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獅子の仔 Ⅰ 009 べリアン Ⅱ


べリアン Ⅱ


1 水深

 鬱蒼と繁る「西部」ウェスタ―ランズ最大の森林は、海岸線にまで迫り、沿岸の河口の川湊を包み込むように広がっていた。森から流れ出た河川は、いくつかの流れに分かれ、その狭間の中州では川湊が栄えていた。
 優美な曲線を描く海岸線は、白砂の砂浜が広がり、陽光は、青く澄んだ遠浅の海を底まで照らし出した。数えきれない魚影がよぎるこの豊かな海で、小さな漁船がそこかしこで操業していた。

 「麗しの島」フェアアイル長船ロングシップ「赤の海鳥」号は、この遠浅の海を緩やかな曲線を描いて旋回し、やがて船底が浅瀬の砂を擦る鈍い音を立てながら、ゆっくりと桟橋に接舷した。

 べリアンは、船首に立ち、潮風に目を細めた。かざした手で陽光を遮り、眼前に広がる優雅な河口を見渡した。

「やっと着きましたか……。もう両腕が上がりません………」
 後ろで赤毛の従士マイロンが、肩で息をしながら泣き言をこぼした。航海の途中、体調を崩した水夫の代理で櫂(かい)を引く羽目になったのだ。
 だが、周辺の景色に目を奪われたのか、顔を上げて、眩しそうに白砂の海岸を見渡した。
「美しい砂浜ですね。吟遊詩人の歌に出てくるような……」

 べリアンは、マイロンの呑気な感想を黙殺した。沖合にはどこかの樽型帆船コグが停泊していた。平底の艀(はしけ)が、その沖合の帆船と三角州の川湊を往復して荷の積み下ろしをしている様子を一瞥して、顔をしかめた。 

 ベリアンは船内を振り返り、この船旅を大過なく終えた船長のヘイズを労った。
「ご苦労だった。ラニスポートから、この「クレイクの潟」クレイク ラグーンまで、二日半か、素晴らしい速度だ」

「恐縮です、ボウマ卿」
 軽く会釈したヘイズは、小柄で日焼けした初老の男だった。噂に聞いて、指名した甲斐があった。「麗しの島」フェアアイルの船乗りたちの腕は確かだった。
 ヘイズは、まだ腕をさすっている赤毛の従士マイロンの肩を叩いて、その健闘を労っていた。

 顔を上げると、細長い桟橋をこちらに向かって歩いてくる複数の人影が見えた。先頭を歩く小柄な男は、先に派遣していた輜重官のダグウェルだ。舫(もやい)を結ぶ船員たちの脇を抜けて、べリアンを出迎えに寄ってきた。小柄な体に焦茶色の髪、しなびた草色の外套、茶色の短衣チュニックという地味な身なりで、相変わらず真面目そのものの風貌だった。

「ボウマ卿、長旅、お疲れ様でございました」
 ダグウェルは桟橋に降りるベリアンを助けようと手を差し出した。

 ベリアンは手をあげてその助けを制し、渡し板の上を自力で渡り切った。鋼鉄の歩行補助具が鈍く軋む。有能な男だが、ダグウェルの小柄な体ではベリアンの巨躯を支え切れない。

「出迎えご苦労。一目で、港湾の建設は厳しそうだと分かるな」
  べリアンは小柄な部下を見おろして話しかけた。

「早速ですな」
 ダグウェルに苦笑され、ベリアンは己の拙速さに気づいて僅かに口元を緩めた。多少の世間話を挟んだものの、結局はすぐに任務の話へと戻った。

 桟橋を並んで歩きながら、一つ目の任務についてダグウェルが報告するのを聞く。キャスタリーロックの地下倉庫に放置していた、古い武具の払い下げの交渉は、こちらの言い値で妥結したとのことだ。
 古い武具でも鉄は貴重な資源であり、鉄資源に恵まれない、このクレイクホール周辺では猶更そうだ。 
 二つ目の任務について確認を求めた。
 べリアンはこのために、多忙な中、武骨な自分には場違いなこの優雅な海岸にまで、足を運んだのだ。

