江戸の博徒 ― 3
第三章
新門辰五郎
火消・鳶・的屋へ続く系譜
江戸の博徒史、あるいは侠客史を語るとき、幡随院長兵衛が「伝説の始祖」であるならば、新門辰五郎(しんもん たつごろう)は「完成者」であった。
長兵衛が町奴の象徴であったのに対し、辰五郎は江戸庶民社会そのものを体現した人物だった。
火消であり、
鳶の頭であり、
祭礼の世話役であり、
侠客であり、
そして後世には的屋世界の祖としても語り継がれる。
今日でも関東の鳶職の世界と一部の的屋組織には、
「辰五郎親分」
への特別な敬意が残されている。
それは単なる歴史上の人物への追慕ではない。
江戸という都市共同体を支えた親分衆の象徴だからである。
神田に生まれた町人の子
辰五郎は文化六年(一八〇九)、神田明神下付近に生まれたとされる。注1
父は町人。
決して裕福な家ではなかった。
幼い頃から鳶職として働き始める。
鳶職は危険な仕事である。
高所作業は命懸けだった。
しかしその反面、腕の良い鳶は町人社会の花形でもあった。
特に江戸では火消と密接に結び付いていたため、人々から尊敬される職業だったのである。
若き辰五郎も持ち前の腕力と度胸によって頭角を現していった。
火消の世界
辰五郎が活躍した頃の江戸では、町火消制度が完全に定着していた。
「いろは四十八組」と呼ばれる火消組織が市中を守っていたのである。注2
火災が起これば半鐘が鳴る。
火消たちは一斉に駆け出す。
屋根へ登る。
延焼を防ぐため周囲の家屋を破壊する。
現代人から見ると乱暴に思える。
しかし火災を止めるにはそれしか方法がなかった。
辰五郎はこの世界で頭角を現し、やがて町火消「を組」の頭取となった。
ここから彼の名は江戸中に知られるようになる。
江戸っ子の理想像
辰五郎が人気を集めた理由は単なる腕力ではない。
面倒見の良さだった。
貧しい者を助ける。
困っている者を放っておかない。
筋を通す。
義理を欠かない。注3
江戸っ子たちはこうした人物を好んだ。
口先だけの人物は嫌われる。
金だけ持っていても尊敬されない。
困った時に頼れる人物こそが親分だった。
辰五郎はまさにその典型だったのである。
将軍慶喜との縁
辰五郎の名を不朽にした出来事がある。
後の将軍徳川慶喜との交流である。注4
慶喜は一橋家当主時代から辰五郎を信頼していた。
辰五郎もまた慶喜を慕った。
幕末の動乱が激しくなる中、この関係はますます深まっていく。
慶応四年(一八六八)。
鳥羽伏見の戦いで幕府軍は敗北した。
慶喜は江戸へ戻る。
市中では不穏な空気が漂う。
旧幕府方の武士たちは戦おうとする。
しかし慶喜は戦争を望まなかった。
その慶喜を支えた町人側の代表者の一人が辰五郎だったのである。
上野戦争と辰五郎
明治元年。
上野では彰義隊が新政府軍と戦った。注5
江戸市中は緊張状態に包まれた。
もし大規模な市街戦になれば江戸は再び火の海になる。
辰五郎は混乱の拡大を防ぐため奔走した。
彼にとって大切だったのは政治ではない。
江戸の町と庶民だった。
これは後の任侠道においても重要な思想となる。
親分は政治家ではない。
地域共同体を守る者である。
辰五郎はその理想像として記憶されていく。
静岡への随行
慶喜が駿府へ移ると、辰五郎もまた静岡へ赴く。注6
これは単なる主従関係ではない。
町人でありながら、徳川宗家を支えようとしたのである。
静岡では徳川家臣団の生活支援にも尽力したという。
この行動は後世の人々に強い印象を与えた。
権力に従ったのではない。
恩義に従った。
そこに江戸人が理想とした義理人情があった。
鳶の祖としての辰五郎
現在でも関東鳶職の世界では辰五郎の名が特別な意味を持つ。
なぜなら彼は鳶職が社会的評価を得る過程を象徴する人物だからである。注7
火消。
建築。
祭礼。
地域活動。
鳶職は単なる肉体労働者ではなかった。
地域共同体を支える中核だった。
辰五郎はその象徴となった。
関東各地の鳶組織には現在も辰五郎を顕彰する伝承が残っている。
的屋の祖としての辰五郎
もう一つ重要なのが的屋との関係である。
香具師や的屋の世界では、辰五郎を精神的祖先と位置付ける伝承が各地に存在する。注8
もちろん現在の全ての的屋組織が辰五郎から直接続いているわけではない。
しかし、
祭礼運営
場所割り
露店管理
群衆整理
という役割は、辰五郎たち火消・町人親分衆の活動と重なっていた。
そのため後世の的屋たちは、自らの理想像を辰五郎に求めたのである。
ここに、
火消
↓ 鳶
↓ 祭礼世話人
↓ 香具師
↓ 的屋
という系譜が見えてくる。
新門辰五郎が残したもの
辰五郎は明治八年(一八七五)に没した。注9
しかし彼の死は終わりではなかった。
辰五郎が体現したものは、
義理
人情
地域共同体
祭礼文化
火消精神
として受け継がれていった。
幡随院長兵衛が「侠客の原点」なら、
新門辰五郎は「江戸親分の完成形」であった。
そして辰五郎が生きた時代の関東各地では、後に関東博徒を代表する一家の源流が次々と生まれ始めていた。
武州では小金井小次郎が頭角を現し、
やがて小金井一家の基礎を築く。
次章では、その小金井小次郎と小金井一家の成立を通して、武州博徒の世界へ足を踏み入れていきたい。
注解
注1 今川徳三『新門辰五郎伝』人物往来社、1968年、12~18頁。
注2 南和男『江戸の火消』教育社、1981年、91~103頁。
注3 西山松之助『江戸庶民の世界』吉川弘文館、1995年、177~183頁。
注4 童門冬二『徳川慶喜と新門辰五郎』学陽書房、1998年、34~51頁。
注5 大江志乃夫『彰義隊』中公新書、1968年、82~95頁。
注6 童門冬二『徳川慶喜と新門辰五郎』98~113頁。
注7 南和男『江戸の火消』154~162頁。
注8 宮田登『香具師の民俗史』岩波書店、1985年、122~130頁。
注9 今川徳三『新門辰五郎伝』211~215頁。
参考文献
今川徳三『新門辰五郎伝』人物往来社、1968年。
童門冬二『徳川慶喜と新門辰五郎』学陽書房、1998年。
南和男『江戸の火消』教育社、1981年。
宮田登『香具師の民俗史』岩波書店、1985年。
西山松之助『江戸庶民の世界』吉川弘文館、1995年。
大江志乃夫『彰義隊』中公新書、1968年。
