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「日本のカタチ」 その29 ~「二所朝廷」の相剋と平定  式家の終焉と嵯峨天皇の台頭〜

桓武天皇の崩御と平城天皇の即位

806年3月、桓武天皇が没すると、皇太子であった
安殿親王が践祚します。これが平城天皇です。
平城天皇は桓武天皇の第一皇子で、母は式家藤原良継の娘・乙牟漏、
同母弟が後の嵯峨天皇です。

ただ、皇太子安殿親王と桓武天皇は、微妙な関係にありました。
805年には、天皇より参内を命じられながら応じず、
藤原緒嗣に説得されてようやく参内したと記録されています。
この不和の原因こそが、藤原薬子との関係でした。

藤原薬子の重用と内政の修正

藤原薬子は、あの藤原種継の娘であり、同じ式家の
藤原縄主に嫁いで三男二女を儲けていました。
娘が安殿親王の后となった際、付き添いの女官として
入内しましたが、娘を差し置いて親王と深い関係になります。
これに激怒した桓武天皇は薬子を追放し、夫の縄主を
東宮大夫として安殿親王を監視させました。
桓武天皇が没して平城天皇が践祚すると、天皇は
直ちに彼女を呼び戻し、文書を取り次ぐ重職である
「尚侍(ないしのかみ)」に就任させました。

治世の初期、平城天皇は官司の統廃合を進め、勘解由使を
廃止して地方を視察して不正を防ぐ「観察使」を置くなど、
父・桓武の政策の修正を図りました。
このまま推移すれば穏やかな治世となったかもしれませんが、
薬子とともに兄の仲成が権勢を振るい、
南家の没落を決定づけた「伊予親王の変」の首謀者となるなど、
政情は次第に不穏な空気を帯びていきます。

譲位と「二所朝廷」の出現

809年4月、平城天皇は病のため在位わずか3年で、
皇太弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位します。
この譲位には仲成・薬子兄妹は反対していましたが、
右大臣藤原内麻呂、大納言藤原園人・坂上田村麻呂らが、
病状の重い天皇に代わって即位を強行した可能性があります。

ところが、譲位した平城天皇は直後に健康を回復し、
同年12月、旧都である平城京に移り住みます。
ここに平城京の平城上皇と平安京の嵯峨天皇という、
朝廷が二つに分かれる異常事態が発生しました。
これを後世、鴨長明が『方丈記』の中で「二所朝廷」と
呼んでいるのは有名です。
当時の上皇は天皇と同等の権力を行使しうると
考えられていたため、両者からの命令が錯綜し、
百官も分断されていきました。

嵯峨天皇の反撃と変の終結

対する嵯峨天皇は810年3月、新たに「蔵人所」を設置します。
命令が尚侍の薬子を経由して漏れるのを防ぐための
秘書機関であり、長官の蔵人頭には側近の巨勢野足と藤原冬嗣
が任命されました。さらに6月には、平城天皇が設置した
観察使を廃止して参議を再置しています。
これにより、平城上皇と嵯峨天皇の関係は、
いよいよ一触即発となっていきます。

同年9月、平城上皇がついに平城京への「還都の詔」を発すると、
事態は一気に動き出します。
嵯峨天皇は三関を固めさせ、坂上田村麻呂を大納言に昇進させ、
翌日には捕らえていた藤原仲成を射殺します。
上皇は薬子とともに東国を目指しますが、嵯峨天皇はそれを予測して
坂上田村麻呂の軍勢に道を閉ざさせます。
平城上皇は勝機が失われたことを悟り、平城京に戻って
剃髪出家し、薬子は毒を仰いで自殺しました。
兵を動かしてからわずか2日で「平城上皇の変」は
あっけなく終結することとなります。

式家の退場と北家繁栄の基礎

乱の後、皇太子高岳親王は廃され、平城・嵯峨の異母弟である
大伴親王(後の淳和天皇)が立てられました。
平城上皇は出家はしたものの廃されることは無く、そのまま
上皇の地位は保障されましたが、平城京へ赴いた貴族の多くは
政治的発言権を失い、藤原仲成・薬子兄妹の死によって
式家の勢力は大きく後退します。

自らの命令で「二所朝廷」を統一した嵯峨天皇の権威は
絶大なものとなりました。
藤原内麻呂や藤原園人ら先代からの高官が世を去るにつれ、
嵯峨天皇の側近が台頭していきます。その中でも特に、
内麻呂の次男である藤原冬嗣が急速に勢力を強め、
以後の北家藤原氏繁栄の基礎を築いていくこととなります。

次回は、天皇家の歴史を考えた場合、大きな転換点となる
嵯峨天皇の治世を中心に見ていきます。


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