「この潟に港湾を建設すべきか、それとも他を当たるべきか。お前の結論を聞かせてくれ」
 小柄な部下を覗き込むようにして、尋ねた。

「……どのような困難があろうとも、この『クレイクの潟』クレイク・ラグーンに港湾を築くべきです」
 普段は慎重なダグウェルが、力強く断言した。我が意を得たりと、ベリアンは、この間の調査の説明を促した。

「この河川の水運が極めて有用です。この西部最大の森林を蛇行して、緩やかで十分な水量で流れています。更に、各地の河岸には放牧地や集落もあります。木材は言うに及ばず、毛皮や家畜の輸送が容易に行われており、あの中州の川湊は非常に効率的な物資の集積地として機能しています」

 満足して頷く。ここまでは、べリアンの目算どおりだった。
「だが、この遠浅の岸では海へ物資を輸出する港湾としては話にならん。どうする?」

「はい。この砂地を掘るのも、埋め立てるのも、かなりの難事業です。砂の質がきめ細やかで、海遊びには快適ですが埋め立て地としては最悪です。無理して埋め立てても数年も持たないでしょう」
ダグウェルは淡々と事実を並べた。

「湾内は諦めるというわけか。代案は?」
 ベリアンの質問に答えて、小柄な輜重官は右前方、河口の南岸から外海へと突き出た方向を指し示した。

「あちらをご覧ください。海流に洗われた巨大な黒い岩礁が二つあります。あの岩礁の外側ならば、大型の樽型帆船コグが接舷するのに十分な、十メートル以上の水深が確保できます」

 ベリアンは目を細め、白波を立てる荒々しい岩礁帯を睨みつけた。二つの岩塊を繋げれば、ざっと三十メートルにはなる巨大な天然の防波堤だ。
 二人して、砂浜を歩き、河を渡って、岩礁の麓に辿り着いた。長身のべリアンが見上げる高さだ。迂回して、なんとかよじ登る。岩礁の海側は断崖となっており、確かに水深は十分だ。だが、海流が強い。

「まず、この岩礁の間をどうやって繋ぐ?」

「岩礁の接合面に溝を掘り、鉄の鎹(かすがい)を打ち込みます。あとは粘土で固めて岩同士を連結させます」
小柄な能吏は、岩礁を手にした金槌で叩きながら答えた。

「硬さは十分です。この岩礁の表面を削り、平らにします。海側は海棚状になっている箇所が二つありますので、石を詰めた木箱を幾つか沈めてかさ上げします」

べリアンは、顎の髭をさすりながら岩礁から海側の流れを見渡した。
「もう一つ。この位置では河口からの流れと外海の波がぶつかっている。船を安定して、係留できるのか?」

「おっしゃる通りです。ゆえに、河口側に石積みの「導流堤」を築きます。川の流れを岩礁に当たらないよう外海へ逃がすのです。そうすれば、岩礁の内側は波の立たない穏やかな深水港となります」

ベリアンは押し黙った。
(……岩礁をそのまま波止場として使う。悪くない。極めて合理的だ)

「……外海に面した港になるな。長期停泊には向かんぞ」

「それも諦めます。しかし、河川輸送で中州の川湊に物資を集積させておき、大型船が着いた瞬間に一気に積み下ろしをする体制を組めば問題ありません。船を係留するのは一日で済ませるだけの体制を組みます」

「中州の集積地からここまで、川を超える必要があるぞ。段差もある」

「橋を作ります。ちょうど河の両側が固い岩の場所がいくつかあります。橋を架けるのは可能と判断しました。段差は岩礁の内側に石積みでゆるやかな傾斜を作ります」

「贅沢は言えんな。……よし、その案で進めよう。マイロンも交えて、今夜中に基礎設計と大まかな工程の見積もりを練り上げろ。私はこれからサムナー=クレイクホール卿に面談しに行く。」
 ベリアンがそう言った時だった。ダグウェルが河湊を見下ろす小高い丘の方角へ視線を向けた。

「申し遅れましたが、サムナー=クレイクホール卿は、昨日からこの潟にお越しです」

 三角州の川湊は、積み石により、河口を見下ろす小高い丘となっている。その上から、黒鹿毛の馬に跨りこちらを見つめている騎影が見えた。
 サムナー=クレイクホール卿のようだ。数人の供を連れている。

