは対極に位置する国家です。ワッハーブ派の教えとシャリーア(イスラーム法)を国家の基本法とする、厳格な政教一致の絶対君主制国家として現在に至っています。ケマルが西欧化によってイスラームを政治から排除したのに対し、イブン=サウードはイスラームの原点回帰によって国家を統合した。この対照的な二つのアプローチは、現代のイスラーム世界を理解する上で極めて重要な視点です。

パート4:エジプトの独立運動

第1 エジプト近代化の前史とワフド党
  エジプトの独立運動を理解するためには、19世紀以来の歴史を簡単に振り返る必要があります。19世紀初め、ムハンマド=アリーが西洋式軍隊の創設や徴兵制の導入、綿花の専売制など、富国強兵の近代化を断行しました。しかし、その後のエジプトはスエズ運河の建設費などで財政が破綻し、1875年にイギリスがスエズ運河の株式を買収して以降、英仏の経済的支配下に置かれました。1882年にはウラービーの反乱がイギリス軍に鎮圧され、エジプトは事実上のイギリスの保護国となりました。第一次世界大戦の勃発に伴い、1914年に正式に保護国化され、数十万人のエジプト人が輸送や労役に動員されて酷使されました。
  大戦が終わると、弁護士・政治家のサアド=ザグルールを指導者とする民族主義者たちが、パリ講和会議に保護国制の廃止とエジプトの完全独立を要求する「人民代表団(ワフド)」の派遣を試みました。しかし、イギリスはこれを阻止し、ザグルールを逮捕して国外追放しました。この弾圧に反発した民衆が1919年に大規模な反英暴動を起こしました(「1919年のエジプト革命」)。この運動の中から、ザグルールを指導者とするワフド党が結成され、地主・資本家を基盤としつつ農民層にまで支持を広げ、エジプト最大の民族主義政党となりました。

第2 不完全な独立とその後
  暴動に手を焼いたイギリスは、1922年に保護権を放棄し、エジプト王国の独立を形式的に承認しました。翌1923年には憲法が制定されて立憲君主制がスタートし、1924年の選挙ではワフド党が勝利してザグルールが首相に就任しました。ザグルールはただちにイギリスのマクドナルド内閣(イギリス初の労働党内閣)との間で完全独立に向けた交渉に乗り出しました。しかし、イギリスの権力を背景に専制を維持したい親英的な国王ファード1世(ムハンマド=アリー朝)との間で対英外交政策をめぐる激しい対立が生じ、ザグルールは辞職に追い込まれました。ワフド党(民族主義)と国王(親英派)とイギリスという三者の角逐が、その後のエジプト政治を長く規定することになります。
  一方、イギリスはインドへの「帝国の生命線」であるスエズ運河地帯の駐兵権やエジプトの防衛権、スーダンの共同統治権を留保し続けました。1936年のエジプト=イギリス同盟条約では完全な政治的独立が認められましたが、イギリスはスエズ運河地帯における20年間の兵力駐屯権を合法化し、依然として軍隊を駐留させ続けました。「完全独立」と称しながらも実態は外国軍の駐留を伴う不完全なものだったのです。
  この不完全な独立への不満は、のちに爆発します。1948年の第1次中東戦争でイスラエルに大敗すると、腐敗した親英王政への怒りが頂点に達し、1952年にナセルら青年将校の「自由将校団」がクーデタ(エジプト革命)を起こして王政を打倒しました。1956年にはナセルがスエズ運河の国有化を宣言し、英仏の軍事介入を退けて真の完全独立を勝ち取ることになりますが、これは後の講義で詳しく扱います。

第3 ムスリム同胞団の結成
  欧米への従属や西欧化、そして親英的な王政や腐敗した既存政党に対する民衆の不満を背景に、1928年にハサン=アルバンナーがムスリム同胞団を結成しました。彼らはパン=イスラーム主義とコーランに基づく社会の建設を目指し、西欧化は堕落であるとして、イスラームの原点回帰を訴えました。ムスリム同胞団は、その後のイスラーム世界全体の社会運動(いわゆるイスラーム復興運動)に多大な影響を与えていくことになります。

