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メディアで読む This Heat 日本編 その4 ロンドンの片隅で生まれた〈美しき混沌〉と太陽の賛歌

This Heat というと、どうしても硬質で緊張感の強いバンドという印象が先に立ちます。
冷たい構築音楽、理知的で厳格な実験集団、あるいは無機質なポストパンク――そうした見方はもちろん間違いではありません。

けれども、1981年の『フールズメイト』を読むと、同じ This Heat に対して、ずいぶん異なる角度から言葉が向けられていたことがわかります。
一つは、Yuko Takano 氏によるロンドン・レポート。そこには、想像していたよりずっと明るく、フレンドリーで、雑然とした空間の中で音を作っている彼らの姿があります。

もう一つは、秋田昌美氏による “Health and Efficiency” の読解です。そこでは This Heat の音は、原始仏教における聖と悪、光と闇の同居する宇宙のようなものとして捉えられています。

この二つの記事は、どちらかが「本当の This Heat」で、どちらかが誇張だという話ではありません。
むしろ1981年当時の日本の書き手たちは、同じバンドの中に、これほど違った相貌を見ていたのです。

この回では、その二つの視線を並べながら、This Heat という存在の奥行きを見ていきたいと思います。


Ⅰ. Yuko Takano「ロンドン・レポート」

(『フールズメイト』昭和56年3月号 No.16 より)

まず印象的なのは、Yuko Takano 氏が出会った This Heat の3人が、想像よりもずっと明るくフレンドリーだったことです。
彼女は冒頭で、こう書いています。

「This Heat のメンバーは想像していたよりずっとフレンドリーで明るい人達だった。」

この一文だけでも、後年に固定されがちな「冷たい構築音楽の人たち」という像が少し揺らぎます。
3人ともまだ20代半ばほどで、ギタリストのチャールズは異常に背が高く、かなりカールした髪の後ろに細い三つ編みを垂らしていたという記述も、いかにも当時の現場らしい具体性を持っています。

おちゃめな3人

そして何より印象的なのが、彼らの拠点である Cold Storage の様子です。

もとは食肉貯蔵庫だったというそのスタジオは、トタン張りの内部に、アンプや録音機材といっしょに、故障した電話、おもちゃ、空き缶、ゴムぞうり、洗面器、自転車、窓用ガラスまでが雑然と置かれていた。

壁には絵ハガキ、譜面、スケジュール表、雑誌の切り抜き、手紙、ペインティング、ポスターが貼られ、生活と制作が分かちがたく混ざり合っていたようです。

Takano 氏は、その光景をこう言い表しています。

「もし誰かがここは物置きだと言ったら、皆信じてしまうだろう。」

けれども、その散らかり方は、ただだらしないという意味ではありませんでした。
彼女はそのガラクタの一つ一つに妙な愛着を覚え、こう書きます。

「私が “beautiful mess” と表現したら、彼らは笑っていた。」

この “beautiful mess” という言葉は、そのままその4の鍵にしてよいほど強いと思います。
後年の This Heat には、どうしても張りつめた緊張や知的な構築性がつきまといます。けれども、その音が生まれていた場所は、整然とした研究所ではなく、ガラクタや偶然や生活の気配に満ちた、愛嬌のある混沌そのものだった。

ここには、無菌的な実験ではなく、日常の雑然さを抱え込んだまま創造していく人たちの姿があります。

This Heat の音楽はたしかに硬質です。
しかし、その硬さは生気のない冷たさではなかった。
むしろ Cold Storage という“美しき混沌”のなかで、笑いとガラクタと雑然さを引き受けたまま、あの独特の音響が生まれていたのです。


Ⅱ. 「Health and Efficiency」と原始仏教的宇宙

(『フールズメイト』1981年12月号「世紀末音楽の解体と再生」より)

同じ1981年の『フールズメイト』には、秋田昌美氏によるきわめて異質な読解も載っています。
それは This Heat の “Health and Efficiency” を、原始仏教における宇宙観へ重ねながら読む文章でした。

もちろん、これは This Heat 自身が仏教を語っているという話ではありません。
大事なのは、秋田氏がこの音をそのように聴いたということです。
当時の批評は、それほど大きな思想的スケールで This Heat を受け止めていたのです。

秋田氏が注目しているのは、原始仏教における28部衆、あるいは8部衆のような、怪物性と神性を併せ持つ存在です。
阿修羅、夜叉、竜、迦楼羅といった半神半獣たちは、人に害を及ぼす怪物であると同時に、仏法を守護する従者でもある。秋田氏は、その構造をこうまとめています。

「最も超絶した天界を所有する神々が、怪物や悪魔を率いて存在する。この聖霊と悪霊の同居、あるいは全ての存在は聖なるものと悪なるものを持って存在するという真理がここに見られる。」

ここで語られているのは、善悪の単純な対立ではありません。
聖なるものと悪なるもの、恐怖と法悦、破壊と守護が、同じ宇宙の内部に共存しているという感覚です。
秋田氏は、その同居の感覚を This Heat の音に見ています。