「実は、そのための石工と人夫の手配は、すでにクレイクホール家が動いてくれています」

 先頭で黒鹿毛(くろかげ)の軽軍馬に跨り、こちらに向かってきているのは、西部の南方を領有する雄、クレイクホール家の次期当主、サムナー=クレイクホール卿だった。上古の時代の英雄「イノシシ殺しのクレイク」を始祖とする最初の人々の末裔。その尚武の血を引くサムナー卿は、馬上からでも分かるほど骨太な体躯をしていたが、歴代の当主たちに比べれば小柄だ。武術よりも読書を好むと噂されているが、その風貌は黒髪に太い眉、張った顎と、一族の象徴である「まだらの猪」を思わせる愛嬌と気難しさを同居させていた。

「サムナー様、ご無沙汰しております。わざわざの出迎え、痛み入ります」

 慇懃に頭を下げるベリアンに対し、上質な黒羊毛の胴衣を着た若き猪は、挨拶も返さずに不愛想に言った。
 「計画の件は聞いている。父も了解した。木と豚は有り余っている。鉄と交換できるなら文句はない」
 挨拶も返さず、結論を言うとすぐ馬首を巡らせて並足で去っていった。慌てて従士たちが後を追う。相変わらずの偏屈な人柄だが、このためだけにわざわざ出迎えに来てくれたのは紛れもなく厚遇だった。

「次席輜重官殿、非礼を許されよ。サムナー様は好意を示すのが苦手でな」
 困り顔の初老の騎士が馬上から詫びてきた。古強者として知られるオルムンド=クレイクホール卿だ。サムナー=クレイクホール卿と異なり、クレイクホール家らしい、骨太で大柄な体格をしている。真っ白な髪と髭、年老いた猪といった風貌だ。

「跡継ぎが迎えに来て頂き、厚遇に恐縮するばかりです」
 サムナーの背中が遠ざかるのを見送りながら、ベリアンはその好意への謝意を述べた。あの「猪の貴公子」は、言葉こそ少ないが、取引の要点は完全に理解している。そして何より、決断が早い。

「クレイクホール家はこの開発に合意致します」
   馬から降りて歩み寄ってきた初老の騎士はべリアンと同じぐらいの巨漢だった。その眼は笑ってはおらず、べリアンの目をじっと見据えている。

 ベリアンは背後のダグウェルに視線をやった。輜重官はすぐさま羊皮紙の束を取り出す。

「お納めください」
 ダグウェルが羊皮紙の束を手渡した。今回の中古の武具を払い下げる取り交しだ。

 初老の騎士は、しわがれた声で低く笑った。
「公妃様のご厚情、ありがたく頂戴いたします。さて、工事の人員は揃えております。いつから取り掛かりましょうか」

「今すぐにでも。輜重官のダグウェルをこの地にしばらく派遣致します。優れた知見を有しておりますので、お役に立てるかと思います」

 振り返ってこの輜重官に指示を出す。
「ダグウェル。ここに残り、クレイクホールの石工たちと協議して基礎工事を遂行しろ。立案どおり、河口の南側に、水流を外海へ逸らすための「導流堤」を築き、あの二つの巨大な岩礁をそのまま埠頭として利用するための防波壁とせよ」

「……御意に」
 ダグウェルは口元を引き締めて片膝をついて、承服した。

   ベリアンは大きく深呼吸をした。
 ラニスポートの空気とは異なり、ここでは、青々とした森の湿った空気と、海から吹き込む潮風が混ざり合った、自然の豊かな匂いがする。

  オルムンド卿が、静かに呟いた。
「……公妃様にくれぐれもご自愛くださいとお伝え頂きたい。我らは南の端、駆けつけるには遠すぎる」

  べリアンは深く頷いて、頭を下げた。
「あの方こそが、「西部」《ウェスタ―ランズ》の要石。我らが命に換えてもお守り致します」

2  荒れる海

「では、頼むぞ。二か月でなんとか工事を軌道に載せてくれ」
   桟橋の上で、小柄な部下の肩を叩く。

「全力を尽くします」
   小柄な輜重官は明言を避けた。いくつか困難な作業の目途がたっていないという。その頑なさに苦笑しつつ、横に並ぶ石工たちの背中を軽くたたいて桟橋から船に降りる。
既に「赤い海鳥」号の漕ぎ手たちは船に揃っており、べリアンの乗船を待っていた。

