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「無駄な雑談」は、なぜ仕事の摩擦を消すのか

業務の効率化、タイムパフォーマンス、タスクの最適化。

社会に出てからというもの、私の周囲では「いかに無駄を削ぎ落とすか」という言葉が正義として踊っていた。

定例会議の時間は30分から15分へ短縮され、チャットツールでは「お疲れ様です」の定型文すら省いて要件だけを送ることが推奨される。言葉の贅肉を削ぎ落とし、最短距離で成果にたどり着く。それが洗練された大人の働き方なのだと、私も信じて疑わなかった。

だが、ある日他部署の担当者から届いたチャットに、言葉詰まりを起こした。

業務の確認に対して返ってきたのは、「承知しました。」の一文だけ。

要件は正しく伝わっている。
ミスも遅延もない。
完璧でロジカルなコミュニケーションだ。

それなのに、画面の前で私の胸は妙にざわついていた。

「もしかして、何か気に障ることを書いてしまっただろうか」
「冷たい対応をされたのではないか」

正解のやり取りであるはずなのに、なぜかその不穏な手触りだけが、喉の奥に刺さった魚の小骨のように残った。

無駄をなくしたやり取りのはずが、なぜ人間関係の摩擦や不安が増えてしまうのだろう。

この小さな違和感が頭から離れなくなった私は、職場におけるやり取りを意識して観察してみることにした。そこで気づいたのは、私たちが効率化の名のもとに削ぎ落としていたものの正体だった。

私たちが削っていたのは、単なる「暇つぶしの時間」ではなく、相手の状態(コンディション)を知るための重要なシグナルだったのだ。

文字だけのやり取りでは、相手が今どんな感情で画面に向き合っているのかが全く見えない。人間には、不完全な情報に接したとき、空白の部分を「恐怖」や「防衛」といったネガティブな感情で補完してしまう心理的な性質がある。相手が単に忙しくて返信を簡素にしただけでも、受け手は「自分は嫌われている」「怒らせたかもしれない」と勝手に身構えてしまうのだ。

「効率化」は情報の伝達スピードを上げてくれたが、人が安心して他者と繋がるための「心理的安全性」まで同時に与えてくれるわけではなかった。

原因に見当をつけた私は、次にその担当者とオンライン会議をする際、試しに小さな「無駄」を挟んでみることにした。会議が始まる直前、画面越しの相手にこう一言添えてみたのだ。

「そういえば、最近そちらの地域、雨続きですよね」

ただの天気の話だ。
仕事の成果には1ミリも関係がない。

しかし、画面の向こうで相手が少し表情を緩め、「そうなんですよ、洗濯物が全然乾かなくて」と返してくれた瞬間、それまで空間を包んでいた硬い空気がすっと抜けていくのが分かった。相手が「ただの仕事の記号」から「生活を営む生身の人間」として立ち現れた瞬間だった。

その後の本題は、驚くほど素直かつスムーズに進行した。事前にお互いの人間味を感じ取っていたからこそ、言葉の端々に自然な配慮が生まれたのだ。

この体験を通して、私は「雑談」というものの本質的な役割を理解した。

一見すると生産性のない雑談は、機械でいう潤滑油であり、あるいは車のハンドルにある「遊び」なのだ。

ハンドルにまったく遊びがなければ、路上でわずかに手がブレただけで車体は大きく揺れ、簡単に事故を起こしてしまう。人間関係もまったく同じだ。言葉から余白や情緒を削ぎ落としたコミュニケーションには「遊び」がなく、ほんの少しの言葉のニュアンスの違いで簡単に強い摩擦を生んでしまう。

「答え」や「効率」ばかりが求められる現代において、私たちはつい目に見える数値やスピードだけを価値だと錯覚してしまう。

しかし、人間という複雑な存在は、論理(ロジック)だけでは動かない。割り切れない感情の手触りや、くだらない世間話という「愛おしい無駄」によってこそ、しなやかに繋がることができるのだ。

正解に一直線で向かうことだけが、学びではない。遠回りや無駄の中にある人間の手触りに目を向けることもまた、深い学びなのだと思う。

だから今日も私は、キーボードを叩く手を一瞬止め、画面の向こうの相手に無駄な一言を添えてみようと思う。

効率の先にある、確かな関係性を繋ぎ止めるために。

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