新美「時代のプリズム」で表現に殴られる
「時代のプリズム:日本で生まれた美術表現 1989-2010」
@国立新美術館
会期:2025年9月3日(水) ~ 2025年12月8日(月)
11月29日に行ってきたので、鑑賞中のメモをもとに備忘録として記録します。展示の順番に沿いつつ、特に印象に残ったものまとめ。

「8番出口」っぽくて思わず撮った
イントロダクション:新たな批評性

ワシントン条約で捕獲が規制されている動物の皮革を使用したランドセル。例えば一番左はタテゴトアザラシの皮を使っています。ハンドバッグとかよりもランドセルに使われているほうが異様な雰囲気があります。ワニ革・牛革だったらふーんで終わりますが、「ワシントン条約」という権威がついてしまうと、「そ、そうか…」と腕を組んで見てしまいます。

遠目から見るとアジアの国旗が並んでいるだけに見えます。
でも近くから見ると……

砂で出来た国旗の中をアリ🐜が縦横無尽に動き回って巣を形成した痕跡です。アリという独自の「社会性」をもつ昆虫が国旗の中に巣を形成しているこの作品に、初めは違和感を覚えました。しかし、国旗すなわち国は人間が勝手に作ったテリトリーであり、他の生き物にとっては何の意味も持ちません。人間が地球に線を引き、混じり合うことのない領土を持つことに考えを巡らせるきっかけになりました。アリの働きによって各国の色が混じり合い、中心の空の枠にはどの国のものでもない模様が積み重なっていきます。分け隔てなく人種・民族が混じり合うことはできるのでしょうか。
この国旗の配置には何か意味があるのでしょうか。分かる方教えてください。あと日本の国旗から血が吸われているみたいで怖い。

展覧会の広告にも使用されている、インパクト大の彫刻。貝や魚、サンゴが入り組むように固まっていて、どうやって制作したんだろう、と素直に疑問に思います。単に丸く中心に集まっているだけじゃなく、有機的な凹凸や空洞がたくさんあるので、まるで一つの生命体のようにも見えます。キャプションによると、環境汚染というテーマのほか、美術評論家のような美の権威への疑念の意も込められているらしい。「何をもって美術・芸術とするか」は曖昧で、評論家や展覧会という「美」を評価するシステムに組み込まれることでしか、作品は作品たりえないのか、という問いかけだと思いました。
タイトルは「美の汚染」。
レンズ1:過去という亡霊

暗い部屋に変わり続ける数字がたくさん光っています。時刻かと思いましたが、桁数も違うし、それぞれが別のペースで増加していきます。2桁ごとが多いけど、「0」は表示されずスペースになるので、区切りの場所が逐一変わっていくように感じました。暗い部屋にこの作品だけ展示されていて少し怖く感じました。

別の企画展で『アトムスーツ・プロジェクト』は見たことがあったのですが、それを着てチェルノブイリに入ってるのは初めて見ました。ちゃんと機能するんだこのスーツ。
機能面では必要なさそうな装飾もあるので画がSFチックですが、チェルノブイリ事故とこの壊滅的な保育園は紛れもないリアルだということがスッと背筋を冷やします。違う星を探検している宇宙飛行士みたいです。
映像作品なので写真は無いのですが、
小泉明郎『若き侍の肖像』2009
もすごく印象深かったです。
日の丸ハチマキを巻いた日本軍兵士を演じる若い俳優を2画面で写した作品で、監督(=小泉明郎)の声で演技指導が入ります。両親に向けた出撃前のメッセージを演技する俳優に対し、監督の指示は一貫して「もっとサムライみたいに」「サムライ魂を出して」などと抽象的なモノだけ。これが繰り返されていくごとに、俳優も力が入り、嗚咽が混じった演技へと変化していきます。それが最高潮になると、監督が「嫌よ!行かないで…!!!〇〇!」と母親役としてセリフに参加し、感極まって互いに叫び出します。同時にバックには安っぽいトランペットのファンファーレ。
なんなんだこれは…となる20分間でした。2人の熱を美学と捉えるのか、冷笑的に捉えるかでかなり変わってきます。私はどちらかというと後者でした。監督も俳優も戦争を知らない世代であり、要求される「サムライ」像もフィクションでしかありません。監督の指示によって、否応なしにやりすぎな演技に変えられ、それを感動的なモノとして消費される俳優に、ある種の恐ろしさを感じました。
レンズ2:自己と他者と