パート5:英仏の委任統治下の中東とパレスチナ問題

第1 イギリスの「三枚舌外交」
  第一次世界大戦中、イギリスは中東における自国の権益拡大のため、相矛盾する三つの秘密協定を結んでいました。第67講でも触れましたが、ここで改めて整理しましょう。
  第一に、1915年のフセイン=マクマホン協定。アラブ人にオスマン帝国からの独立を約束しました。第二に、1916年のサイクス=ピコ協定。イギリス・フランス・ロシアの間で、戦後のオスマン帝国領を分割する密約を交わしました。具体的には、イギリスが南メソポタミア(現イラク)やペルシア湾岸方面を、フランスがシリア・レバノンおよびアナトリア南部を、ロシアが黒海東南沿岸のアルメニア方面をそれぞれ勢力圏とし、パレスチナは国際管理地域とするという内容でした。第三に、1917年のバルフォア宣言。イギリス外相バルフォアがユダヤ系金融資本家ロスチャイルドに宛てた書簡の中で、パレスチナにおけるユダヤ人の「民族的郷土(ナショナル=ホーム)」建設を支持すると表明しました。ただし、この宣言は意図的に曖昧な表現が用いられていました。ユダヤ人側はこれを「国家建設の約束」と解釈しましたが、イギリスは現地アラブ人との対立を避けるようにとも述べており、自らの二枚舌外交に対する責任の回避を図っていたのです。
  注目すべきは、このサイクス=ピコ協定が暴露された経緯です。1917年のロシア革命でボリシェヴィキ政権が成立すると、レーニンは「平和に関する布告」の中で大戦中の秘密条約を暴露し、帝国主義列強の欺瞞を世界に向けて告発しました。このときサイクス=ピコ協定も白日の下に晒され、破棄されました。独立を約束されていたアラブ人は、イギリスが裏では自分たちの土地を英仏で分割する密約を交わしていたことを知り、激しい怒りと反発を抱くことになったのです。

第2 委任統治領の分割
  大戦後、アラブ人の独立の約束は反故にされ、サイクス=ピコ協定をベースとして、旧オスマン帝国のアラブ人地域は国際連盟の委任統治領として英仏に分割されました。
  フランスはシリアとレバノンの委任統治を獲得しました。イギリスはイラク、トランスヨルダン、パレスチナの委任統治を獲得しました。
  イラクでは、反英暴動を抑えるため、イギリスはフセインの息子ファイサルを国王に据えました。ファイサルはもともとシリアの国王として独立を宣言していましたが、シリアがフランスの委任統治領とされたため国を追われ、イギリスによってイラク王に「横滑り」させられたのです。イラク王国は1932年に形式的な独立を果たしました。トランスヨルダンにもフセインのもう一人の息子アブドゥッラーが国王に据えられ、のちにヨルダン=ハーシム王国として独立します。イギリスは、フセインの息子たちを委任統治領のトップに据えることで、自らの影響力を維持しようとしたのです。

第3 パレスチナ問題の萌芽
  そしてパレスチナ。この地こそ、現代中東問題の最も深い傷口です。
  パレスチナへのユダヤ人入植の歴史は、実はバルフォア宣言よりもはるかに古くに遡ります。1881年のロシア皇帝アレクサンドル2世暗殺事件を契機にロシアでユダヤ人に対する大規模な迫害(ポグロム)が激化すると、1882年にはロシアでの迫害を逃れたユダヤ人がパレスチナへの移住を開始しました。その後、1897年にユダヤ人ジャーナリストのヘルツルがスイスのバーゼルで第1回シオニスト大会を開催し、パレスチナにユダヤ人国家を建設するシオニズム運動を組織化しました。ヘルツルが行動を起こしたきっかけは、フランスで起きたドレフュス事件(ユダヤ系軍人の冤罪事件)であり、キリスト教世界に根深く残る反ユダヤ主義の現実に衝撃を受けたためでした。
  大戦後、バルフォア宣言を根拠として世界中からユダヤ人がパレスチナへ移住・入植を始めました。しかし、この地には古くからアラブ人(パレスチナ人)が暮らしていました。ユダヤ人入植者の増加に危機感を抱いたアラブ人との間で、激しい暴動や衝突が頻発するようになります。
  1933年にドイツでナチス政権が成立してユダヤ人迫害が始まると、パレスチナへのユダヤ人流入はさらに加速し、紛争は一層深刻化しました。1936年には、急増するユダヤ人移民に対するアラブ人の不満が爆発し、大規模な反乱(アラブ大反乱)が発生しました。この反乱は3年にわたって続き、イギリスの委任統治を大きく動揺させました。
  事態の収拾に追われたイギリスは、1939年に白書を発表し、パレスチナに受け入れるユダヤ人の数を年間1万5千人に大幅に制限しました。しかし、この措置は今度はユダヤ人側の激しい反発を招きます。アラブ人もユダヤ人もイギリスに不満を抱くという、三者三すくみの構図が出来上がってしまったのです。パレスチナだけは戦間期に独立国家を形成できず、この問題は第二次世界大戦後のイスラエル建国と中東戦争という破局へと持ち越されることになります。

