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AI・自我・除菌・恋愛

仲のいい人と地方紙をペラペラとめくっていたときに、面白い記事を見つけた。ネットで調べたらヤフーニュースになっていたので載せてみる。

彼女はそれをみて「SFやん」と連呼していて、それがなんともおもしろかった。安直かもしれないけどちょっとだけ厭世的な気分に恐われた。そんな人が多いのではないだろうか。圧倒的に大きいものに出会ったときのあの感覚。

16のときにどうやってそれを知ったのかうまく思い出せないのだけど、賢治の「春と修羅」という詩に出会って、その出だしに強く惹かれた。そんなことを今思い出した。すべてを載せるのは大きなスペースとなるので出だしだけ。


わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといつしよに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

宮澤賢治 「春と修羅」

自分とか自我とかが膨れ上がる思春期という時期に、「自我は現象」というテーゼはパンチ力抜群だったのだと思う。

それからもう6年経って、今は22だけど、基本的に自我とか自分ということをひとつの現象だと捉える見方を相変わらず支持している。

村上春樹は自我、自分とは「容器」のようなものだとどこかで言っていた。僕は理科室のフラスコを想像してしまう。フラスコの中には過去の記憶であったり、他者のことばであったり、有象無象の経験であったりがわんさか投入されている。で、それが混ざり合って生成されるのが今現在の自己。

心の語源は「ころころと変わる様子」にあるらしい。就活の自己分析なんかで求められる自己は実体としての自己。賢治が言っているのは波としての自己、関係としての自己。

除菌シートが好き。除菌スプレー(消毒液のことだ)が好き。除菌シートでスマホを拭いているとき、とても気分がいい。

いつか養老孟司が言っていたこと。「腹の中に100兆の菌を抱えておいて「除菌」とか言っているのはどうなんですかね」。

僕はことばを失ってしまう。

かつて結婚と恋愛は切り離されていたようで、結婚は互いの家柄とか、影響力やら経済力が釣り合っているかどうかが重視された。だからそこに「恋愛感情」は不要だったよう。だから恋愛関係は婚外で行われた。「正式な愛人」という概念があったらしい。

恋愛してから結婚という現代の性愛のかたちは「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」と呼ばれる奇習的(局所的)なものの考え方に支えられている。「浮気を断罪する」というのはかなり多くの「前提」を要している。

恋愛のひとつの本質は「ロミオとジュリエット」「曽根崎心中」にみられるような、越境性に宿っているのだと思う。前者は身分の越境、後者は現世=世界そのものの越境。社会的な身分とか、親の命令とか、既存の慣習とかあるいは法さえも超え出てしまうところに恋愛の本質はあるのだと思う。でも、「超えよう」という能動ではなく、「超え出てしまった」という中動・受動において。

ほんとうにピンチの時に「僕はこの人のために法を犯せるか?」が関係の深さにおける試金石となるのだろう。そして「僕はこの人のために死ねるか?」が究極の問いだろう。

ずいぶんロマンチックな気分になってきた。

いま日本に足りないのはロマンチストだと僕は思う。


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