 舫い綱が解かれ、水兵たちが一斉に長柄のオールで浅瀬の海底を突き、砂に乗り上げていた船体を海へ押し出す。
「麗しの島」フェアアイル長船ロングシップ 「赤い海鳥」号はゆっくりと動き出し、波間に浮かび上がった。
 ヘイズ船長が号令をかけた。
 鬱蒼と繁る森に抱かれた潟を後にして、船は海面を滑り出した。ダグウェルと石工や官吏たちが、桟橋の上から船を見送っている。ここの整備は、彼らに任せるしかない。

 ラニスポートへの帰り道は、往路のように順調にはいかなかった。

 出港して半日。陽が傾き、海面が血のように鈍い茜色に染まり始めた頃だった。船柱マストの上の見張りが、波音を切り裂くような悲鳴を上げた。
「南東の方向に船影! 黒い帆です。大型の長船ロングシップが迫ってきます!」

   ベリアンとマイロンがすぐさま、船体中腹の甲板に駆け上がり、目を凝らす。二十人の漕ぎ手たちの背中にも、一瞬にして冷や汗が這い上がったのがわかった。

「大型の長船ロングシップだと……。「鉄諸島」アイアンランズの協定破りか、「跳び石諸島」ステップストーンズの海賊か。まともにやり合えば数が違いすぎる」
   「麗しの島」フェアアイル出身の船長ヘイズが忌々しげに舌打ちをし、甲板を踏み鳴らして号令をかける。

「暗くなるまで逃げ切るぞ!双帆に風をはらませて風下へ逃げる! 北東へ旋回しろ!」
   漕ぎ手たちは悲鳴のような掛け声を上げ、息を揃えて櫂を引き、船体を大きく旋回させた。ここからは純粋な速さ比べだ。

 ヘイズ船長が叫ぶ
「盾板を立てろ!号令に従い、防御態勢を取れ!」
   漕ぎ手たちは、矢から自分たちを守る盾板を船側に立てる。

「マイロン、長弓ロングボウの修練は欠かさずしているか」
   強風に煽られながら、隣で顔面を蒼白にしている赤毛の従士に尋ねる。

「は、はい! なんとか続けております」
   マイロンは裏返った声で答えながら、長弓ではなく、手回し式の重弩クロスボウを取り出し、震える手で太矢を装填し、弦を巻き上げている。
 マイロンには定期的に武芸の稽古をつけていた。筋は悪くないが、どうしても長弓の指導は後回しになりがちだった。

「私は騎士で、お前は従士だ。書物や帳簿だけでなく、武芸をおろそかにするな」
   この赤毛の従士に武勇を期待したことはないが、もう少し武術指導に時間を割くべきだった。

   マイロンは顔を強張らせながらも弩を構え、波間に目を凝らした。べリアンも大きな矢筒を立てかけて、矢を抜き、用心のために携帯してきたイチイの重長弓ヘヴィボウの弦を張る。

「私も、そこそこの腕前ですがね」
 ヘイズ船長もまた、舵を操舵手に任せ、使い込まれた、トネリコ長弓ロングボウを構えて隣に並んだ。

   振り返ると、黒い船体は右斜め後方から白波を立ててぐんぐんと近づいてきていた。こちらが旋回で手間取った分、距離を詰められたのだ。不気味な黒帆の下で、おびただしい数の櫂が、まるで巨大な百足(むかで)の足のように不気味な統制をもって海面を叩いているのが見える。

 ベリアンは中央甲板を横切り、船尾右舷へ移り身を乗り出す。
 敵船の左舷の櫂列が、夕陽の海にむき出しだった。

「左舷の漕ぎ手だけを集中して狙え」
   波で船体が上下に揺れるなか、ベリアンは冷静に指示を出した。
   漕ぎ手と操舵手は操船に専念させるため、迎撃の射手は三人だけだ。