そして秋田氏は、その音の印象そのものについても、かなり具体的に書いています。

「ディス・ヒートの『Health and Efficiency』(健康と効率)は、前作『this heat』を超えた、一つの静謐で浮遊空間的な人工音を構築している。A面の『Health and Efficiency』とB面の『graphic/varispeed』は、あたかも一存在の内外構造を洞察させるごとく、漆黒のエーテル空間へ失墜する感覚と、純白あるいは乳白色の大気へ上昇する感覚を合わせ持っている。前者がA面の印象であり、後者がB面と言える。しかし、それは可変的でもあり、相互に融合し得る有機性と増殖的気配を保持している。」

この記述はとても重要です。
ここで秋田氏が聴いているのは、単なる暗さと明るさの対比ではありません。
A面は漆黒のエーテル空間へ沈み込み、B面は乳白色の大気へ上昇していく。けれどもその二つは固定した対立ではなく、互いに入れ替わり、溶け合い、増殖しうるものとして捉えられています。

つまり “Health and Efficiency” は、整理されたシングルというより、ひとつの存在の内と外、沈降と浮揚、暗さと光がたえず交錯する音響空間として聴かれていたのです。
この感覚があるからこそ、秋田氏はさらに原始仏教的な宇宙像や須弥山の層構造へと読みを進めていくことができたのでしょう。

仁和寺の28部衆

III. 須弥山と音の層構造

秋田氏はさらに、『倶舎論』に記された須弥山の宇宙像にも触れています。
風輪、水輪、金輪という層の上に巨大な山がそびえ、その頂には神々の住む光の世界がある――その精緻で幾何学的な宇宙モデルを、彼は This Heat の音の層構造に重ねて読んでいます。

ここで重要なのは、仏教そのものの説明よりも、音を空間的・層的に聴く感覚です。
秋田氏はこう書いています。

「須弥山上の神々の世界は、光で満ちた、光だけが支配する土地であり、そこでは微かな深淵からの音楽が響いているという。」

この一文だけでも、彼が音を単なる楽曲としてではなく、存在の彼方から届く振動のようなものとして聴いていたことがわかります。
そして、その感覚を This Heat に結びつけて、次のように述べます。

「ディス・ヒートの音は、永劫の持続音であると同時に、瞬時のパルスをも永劫化させてしまうかのようだ。」

これはかなり的確な言い方だと思います。
This Heat の音には、たしかに持続と瞬間が同時にあります。ループや反復は続いているようでいて、その内部ではつねに小さな切断や緊張が起きている。秋田氏はそこに、須弥山のような層構造を見ていたのでしょう。

さらに彼は、『This Heat』で見せたヨーロッパ的な緊密空間が、このマキシ・シングルで「有機的な大気世界と原始仏教的宇宙へ移行し始めた」と書いています。

ここでの “Health and Efficiency” は、単なる音楽的成熟ではなく、存在と宇宙の関係を音で捉え直す運動として響いていたのです。

IV. 「美しき混沌」と宇宙論のあいだで

Takano 氏のロンドン・レポートと秋田氏の論考は、同じ This Heat を驚くほど異なる角度から捉えています。

一方には、散らかった Cold Storage と、明るくフレンドリーな若い3人の姿がある。

もう一方には、“Health and Efficiency” を聖と悪の同居する宇宙として聴き取る、きわめて抽象的で思想的な読みがある。

しかし、この二つは矛盾していません。
むしろ当時の日本の書き手たちは、This Heat の中に、生活の雑然さと音響の構築性が同時に存在していることを、それぞれ別の方法で感じ取っていたのだと思います。

Cold Storage の “beautiful mess” は、単なる親しみやすさの話ではありません。
それは、秩序だけでも無秩序だけでもない、何かが生成していく場のあり方を示しています。

そして秋田氏の原始仏教的読解もまた、聖と悪、秩序と混沌の同居として This Heat の音を捉えようとしていました。

つまり前者は、生活のレベルでその混沌を見ており、後者は思想のレベルでその混沌を読んでいる。
見ている場所は違っても、どちらも This Heat の本質に触れているのです。

まとめ

1981年の『フールズメイト』に残されたこれら二つの記事を並べてみると、This Heat というバンドが、当時すでに単なる実験的ロック・バンドとしてではなく、かなり幅のある存在として受け取られていたことがわかります。

明るく、人懐こく、雑然とした空間で音を作る若い3人。
その一方で、彼らの音は、聖と悪、光と闇、持続と瞬間が共存するような宇宙としても読まれていた。

この落差こそが、This Heat の面白さなのだと思います。
彼らの音楽は冷たいのに無機質ではなく、難解なのに生気を失っていない。

ロンドンの片隅の散らかったスタジオから生まれた音が、ここまで大きな思想的スケールで受け取られていたこと自体が、当時の批評の豊かさを物語っているように思います。

その4で見えてくるのは、This Heat の「本当の姿」ではありません。
むしろ、彼らが当時すでに、生活の匂いをまとった具体的な存在であると同時に、聖と悪、秩序と混沌を抱え込む音響体としても受け取られていた、という事実です。

その二重性こそが、This Heat が今なお新鮮に響き続ける理由なのかもしれません。

出典

  • 『フールズメイト』昭和56年4月号 No.16
    Yuko Takano「ロンドン・レポート」
    秋田昌美「世紀末音楽の解体と再生:産業音楽とシャーマニズム」内
    「原始仏教に見るユートピア思想――ディス・ヒート」

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