パート6:難関大合格への「思考の深化」

第1 イギリスの「三枚舌外交」と現代中東問題の淵源(一橋大2009年第3問、京大2006年第1問関連)
  一橋大学や京都大学の論述問題では、第一次世界大戦期の秘密外交がいかに現在の中東問題を生み出したかが繰り返し問われています。
  現在のイラク、シリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナ(イスラエル)は、もともと歴史的・文化的に明確な境界線があったわけではありません。サイクス=ピコ協定に基づき、英仏が自らの権益確保のために定規で引いたように恣意的に分割した結果生まれた「人工国家」です。このため、各国はスンナ派・シーア派・キリスト教徒・クルド人といった複雑な民族・宗教を国内に抱え込むことになり、現代のイラク内戦やシリア内戦、さらにはクルド人問題の直接的な原因となっています。

第2 イスラーム世界における「近代化」への二つのアプローチ
  欧米列強の圧力に対抗するため、イスラーム世界の指導者たちは大きく分けて二つの対極的な道を歩みました。一つはトルコのケマルやイランのレザー=ハーンが採った「世俗主義的近代化」です。彼らは西欧をモデルとし、イスラーム法を公的な政治空間から排除(政教分離)し、上からの強権力で国民国家を建設しようとしました。もう一つは、サウジアラビアのイブン=サウードやエジプトのムスリム同胞団が志向した「イスラーム復興(原点回帰)」の道です。西欧化は堕落であるとし、コーランに基づく政教一致の社会を建設することでアイデンティティを確立しようとしました。この「世俗化 vs イスラーム主義」の対立構造は、のちの1979年イラン革命や現代のイスラーム過激派問題を読み解く不可欠な補助線です。

第3 オスマン帝国からトルコ共和国への国家統合理念の変遷(東大2019年第1問関連)
  東京大学の論述では、オスマン帝国の解体過程と、それに際して指導者たちが掲げた国家統合の理念の変遷が問われています。この論点は第70講の核心であり、入試でも最重要テーマの一つです。
  19世紀、列強の圧力で解体の危機に瀕したオスマン帝国では、まずタンジマート期に、宗教・民族を問わず全臣民を平等な「オスマン人」として統合する「オスマン主義」が掲げられ、ミドハト憲法に結実しました。しかしアブデュルハミト2世がこれを停止し、帝国内外のムスリムの連帯を訴える「パン=イスラーム主義」で専制を正当化しました。青年トルコ革命後の統一と進歩委員会はトルコ系の連帯を主張する「パン=トルコ主義」に傾斜し、結果的にアラブ人の反発と離反を招いて帝国の解体を加速させました。
  最終的にケマルは、多民族帝国の維持という夢を完全に放棄し、アナトリアに住むトルコ人のみを対象とした「トルコ民族主義」と「世俗主義」によって、トルコ共和国という国民国家を創出したのです。「オスマン主義→パン=イスラーム主義→パン=トルコ主義→トルコ民族主義」という理念の変遷は、帝国の縮小に伴って統合の対象が狭まっていく過程として理解できます。この構造を明確に述べられるよう準備しておきましょう。
  なお、ケマルの世俗主義路線は、戦後のトルコがNATOに加盟して西側陣営に帰属する基盤となり、EU加盟交渉の前提ともされています。しかし近年、エルドアン大統領のもとでイスラーム主義的な政策への揺り戻しが起きており、ケマルの遺産は現代においてもなお論争の的であり続けています。