   「一人でも倒せば、片側の推進力が狂う。左へ旋回して速度が落ちる」
 鉄棍や鉄槌ほどではないが、長弓の扱いも腕に覚えがある。速射や精度はともかくとして、重長弓ヘヴィボウから放つ弓勢で余人に後れを取ったことはない。誓約の兄弟であるクレストルの冷やかな口元が頭をよぎる。

 この距離なら、奴ほどの精射の腕前がなくとも、櫂を引く漕ぎ手を狙える。波に揺れる船上であっても、左足の鋼鉄の歩行補助具は甲板を離れず、大木の根のように体幹を固定していた。

 鵞鳥の羽の錐鏃矢をつがえる。分厚い胸板の筋肉を軋ませながらイチイの重長弓を限界まで曳き絞る。風の向きと、波の上下のうねりを読む。呼吸を鎮めて、海面が一番高く持ち上がった一瞬、相手の漕ぎ手に照準を合わせ、弦を弾く。

 鈍い風切り音と共に放たれた矢は、茜色の海面を一直線に飛び越え、黒い長船の左舷で櫂を引いていた男の胸板に深々と突き刺さった。男が海へ転落し、一つの櫂が持ち手を失って乱暴に跳ね上がる。

「第二射、構えろ!」
 装填に時間のかかるマイロンの弩を待たず、ベリアンとヘイズが長弓をつがえた、その時だった。

 距離を詰めようと焦る敵船の船首で、半裸の男が剣を振りかざして野太い怒号を響かせた。それを合図に、追撃船の前甲板から十数本の黒羽の矢が一斉に放たれる。

 空気を切り裂く無数の不気味な音が夕闇の空から降り注いだ。

「伏せろ!」
 ヘイズ船長が怒鳴り、漕ぎ手たちは一斉に船側の縁に伏せる。

 甲板や帆柱、そして盾板に無数の矢が突き刺さる重い音が響き渡る。
 マイロンが素早く掲げた大きな丸盾ラウンドシールドにも太い矢が深々と突き刺さり、彼はその衝撃でよろめいた。

「漕ぎ手、戻せ!!」
 ヘイズの号令で漕ぎ手たちは一人も欠けることなく、一斉に漕ぎを再開する。

「恐れるな! 順風で帆も張っている。敵船は遅れているぞ!」
  ベリアンの力強い鼓舞が甲板に響き渡った。
 マイロンは意外にも勇敢な所を見せ、甲板を這いながら、盾板が倒れている船側部に辿り着き、漕ぎ手を守る盾板を幾つか立て直した。
 盾板の影に身を隠し、再び長弓を曳き絞る。降り注ぐ矢の雨が止むと、盾板の隙間から矢を放つ。敵船左舷の漕ぎ手をまた一人仕留める。
   懐かしい高揚感が身を包む。思わず口元から笑みがこぼれる。鍛錬を欠かさない体幹と射撃の姿勢は微塵もぶれない。

 隣で鈍い音が響く。ヘイズ船長が自らの長弓を甲板に放り出し、分厚い樫の丸盾ラウンドシールドで飛来する矢を弾き落としていた。ベリアンは飛んでくる矢に構わず、皮革鎧を纏って、櫂(かい)を引く左舷の漕ぎ手たちを見据えた。手元の細長い錐鏃矢は、装甲を紙のように貫通する。この距離で、軽装備の漕ぎ手たちが逃げる術はなかった。ベリアンは機械のように正確な動作で淡々と矢をつがえて、放つ。漕ぎ手たちは、一方的に次々と撃ち落されては海に落ちていった。
  左側の推力が削がれたことで、黒い帆の大型長船ロングシップの艦首が左へ傾き、目に見えて速度が鈍る。

 「赤い海鳥」号は漕ぎ手たちがヘイズ船長の指示のもと、防御姿勢と漕ぎの切り替えを適切に行い、徐々に敵船を引き離す。双帆が追い風を捉えると、一気に波を蹴り、速度を上げた。
 少し引き離したとみるや、ベリアンは船尾に移動して、休むことなく敵船の船首に向かって向かい風をものともせず弓を打ち続けた。敵船を指揮していた半裸の男も打ち抜いた。
 矢筒が二つ空になるまで三十回打ち続けた。マイロンも震えを抑えながら、手際よく太矢を装填しては正確な射撃を行い、再び弓をとったヘイズ船長の長弓も着実に敵の櫂を乱していった。

