娘の不登校を振り返る 〜4年生〜
数年ぶりに振り返る不登校の娘のその後。3年生の時は登校したが、4年生はどうなったか。
親としては、印象に残る出来事が多かった。
娘が4年生になるタイミングに、転出により子どもの人数が減り、1学年3クラスだったのが2クラスになった。コロナ感染予防のため、密を避ける状況でありながら、ぎゅうぎゅう詰めの教室に、娘は違和感を訴えていた。
担任の先生は、1年生の頃から馴染みのある先生で安心していたが、5月の遠足を最後に、娘は学校に行かなくなった。
再び不登校に
きっかけはよく分からない。当時は、大切なお友達が先生に叱られるのを見ていられないとか、困ったことを相談しに行ったら「そんなことかー。気にしない、気にしない」と取り合ってもらえなかったと言っていた。困ったら周りの大人に相談しましょうと、全校朝礼で話があったばかりで、気になることがあったから相談に行ったのに、大人は言ってることとやってることが矛盾してるとも言っていた。
再び休み始めて、娘は荒れた。
何回か、行こうとした日もあった。けれどその度、出鼻をくじかれる出来事が起きて、「行こうとしたのに!ママのせいで行けなくなった!」などと言って暴れ、激しい口調で私は責められた。毎回、私のせいで行けなくなったわけではない。イライラのはけ口が、私に向いただけなのだが、私には辛く、都度感情を揺さぶられ、冷静に対応できないこともあり・・・、売り言葉に買い言葉で娘に対して数々の暴言を吐き、怒鳴り散らしていた。お互いの発散が、ある程度終わると、毎回お互いに反省して、ごめんね、と言いあうのだが・・・
そして次第に、教科書やランドセルは、見えないところにしまってほしいとも言われた。もう使わないからと。
片付ける時、涙が出た。
そんな状態だから、勉強なんてとんでもない。ベッドに横になって寝ている時間が増えた。放課後に担任の先生に会いに行くことも、教育支援センターに行くことも嫌がり、拒んだ。
落ち着いている時にふと、「せっかく行けるようになったのに、また行けなくなっちゃった」と静かに泣いていることがあった。そんな姿を見るのは、本当に辛かった。何をしてあげるのがいいのか。頑張ってみたら、というのは違うと思ったし、励ますのも違うなと思った。気にしない、大丈夫だよ、というのも違う。何と声をかけたらいいのか、言葉選びにも慎重になった。でも、忍耐力が足りない、我慢が足りない、根性がない、私の娘なのに情けない、という気持ちもあった。その気持ちが、つい口から出てしまうことや、態度や表情に現れてしまうこともあり、その度に私は激しく落ち込み自分を責めた。
時々、お友達がプリントなどの配布物を届けてくれるのは嬉しそうで、玄関で30分以上おしゃべりして、明るく「明日来て~。こういうことがあるから」と言われる時もあったが、娘は笑いながら「私は行かないから、頑張って」などと答えていた。そして夜には、オンラインで繋がってMinecraftなどのゲームで遊ぶこともあった。学校に行かない娘に、変わらずに接してくれたお友達やその家族の皆さんには、本当に感謝しかない。私たち家族は、優しい人達に支えられて、何とか立っていた。
情緒はかなり不安定だったが、夏休みになると周りも休みなので、学校のことを考えなくて済む。だから私も、娘が楽しいと思うことをして過ごそうと決め、勉強のことや宿題のことは一切言うのをやめた。
夫婦のすれ違い
3年生の時、夫は毎日通勤していたが、仕事の担当が変わり、4年生になってからはほぼ毎日、在宅ワークになった。
在宅していると、当然だが娘の様子が気になるし、目に入る。勉強せずゴロゴロし、ゲームして、好きな工作をして、好きな習い事に行って、という「嫌なことは一切やらない」娘のことが、心配でたまらなかったのだと思う。その気持ちは私にもあったから、理解はできるが、夫の娘に対する言動には、私はどうしても納得できなかった。
学校に通っている子と同じように生活させたい、それが夫の考えの根底にあった。だから
「早寝早起きしなさい。6時に起きて9時に寝ること」
「勉強は1日6時間。学校も6時間授業だから」
「ゲームは1日2時間」
「テレビは1日2時間」
と、とにかく時間に厳しかった。
こういうルールを決めて守らせる話は、巷ではよく聞く話だ。夫が仲良くしている、娘の保育園時代からのパパ友も、自分の家庭でこういうルールを決めて、守らせていると話していたから、我が家も、と思うのは不思議ではない。だが、今の娘には、合わないと私は思った。
「みんなと違ってごめんなさい」
「私がいなければ、パパとママが喧嘩することはなかった」
「生まれてきてごめんなさい」
