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日常と聖書をつなぐキーワード(19)名前──あなたをあなたとして呼ぶ

名前を呼ばれると、なぜ振り向くのだろう

駅やショッピングセンターなど、人の多い場所を歩いているとします。 周りでは、たくさんの人が話しています。笑い声やアナウンス、さまざまな音が聞こえてきます。
その中で、「すみません」と声がしても、自分に向けられたものなのか分からず、そのまま歩き続けるかもしれません。 けれども、ふいに自分の名前が聞こえたらどうでしょう。 思わず振り向いてしまいます。
たくさんの声に囲まれていても、自分の名前だけは、不思議と耳に入ってくるのです。

名前は、人と人とを区別するためにつけられたものです。けれども、それだけではないように思います。 久しぶりに会った人が自分の名前を覚えていてくれると、少しうれしくなります。 「覚えていてくれたんだ」
私たちは、生まれてから何度、自分の名前を呼ばれてきたでしょう。 家族から。友人から。先生から。仕事で出会った人から。 うれしいときにも、叱られたときにも、助けを必要としているときにも、私たちは名前を呼ばれてきました。

名前とは、いったい何なのでしょう。 そして、人を名前で呼ぶことには、どんな意味があるのでしょうか。

自分の名前は、なぜ耳に入ってくるのか

心理学には、「カクテルパーティー効果」と呼ばれる現象があります。 たくさんの人が同時に話しているにぎやかな場所でも、私たちは目の前の人の話に注意を向けることができます。周囲のすべての声を、同じように意識しているわけではありません。
ところが、離れたところで誰かが自分の名前を口にすると、それまで意識していなかった会話なのに、急に耳に入ってくることがあります。
私たちの脳は、周りにある膨大な情報の中から、自分にとって意味のあるものを選んで受け取っています。その中でも、自分の名前は特別な情報の一つです。

けれども、名前が特別なのは、脳の働きだけではないでしょう。
名前を覚えてもらっていると、私たちは「自分のことを覚えていてくれた」と感じます。反対に、何度会っても名前を覚えてもらえないと、少し寂しく感じることがあります。
名前は、単なるラベルではありません。 「あなたのことですよ」 名前を呼ぶことには、そんな意味も込められているのかもしれません。

神は名前を呼ぶ

聖書には、神が人を名前で呼ぶ場面が何度も出てきます。 旧約聖書のイザヤ書には、こんな言葉があります。

「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。」

(イザヤ43:1)

「贖(あがな)う」とは、失われそうになっているものを取り戻す、救い出すという意味です。
この言葉が語られたころ、イスラエルの人々は国を失い、故郷を離れて暮らすという苦しい状況にありました。
これから自分たちはどうなるのだろう。
自分たちは見捨てられてしまったのではないだろうか。
そんな不安の中にいる人々に、神は「恐れるな」と語りかけます。そして、 「わたしはあなたの名を呼んだ」 と言うのです。

このことを具体的に思わせる場面が、新約聖書にもあります。 ザアカイという人がいました。
彼は、当時ローマ帝国のために税金を集める仕事をしていました。その立場を利用して必要以上のお金を取り立てる人もいたため、この仕事をする人々は周囲から嫌われていました。
ある日、イエスが町にやって来ます。 ザアカイも一目見たいと思いました。しかし、背が低く、大勢の人にさえぎられて見ることができません。そこで先回りして、木に登りました。
やがてイエスが、その木のところまでやって来ます。 周りには大勢の人がいました。
ところがイエスは木の上を見上げ、こう言いました。

「ザアカイ。急いで降りて来なさい。」

(ルカ19:5)

「そこの人」ではありません。 「あの税金を集めている人」でもありません。 「ザアカイ」。 イエスは、彼の名前を呼びました。
周りの人たちは、ザアカイをその職業や評判で見ていたかもしれません。 けれどもイエスは、「ザアカイ」という一人の人を見ていました。
私たちは、人を職業や肩書き、評判などで見てしまうことがあります。しかし、その奥には、名前を持った一人の人がいます。

「わたしはあなたの名を呼んだ。」

聖書は、神が人を「その他大勢」としてではなく、一人ひとり名前のある存在として見ている、と語っているのです。

名前の向こうにいる人を見る

では、私たちは日々出会う人を、どのように見ているでしょうか。

職場の人。
近所の人。
店員さん。
先生。
学生。
いつも顔を合わせる人。

私たちは知らず知らずのうちに、相手を役割や立場で見ています。 けれども、その一人ひとりに名前があります。
「おはようございます」だけでなく、 「○○さん、おはようございます」
「ありがとう」だけでなく、 「○○さん、ありがとう」
名前を添えるだけで、同じ言葉が少し違って聞こえることがあります。

もちろん、名前をたくさん呼べば人間関係がよくなる、ということではありません。コミュニケーションの技法として名前を呼ぶのではなく、大切なのは、その人自身に目を向けることです。
その人にも、これまで歩いてきた人生があります。 うれしかったこともあれば、人には言えない悲しみもあるかもしれません。今日、何かを心配しながらそこにいるのかもしれません。
名前を覚え、名前を呼ぶことは、そんな一人の人に目を向ける小さなきっかけになります。

そして、私たち自身もまた、名前を呼ばれる存在です。
人から忘れられたように感じるとき。
自分がここにいることに、誰も気づいていないように感じるとき。
聖書のこの言葉を思い出してみてはどうでしょう。

「わたしはあなたの名を呼んだ。」

今日、出会う誰かの名前を、心を込めて呼んでみる。 朝、自分自身もまた、神から名前を呼ばれている一人なのだと知る。
名前という何気ないものの中に、私たちが互いを「かけがえのない一人」として見るための、小さな入口があるのかもしれません。

今日の1曲

「ビューティフルネーム」  歌:NEUTRINO
作詞:奈良橋陽子・伊藤アキラ/ 作曲:タケカワ・ユキヒデ
一人ひとりが持つ名前の大切さと、その名前の向こうにいる人のかけがえのなさを感じさせてくれる名曲です。

本記事は連載『日常と聖書をつなぐキーワード』の第19回です。
第1回『エレベーターのボタン』から続いています。
https://note.com/good_dove2537/m/m0d7e193aff00


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