 数十分の息詰まる競争の末、太陽が完全に海へ沈み切る頃には、黒い船影は追撃を諦め、宵闇の彼方へと消え去っていた。

「……ラニスポートの近海で、この有様だ。思いやられるな」
 長弓を下ろし、蜜蝋を塗った亜麻糸の弦を外しながら呟く。さすがに、これだけ矢を連続で放つと右腕の筋肉が熱く脈打っている。

「獅子の灯台の光は近海にすら届きません」
 温厚なヘイズ船長が、夜の海に向かって低く吐き捨てるように言った。常に鉄諸島の脅威に晒される、麗しの島フェアアイル出身の彼には忸怩たる思いがあるのだろう。

 ラニスポート艦隊が「張り子の獅子」と揶揄される理由がよくわかる。これでは護衛艦無しで航行する商船など、狼の群れに放り込まれた羊と同じだ。
 マイロンはまだ青い顔のまま、ミア製の遠見筒スコープを覗き込んで、夜の海を神経質に見回している。

「日没だ。操帆のみの航行に切り替えろ。漕ぎ手は暫時休憩に入れ」
   ヘイズの野太い指示が飛び、汗と海水まみれになった漕ぎ手たちは、その場に倒れ込むようにして息をついた。

   ベリアンは夜風に吹かれながら、腕組みをして真っ暗な波間を睨みつけた。

 ラニスポートに帰還したのは翌日の昼になった。美しい街並みと城壁が見えてくると、さすがに船内に安堵の空気が漂う。隣に立つマイロンは、見るからに安堵した表情だ。

「帆をたため! 操舵航行に切り替える。右へ舵をきれ!」
   ヘイズ船長の操舵指示に従い、船は右へ旋回して港の奥へと進む。船籍を示す小旗を掲げられた。
   湾内に入った「赤い海鳥」号は滑るようにラニスポートの港湾内を進み、その北部港湾、公用船専用の静かな桟橋に到着した。ヘイズ船長とこの高速船を指名したのは正解だった。船長を労い、死力を尽くした漕ぎ手たちと固く握手を交わして、船を降りる。疲労困憊のマイロンも重い荷物を背負って、ふらつきながら降りてきた。

 ラニスポートの近海を船籍不明の大型長船ロングシップが我が物顔で遊弋する状況を痛感した。海域の治安の回復は、もはや一刻の猶予もない。

3 官吏

 北部港湾は官庁街に隣接していた。船から降りて、徒歩で軍の輜重部官庁に向かう。鉄木アイアンウッドの黒い六角棒をつき、鋼鉄の歩行補助具を軋ませて灰色の街並みを歩く。
 五日ぶりに見上げる石造りの五階建ての官舎は、何も変わりはない。その東棟に輜重部のラニスポート支所が置かれている。本部はキャスタリーロックの上層階にあるが、西部最大の都市であるラニスポートのこの支所こそが輜重部の実質的な本拠地である。

「ボウマ卿、任務お疲れ様でした」
   顔馴染みの初老の衛兵に挨拶を返して、三階の執務室に向かった。

 真鍮の取手を握り、樫の分厚い扉を押し開ける。室内は窓の木戸が閉じられていたため、真っ暗で、淀んだ空気がこもっていた。
 何も言わなくとも、マイロンは手際よく四つの窓を開けて、その木戸を押し開ける。光が入った室内には、胡桃の木の執務机、真鍮の蝋燭台、白木の簡素な杯、そして、中央の長机には山のように積まれた未決裁の紙や羊皮紙の書類、読みかけの書籍、丸められた地図の束が並んでいる。
 マイロンはべリアンが好む葡萄酢の樽を運び込み、部屋の隅に置いた。
  ベリアン愛用の蜜蝋を塗った白木杯に葡萄酢を注いで、机の上に置いた。 
 次に帆布袋の紐を解いて、旅で使った衣服や食糧を取り出して、片づけを始める。

