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坂本慎一先生の『場所的論理と宗教的世界観』論まで早くてあと2年

以下、坂本慎一先生のツイートを全文引用。

“西田幾多郎の「場所的論理と宗教的世界観」は生前に一応完成した最後の論文というだけあって人気があります。西田についてやっつけ仕事で論文を書こうとする人は『善の研究』とこれだけ読むことが多いです。でもその割にこの論文で西田は何を言おうとしたのか、あまりきちんと論じられていないと思うんです。それが先ほどようやく分かりました。300回くらい読んでようやく主要参考文献というか種本が判明しました。300回くらい読むと研究の神様が答えをささやいてくれますね。
発表は早くて3年後くらいになりますが。”



このツイートを読んたのが2025年の8月末であった。

精神障害の真っ最中から回復しつつある現在まで、私は書店で偶然手にした岩波文庫『西田幾多郎書簡集』と『西田幾多郎講演集』から大いに刺激を受け西田哲学を真面目に読むようになった。

特に晩年の西田の宗教論は、2026年の冬〜春にかけて読んだ。その末尾に、こんな一文がある。

「眞の國家は、その根柢に於て自ら宗教的でなければならない。而して眞の宗教的囘心の人は、その實践に於て、歴史的形成的として、自ら國民的でなければならない。而も両者の立場は、何處までも区別せられねばならない。然らざれば、それは中世的として、却って両者の純なる発展を妨げるものである。近代國家が信仰の自由を認めて来た所以である。君主的神のキリスト教と國家との結合は容易に考へられるが、佛教は、従来非國家的とも考へられて居た。しかし鈴木大拙は大無量寿経(41)の此会四衆、一時悉見、彼見此土、亦復如是という語を引いて、此土に於て釈尊を中心とした会衆が浄土を見るが如く、彼土の会衆によって此土が見られる。娑婆が浄土を映し、浄土が娑婆を映す、明鏡相照す、これが浄土と娑婆との聯貫性或は一如性を示唆するものであると云って居る(鈴木大拙著『浄土系思想論』一○四頁)。 私は此から浄土眞宗的に國家と云ふものを考へ得るかと思ふ。國家とは、此土に於て浄土を映すものでなければならない。」

この「国家」とは実は浄土真宗的ではないとするのが私の見方である。浄土真宗のように考えることもできるが、西田の立場は浄土真宗の立場ではないという考えだ。

では、いかなる立場が西田の主張に(結果的に)近いといえるのか。私は真言宗の覚鑁であるように思う。

そんなことを呟いて坂本慎一先生をメンションした。そしたら、引用リツイートとという形で私の動画を紹介していただけた。鈴木大拙の妻は真言宗を研究していたので、大拙も『大乗仏教概論』にて大乗仏教の根本に法身や如来蔵を置き結果として密教的な色彩が強くなったことは周知の事実である。西田も智山大学で教え高神覚昇と交流を持っていたので、密教の下地は十分にあった。

以下、坂本慎一先生のツイートを引用する。

覚鑁という指摘は私もそう思います。というより、ふつうに読んだら此土に於て浄土を映すというのは、覚鑁なのです。
浄土教も臨済禅も自在に論じられる立場とは、ふつうに考えたら覚鑁ですね。浄土真宗から「場所的論理と宗教的世界観」を読もうとする人は押しなべて失敗してきました

表現するものと表現せられるものの自己同一。西田は務台理作宛の書簡でそう言っている。対立しながらも「不二」であるとする考え方は、真言宗の教学においてしばしば見られる。此土と浄土の関係性もまさしくそうであり、国家は浄土という理想を表現し、浄土に矛盾しながらも対応するものであるとするのが西田の国家観ではないだろうか。

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