まとめ

  今日の講義のポイントを整理します。
  トルコでは、19世紀のタンジマート、ミドハト憲法、青年トルコ革命と、近代化の試みが挫折を繰り返した末に、ケマルがオスマン主義・パン=イスラーム主義・パン=トルコ主義を経て「トルコ民族主義」と「世俗主義」を選択し、セーヴル条約を覆してローザンヌ条約で主権を回復しました。カリフ制の廃止、イスラーム法の廃止、文字のローマ字化、太陽暦の採用、姓名法の制定、女性参政権の付与など、徹底した世俗的近代化改革を断行しましたが、実態は共和人民党の一党独裁体制であり、クルド人問題という負の遺産も残しました。
  イランではレザー=ハーンがクーデタでパフラヴィー朝を創始し、ケマルをモデルとした近代化を進めて国号をイランに変更しました。しかし石油利権はイギリスのアングロ=イラニアン石油会社に握られたままであり、この問題はのちのイランの歴史に長い影を落とします。アフガニスタンは第3次アフガン戦争を経て完全独立を果たしました。
  アラビア半島では、「ムハンマドの時代に帰れ」を唱えるワッハーブ派と結んだイブン=サウードがフセインのヒジャーズ王国を滅ぼし、1932年に政教一致のサウジアラビア王国を建国しました。トルコの世俗主義とは対極にあるイスラーム原点回帰路線であり、この「世俗化 vs イスラーム主義」の対立構造は現代のイスラーム世界を読み解く鍵です。
  エジプトでは、ムハンマド=アリー以来の近代化の歴史を経て、ザグルールのワフド党を中心とする1919年の反英暴動の結果、1922年にエジプト王国として独立が承認されました。しかしイギリスがスエズ運河の駐兵権を留保する不完全な独立であり、1936年の同盟条約後も軍隊駐留は続きました。1928年にはムスリム同胞団が結成され、イスラーム復興運動の源流となっています。
  委任統治の中東では、イギリスの三枚舌外交(フセイン=マクマホン協定・サイクス=ピコ協定・バルフォア宣言)の矛盾が固定されました。サイクス=ピコ協定はロシア革命後にソヴィエト政権によって暴露され、アラブ人のイギリスへの不信を決定的にしました。イラクにはフセインの子ファイサルが、トランスヨルダンにはアブドゥッラーが国王に据えられ、シリア・レバノンはフランスの委任統治領となりました。パレスチナではバルフォア宣言に基づくユダヤ人入植が進み、1936年にはアラブ大反乱が発生。1939年にはイギリスがユダヤ人移民を年間1万5千人に制限しましたが、問題は解決せず、第二次世界大戦後の中東戦争という破局へと持ち越されました。

次回予告

  帝国の崩壊と英仏の分割によって激動する西アジア。しかし、大英帝国に対する怒りの炎は、中東だけで燃えていたわけではありません。
  イギリスにとって最大の植民地であり、「帝国の宝石」と呼ばれたインドでも、民族の覚醒が始まっていました。大戦中に自治を約束されながら、戦後に待っていたのは無慈悲な弾圧法(ローラット法)と、非武装の民衆に対する無差別発砲(アムリットサール事件)でした。この裏切りに対し、粗末な木綿の衣をまとった一人の小柄な男が立ち上がります。「非暴力・不服従」という全く新しい闘争哲学を掲げたガンディーの登場です。
  さらに、オランダ支配下のインドネシアやフランス支配下のベトナムでも、新たな民族独立の波が押し寄せていました。
  次回、第71講「第一次世界大戦前後の南アジア・東南アジア」。アジアの覚醒と、魂の抵抗の軌跡に迫ります。それでは、本日の講義はここまで。復習として、「イギリスの三枚舌外交の内容と、それがパレスチナ問題にどうつながったかを説明せよ」という問いに答えられるようにしておいてください。解散。

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