 ベリアンは、壁に鉄木アイアンウッドの六角の棒杖と弦を外したイチイの長弓を立てかけた。腰に佩(は)いていた、やや短く詰めた鉛色の長剣を外して脇に置く。無地の灰色の羊毛外套を脱ぎ、汗まみれの厚布防衣ギャンベソンも脱いで体を拭う。上から、紅色の薄手の羊毛の長衣ローブを纏う。牛の角で作られた携帯用の印字墨の壺インクケースと、鵞鳥の羽根筆ペンを収めた革筒を机に置いた。
 久しぶりに胡桃の机に向かって椅子に座り、白木杯の葡萄酢水を口に含む。酸味が疲れた頭に澄み渡る。部下たちが決裁を待っている書類の山を横目に、目を閉じて、瞑想するように課題を頭の中で整理した。思いつくままに、課題を鵞鳥の羽根筆で書き留めていった。

 部屋の樫の木の扉を軽く叩く音がする。

「失礼致します。ご帰還とお聞きしまして」
 マイロンが扉を開けると、四人の官吏が足音を立てて、部屋に入ってきた。この数日間、留守にしていたため、決裁の催促に訪れた部下たちである。溜息をつき、執筆を中断した。

「今日中にお願いしたい案件でして」
 詰め寄るような目つきで取り囲む部下たちの勢いを片手を上げて制する。無言で書類に向かった。

 輜重官の職務は、兵站や陣地構築だけではない。この平和な時代にあっては、水路や街道など領内のあらゆる建設行政を担う実務が本業となっていた。
 ベリアンは一心不乱に、近年頻発している水騒動の報告書と、その原因とされる水路老朽化の補修計画を読み込んでいく。予算の過大なもの、資材調達の見通しの甘いものなどに容赦なく、訂正や追記を行った。
 農業用水の水路については、穀物官たちに仕事を回すように指示書を書く。現地争議の仲裁には、巡回番の騎士や兵士への派遣要請を書き添える。部下たちはそれぞれの案件を適切に捌いているが、他部署の怠慢をはねつけるような抗議じみた要請書も重ねて発出する。

 いつしか部屋が暗くなり始めていた。いつもならマイロンが灯りを点けてくれるはずだが、目をやると、彼は執務室の中央にある長机に突っ伏している。どうやら眠ってしまったらしい。
 白木杯に残っている薄い酢水を飲み干して立ち上がる。
 長机には、胡桃の練りものペーストとライ麦の黒いパン、大蒜が浸けられた食用油オイルが置かれている。昼食を摂る間もなかったべリアンのために、マイロンが用意してくれた軽食だろう。真鍮の燭台には獣脂蝋燭も立てられ、火口箱も準備されている。

 マイロンを起こす気にもなれず、自分ですることにした。火口箱を開け、火打ち石を数回打ち合わせ、火花を落とす。乾燥させた茸の断片が赤く這うように燃えて、熱を持つ。息を吹きかけて広がった火種に「硫黄の付け木」の先端を押し当てた。

 音を立てて立ち上がった小さな炎を長机の上の獣脂蝋燭の芯に移す。付け木を振って火を消し、火口箱の蓋を閉めて火種を消した。明りの灯った燭台を引き寄せ、軽食の黒いパンに胡桃のペーストを塗り、頬張りながら、書類に向き合った。二つ目の黒パンには、大蒜漬けの油をしっかり浸して口に運ぶ。

しばらくすると、樫の木の扉を叩く音が響いた。

「はっ、申し訳ありません、ただいま!」
マイロンが驚いて飛び起きる。目が覚めたようだ。

「構わん、さっきの部下たちだろう。通してくれ」

マイロンは扉に駆け寄り、開けて四人の輜重官を部屋に招き入れる。

 部屋の中央の長机を五人で囲んで、それぞれの事案の担当者に、訂正、追記した内容と理由を説明する。いくつか質問をした後に、それぞれの課題について担当の垣根を超えた意見交換を行った。
 マイロンはそれぞれに葡萄酢水を注いだ杯を配り、傍らで記録を取る。