この言葉を、娘から何回聞いただろう。友達と同じように学校に行き、勉強して遊んでいれば、夫婦喧嘩にはならない、だけど、どうしても学校にはいけない。そう苦しんでいるのは、娘自身で、どうしていいかわからないから、目の前にある楽しいことに没頭したり、ゲームで現実逃避しているのではないかと思った。
逃げ場所は、あった方がいい。だから私は、夫が一方的に決めた制限時間を、娘に守らせようとは強く思えなかった。夫は、制限時間に対して何も言わない私に、親として無責任だ、娘をダメにするつもりか、躾と学校に行かせることは親の義務なのに、甘やかすなと言った。私は今は必要な逃げ場所で、それを奪うのは違う、心が元気になっていたら娘は絶対大丈夫、これはゲーム依存じゃないと必死に反論した。そのやりとりを、娘はどんな思いで見ていたのだろうと想像すると、胸が苦しくなる。
多くの子ども達がやっていること、できることが「できない」のは、娘のわがままだ、と夫はいつも言っていた。そうなのかもしれない、と思うこともあったが、1年生の時に無理やりやらせて、娘の目から光が消えていくのを忘れられなかった私は、今回も「わがまま」だけで片付けてはいけない気がした。
夫婦どちらの考え方が正しいか。私たちはお互いの主張を譲り合うこと、認めること、歩み寄ることが、どうしてもできなかった。夫婦の亀裂は、どんどん深まっていった。
習い事に救われる
3年生で始めた習い事には、夢中になっていて、休まず通っていた。その日は目の輝きが明らかに違っていたし、先生も本当に良くしてくれて、週1のその日が待ち遠しくてたまらない様子だった。
夏休みをゆったり過ごして、少し気力が戻った娘は、2学期になってから、もう一つやりたいと言っていた習い事を始めるため、見学に行ってみたいと言い出した。習い事を始めたいという発言は、久しぶりに聞く娘の前向きな気持ちで、私は嬉しかった。幸運なことに「ここに行きたい!」と強く思える所に出会えて、通い始めたことで、娘はさらに元気になっていった。
振り返れば、娘が元気になった要因はもう一つあるような気がしている。娘はあるプロ野球のチームを幼少期からずっと応援しているが、コロナの影響が次第に薄れてきて、テレビ観戦だけでなく球場に応援に行けるようになった。その応援に夢中になり、私も娘の応援を「応援」し、とことん一緒に楽しむようにしていたら、表情が次第に明るくなってきたのである。その延長線上に、新しい習い事に行きたい気持ちがあったのだと思う。
人を応援するのには、エネルギーが要る。熱心なファンを見ていてそう思う。娘自身の勇気や元気の原動力が、そのエネルギーの循環の中で動いていくのを、目の前で見せてもらった。野球だけでなく、他にも「推し」ができて、私は初めはかなり懐疑的に、若干軽蔑するような気持ちや、大丈夫か心配になる気持ちでその様子を
元気になってきた娘は、年が明けた2月に、自分が不登校だったことを知らない人がいる中学に行きたい、受験するために塾に行きたいと言い、個別指導塾に通い始め、勉強が楽しいと話すようになった。先生との相性も良く、空白の1年を埋めるかのように、どんどん吸収し楽しそうだった。正直、私は受験はどうでもよくて、娘が気力を取り戻しつつあることが、嬉しくてたまらなかった。
ただ通塾に関して、娘を体験授業に連れて行ったり、娘が通いたいと思う塾に入塾させたことを、私は夫には一切相談せずに決めていた。通塾に反対されるとは思わなかったが、夫に相談したら、入塾先を授業料で決められそうな気がしたのと、中学受験にこだわり、小言が増えそうで嫌だったからだ。このあたりから、子育てに関して、夫に対する警戒心のような、不信感のようなものが、私の中に渦巻くことが増え、娘への対応を相談することはなくなった。
学校との接点
1学期、2学期、3学期の最終日だけは、担任の先生に会いに行き、たわいもないおしゃべりしたが、先生に対する信頼というよりも、社交辞令のような会話だった。後に、4年の担任の先生は、1年生の時に娘の腕を引っ張って無理やり教室に連れていった先生で、おしゃべりはできるけど、頼れない人だったと娘から打ち明けられた。
私はPTAの役員もやっていなかったので、本当に学校の様子はわからなかった。ただ、学校に戻すということよりも、娘の気力が戻る方法を、学校を完全にわきに置いて考え続けていた。
4年生は、底辺まで落ち込み、習い事とプロ野球の応援で浮上した一年。娘は、落ち込んでいるときのことは、小学校を卒業した今、何も覚えていないと言っている。潜在意識に刻まれてしまったネガティブな感情があるのではないかと思うが、辛すぎて無意識に見ないように蓋をしているのかもしれない。それが、娘が大人になった時の行動や勇気の妨げにならないことを祈りたい。
