《掌編》熱帯夜がずっと
熱帯夜、とはあなたがよく使う表現だ。少しでも暑くなってきたら、あなたは夜の蒸し暑い気候のことを熱帯夜と呼ぶ傾向にある。わたしはベッドのうえで薄いタオルケットを手繰りよせながら、窓際のあなたに聞く。熱帯夜ってジャングルみたいなイメージ。都心で熱帯夜ってちょっと変じゃない? あなたはそれに対して何も答えなかった。わたしは何も答えない状態のあなたと向き合いながら、何度も何度も夜を越してここにいる。あなたとまともな会話が成り立たない夜、それは心臓がもげるようなミシミシという痛みと共に感覚されていたのに、それはあなたと付き合い始めて2ヶ月ほどで分からなくなってしまった。分からなくなってしまったというのは、その痛みがなくなったというわけではなくて、あなたとわたしの間に生じる痛み自体に互いが鈍感になっていったという事だと思う。
お前はさ、とわたしを呼ぶことに何も思わなくなっていた。すべてが汚れていく。眼鏡のレンズが汚れるように、そしてその汚れを気にする余裕など生まれない時のように、わたしはあなたに対して違和感を覚えることが少なくなっていった。春先に覚えたあの違和感を、初夏に押し寄せた熱波に濁らされ、わたしはただ呆然と頷き、あなたに抱かれた後にそうめんを食べるだけの、単調な人形になっている。この前、キョウカとご飯を食べた時に、呆れられるほどビーフステーキにがっついてしまった。ガーリックバターの載ったステーキは思ったよりも硬くて貧弱なわたしの顎が歪んでしまうんじゃないかと不安になりながらも、それでも噛み締めることはやめられなかった。
「キョウカ、そんなにご飯食べなかったのに」
「え、わたしご飯好きだよ」
「いや、好きじゃなかったよ。誰と話すかってことばっかりで、一緒に何を食べるかとか本当に興味なさそうだったじゃん。だから心配してたの、自分の身体大事にするところからじゃないと、人って駄目になっていくよって言ったじゃん」
「言った、だからわたしご飯好きだからって言い返したよね」
言い返した。わたしにそんな事ができたのかと、口に出しながら疑う。いまのわたしに、何かを疑って反論するようなキャパはない。わたしは何かに頷くことだけでいっぱいいっぱいな生活を送っている。
「言い返してきてたよ。でもそんな子がさ、急にガッツリ目の前で黙々と食べ始めたら、怖いって思うじゃん、普通に」
「なんで、褒めてよ、食べられるようになったんだよ」
「うまくいってるの、あのお付き合いしてる人」
「ジュンキさんは、別に、普通だよ」
「サエキ、聞いて。元の食べる事に興味ないあたなに戻ってほしいわけじゃない。でも今のあなたの方が結構、怖い、不安になる。なんか体に爆薬しこんでるみたい。特攻の準備してるみたいだよ」
キョウカは変な表現で人を囲うことが好きだ。それがわたしは好きだったけれど、同時に不快でもあった。キョウカのキャラクターとしてよく分からないボキャブラリを活用するのは結構なことだったけれど、方向性がこちらに向くならそれは別問題だった。わたしはキョウカといることがしんどくなっていった。
「変なこと言わないでよ、何それ」
わたしは曖昧に笑って、キョウカは気まずそうに黙る。そのまま互いにスマホを見る時間が過ぎていって、ステーキハウス会は終了になった。
その後、ジュンキさんの部屋に帰る。横浜の方面へ電車で少しいったところ、東京から出てすぐの所にジュンキさんの部屋はある。毎晩帰ってくるわけではない。今日はいないと言っていた。
部屋の番号を押して中に入ると、真っ暗な廊下が続き、わたしを認識して自動で点灯していった照明はL字型の巨大ソファと75Vの大型テレビの姿をくっきりさせて、わたしを刺激しない柔らかい光量で奥の寝室まで誘っていく。寝室の中にはダブルベッドがあり、その奥には青白くカーテンが輝く大きな窓がある。ベランダにつながり、そこでジュンキさんは加熱式タバコを吸うのだ。加熱式なら室内でもいいのに、と伝えたが、それはなんかイヤだな、といつも外で吸う。なぜかわたしは外に出てタバコを吸っているジュンキさんに最も安心感を覚える。
わたしはベッドに腰掛け、青白いカーテンを開いて外を見た。遠くに何やら提灯らしきものの列が見える。川沿いの公園で祭りが行われているのだ。コンビニに行くついでに寄ってみようか、と思った瞬間に体が重くなり、わたしは全く自身を思うとおりに操作できないことへ絶望する。
熱帯夜がひとりで過ごされる。わたしはジュンキさんを待つわけでもなく、横になって寝ようと思っている。しかしきっと寝ようと思ったら目は覚醒して、天井を見ながら結局わたしはジュンキさんを待つことになる。ぼやけていた。火照っていた。身体の中に気持ちの悪い熱がこもっている。何も思うとおりに動けたことなんてない。
わたしがわたしの思うがままに動ける日なんて、きっといつまでもやってこない。ジュンキさんという、あなたという、外部のそれから注ぎ込まれる何かがあって、やっと、という感覚だ。それはきっと変わらない。暑い夏はいつまでも終わらないように思う。
つぶやき:しばらく小説が書けていなかった、と思う。お題が出ていたから久しぶりに書いてみるかと思って色々考えながら綴ってみたけれど、びっくりするほど下手糞になっていることが、自分でも分かる。だが、そうだ、こういう消化のしかたというか、こういう気分転換というか趣味が自分にはあったなと、改めて安心した。自分がどう思われるかに悩み続けた数か月間だった。誰かをモヤッとさせて誰かと一緒に楽しみ、その誰かを裏切って戻っても元通り、というわけではない。それは当たり前のことだ。わたしは何度も何度も未熟に当たり前のことに気付かされに戻ってくる。昔から周りより学習が遅いと思っていた。それが自分。でもそんな自分に出来ることもたくさんあると最近気付いてきている。昨日、友達に「まだ自分が世界に必要だと思ってるのか。そんな人間いないんだよ」と言われた。真理である。でも僕は、わたしは、「世界に必要ない人なんていません。あなたがいなければ世界自体が不要です」と言い返したい。そう言いたくてこの仕事を始めた。そう信じたくて書いたりもしている。そう思って疑わないから、色々な人に迷惑をかける。でもそういう人だったな自分、と思い出した。また再び、たくさんの人に愛されて、それなりの人に嫌われる人生が始まる。夏は暑い。ぼーっとして、考えごとが止まる。せめて今のこの状態で、止まれ。