 優秀な官吏である彼らはすぐ、こちらの指示の意図を呑み込んで、更に具体化した案を提示してくる。この数人での議論と認識のすり合わせが何よりも大事な時間だ。各分野の専門官である彼らの知見には学ぶところが多い。役職こそべリアンが上位であるものの、武官上がりの自分よりはるかに長い経歴を持っていた。
 マイロンも議論に加わり、時折、質問を交える。獣脂蝋燭が燃え尽きようとしているが、後一回は取り替える必要があるだろう。熱心な議論が続く。キャスタリーロックの自室に戻れるのは夜半を過ぎることになりそうだ。

4 帰路

 ようやく仕事を終えて、夜の街道を月明りと角板の手燈ホーン ランタンの仄かな灯りを頼りに、帰路についた。帰り道の前方には夜の闇にキャスタリーロックの巨大な黒い影が沈んでいる。ところどころに灯る篝火が岩肌を照らし、その威容をぼんやりと浮かび上がらせていた。

 キャスタリーロックの麓に着くと、乗っていた黒いラバをマイロンに任せて、先に、自室に帰ることにした。岩山の最上階まで上がるのは時間がかかるが、自室のある五階層に行くのはさほど苦ではない。
 べリアンは一人でキャスタリーロックの正門「獅子の口」にて、青銅板の通行証を呈示した。

「ボウマ卿、夜遅くまでお疲れ様です」
 今夜の当番の兵士長は、顔見知りだった。
 軽く頷き返し、一人、角板の手燈ホーン ランタンを手に、大階段を上り始める。遠く響く波の音と、海から吹き込む湿った空気が、夜の闇のなかで肌にまとわりついた。
 歩行補助具を軋ませながら、鉄木アイアンウッドの六角の棒杖をついて、階段を上る。鍛錬を欠かしていないべリアンは、息切れもせず、五層階の官吏たちの居住区画へと辿り着いた。
 昨年の末に、これまで住んでいた上層階の高級官吏の居住区を引き払い、この居住区に移り住んだ。
 この区画には官吏たちのために、書庫を設けたり、その子弟が読み書きを習える場所を設けたりしている。
 妻と子どもたちは既に、ジェイン公妃の差配でマーブランド領の「トネリコの辺地の城」アシュマークへと移した。遠からずこの西部ウェスタ―ランズが、血で血を洗う政争の渦に呑み込まれることを予期しての措置だった。

 広場の長椅子で、夜番明けの官吏たちが麦酒を飲んで静かに語り合っているのを横目に、さらに奥の闇に包まれた区画へ進む。
 自室の前に立ち、真鍮の鍵を取り出そうとしたベリアンの手が、ふと止まった。
 扉の隙間から、仄かな灯りが漏れている。この居室の鍵を持つ人間は、限られている。ベリアンは音を立てずに長剣の柄に右手を添え、左手で静かに扉を押し開けた。
 灯りは客室から洩れていた。
 客室に入ると、粗末な蔓で編まれた椅子に男が座っていた。その男に声をかける。 
「任務、ご苦労。帰ったか」

 くすんだ褐色の皮革軍衣バフコートを羽織った男、宣誓の兄弟であるクレストル=ユー卿が、灰色の目を、こちらに向けて、見つめていた。相変わらず表情は読めない。

「……遅かったな、次席輜重官殿。これからの段取りを相談したい」


(009 ベリアン Ⅱ 完)


煤けた石 第一部 獅子の仔 第一編 ゆりかごの宣誓
べリアン Ⅱ(009 猪の貴公子)
248 AC・夏(末期) / 西部 クレイクラグーン~ラニスポート
POV:べリアン=ボウマ (Beryan Bowma)


【本作は「氷と炎の歌」のファンフィクションです】
原作者のジョージ・R・R・マーティン氏、および関連する出版社・映像製作会社等の権利者様とは一切関係がありません。
本作は「氷と炎の歌(A Song of Ice and Fire)」の世界観をベースにした非公式のスピンオフ作品であり、原作の五十年前の時代(征服暦248年以降)の七王国西部ウェスターランズを独自の解釈で描いています。


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