奥:笠原恵実子『Pink』1996
この展覧会の中で一番ドギツい展示だと思います。
上にかかっているのは肉塊から手や足が飛び出ていて非常に不気味。これは人が着れるスーツになっていて、イ・ブルはこれを着て日本の街中を移動するというパフォーマンスも行っています。これを着ながらだと動作が非常に制限されて、展示されていた動画では道に転がって這っていました。女性のもつ不自由さを表現しているそうです。
人間、表は高度に理性的ですよみたいな顔しておきながら、結局は一動物であり、生殖のための機能が(本人が使うかは関係なく)第一、二次性徴で発達していきます。男性は大したデバフになりませんが、女性の場合はどうしてもハンデになるな……と。イベントの日、受験の日、そして大切な日。体調が良くないというだけで100%のパフォーマンスを出すことは難しくなるでしょうから、逆にいままでその存在を全く気にしていなかったことを恥じた記憶があります。しかも人類の半分は"それ"があるんだし。長いライフプランを考える上でも、女性は男性よりはるかに自分の身体と性について考慮するはずです。
個人的な話になりますが、大学生になって彼女ができて、初めて月経というものの話をリアルに聞きました。周期的に子宮内膜がはがれて、毎月周期的に具合が悪くなるという事実。もちろん知識としては知っていたものの、それを実際に同年代の人から話を聞くと、今まで感じたことのない感覚に陥りました。そのとき頭に浮かんだ、生命・肉体の、神聖な、例えようもない”グロさ”は、確かにこの作品のような形をしていました。
その後ろに並ぶ写真たちは、子宮口のモノクロ写真に着色したもの。Xに誰かが「この展示尖りすぎ」みたいな感じで投稿していたので知っていました。「性行為を象徴する膣と生殖を象徴する子宮」の境界線である子宮口は性/生の境界であるという考えから制作されたそうです。モノクロの写真を「可愛さとエロさ」につながる「ピンク」に着色しなおすことで、鑑賞者がもつ女性性(femininity)への意識に再考を促します。

その反対側にあるのがドールハウスみたいな『ザ・ピんくはうす』という作品。これも「ピンク」という色・言葉に「カワイイ/ヒワイ」の二元的なイメージが重ね合わされていること意識しています。ドールハウスとはいっても人間の原寸大ですし、ハートが強調されたインテリアやしわが寄るビニールの質感が、やけに卑猥な雰囲気があって嫌な感じです。『Pink』を境にピンクのドールハウスとピンクの子宮口が配置されているところに、キューレーションの意図を感じました。


スペインの静物画(ボデゴン)をオマージュしたもの

西洋美術の形式ばった所が個人的にあまり好みではないのですが、その"形式"に荒いモザイクがかかっていたり、手がヌッと出てきたり、一つ新しい視点が加えられているのが面白いと思いました。福田美蘭さんのほかの作品も面白いので、今後展覧会があったら行きたいです。
森村さんの作品は絵画ではなく実物の”静物”が暗室に置かれている、という展示でした。展示の仕方が怖い。で作品も怖い。入る時怖くて足が止まった。
レンズ3:コミュニティという未来

本展覧会のポスターにも使われている、『ベジタブル・ウェポン』シリーズです。これのほかにも東京、ソウル、イタリアなど合計6作品が展示されていました。どの作品にも共通しているのが、野菜が現地料理の材料であること、銃を持つのが女性であることです。
「狩猟社会では男は狩りに出て、女は家を守る」というのは最近の研究で覆されつつあるそうですが、戦争の際は真っ先に男が前線に駆り出されていきます。残された女性は家庭を守り、手工業で戦いに協力させられるのかもしれません。しかし、家庭には文化があり、現地には伝統があります。全世界普遍的にこの構図は変わらないと思います。武器を取って異文化を破壊をする男性へのアンチテーゼとして、伝統料理に使われる野菜で出来た銃を手にした女性を写していると考えました。

最後に面白かったやつ。左は作者がタコを釣って東京の風景をタコに見せるというもの。それのポルトガル語の翻訳として、ブラジルの路上アーティストみたいな二人(右)に歌ってもらった、という作品。最後の広い展示室にずっと二人の声とパンディロの軽快なリズムが響いていてクセになります。

海(どこだったか忘れた。有明海だっけ?)で取れたタコを東京に持っていった動画を、ブラジル人に説明される日本人(私)という変な構図でした。この人たちがどんな繋がりを持っているのか、映像だけではよく分かりませんでしたが、とにかく慕っているのは感じ取れました。2人は陽気で、言語が分からなくてもおおらかにタコの作品を吟じていて、見ているこちらも気持ちが軽くなりました。

まとめ:時代のプリズムってなんだ

光学プリズムは、光の進路を変えることに特化した光学機器です。光を異なる方向に屈折させる能力を持ち、その過程で光の分散や反射、屈折などの現象を引き起こします。これらの現象を通じて、プリズムは光の波長、速度、強度、偏光などの特性を詳細に解析するのに役立ちます。
光学プリズムの一般的な用途は、白色光をその構成する色々な波長の光に分解することです。
歴史の教科書には、ある時代の「政治」や「産業」「文化」などが項目ごとに要素分解されて整然とまとめられています。もちろん、同時代に生きた人々がそれを別個のものとして捉えていた訳ではなく、後から振り返るとそのように要素分解できた、というだけです。
同様に、令和の今。現代社会は高度化・多様化が進み、混沌とした塊として時代が進んでいるように感じます。様々なことが複雑に絡み合っているので
、一から解きほぐして理解したり、表現したりすることが非常に難しくなっていると思います。
「プリズム」は、まっすぐに進む光の進路を変えたり、光をいろいろな波長に分解するモノ。
現代アートは、一時代を切り取り、鑑賞者に伝え、時にはその時代に影響を及ぼしたりします。混沌とした現代社会を構成する色々な波長を分解し、言葉ではなく感性としてそれを鑑賞者に伝える現代アートは、まさに「時代のプリズム」。言い得て妙だと感じます。
"Prism of the Period" ではなく "Prism of the Real"
展示されているのは、決してフィクションでもSFでもない、紛れもない現実でした。
おしまい。
