本命じゃなくてもいいから、そばにいさせて。

日曜の午後。
朝から降り続く雨のせいで、ベランダの窓には細い水滴が流れ、向こうのマンションは白く霞んでいた。
紗季が直人の部屋に来たのは、午後二時を少し過ぎた頃。
「近くまで来るなら寄れば?」
と言われて立ち寄っただけで、泊まる予定も、一緒に夕飯を食べる約束もなかった。
以前は月に何度もこの部屋を訪れていた。土曜の夜に泊まり、日曜は昼近くまで二人でまどろむ。
先に起きた直人がコーヒーを淹れ、紗季が冷蔵庫のありあわせで朝ごはんを作る。
「また卵買ってないじゃん」
「紗季が来る日に買えばいいと思ってた」
そんな会話を取り交わすのが、二人の日常だった。
洗面所には紗季の歯ブラシや化粧落とし、ヘアブラシが置かれていた。
誰かの部屋に存在する「自分の場所」。
紗季はそれが嬉しかった。
けれど今日は、その場所が少しずつ削り取られているように感じた。
リビングの床には段ボール箱が広がり、本や古いコード、着なくなった服が散らばっている。
「何してるの?」
「物が増えすぎたから、ちょっと整理してて」
紗季も床に腰を下ろし、片付けを手伝い始めた。
昔買ったゲームを見つけて笑い合い、大学時代の写真に出てくる若いお互いを見てからかい合う。
その時間だけを切り取れば、昔と何も変わっていないように思えた。
けれど、身だしなみを整えようと洗面所へ向かったとき、手が止まる。
いつも洗面台の隅にあったはずのヘアブラシと化粧落としがない。
「直人、私のブラシどこ行った?」
「……ああ、だいぶ前に片付けた。ずっと使ってなかったから。洗面台の下にあると思う」
しゃがんで扉を開けると、奥に置かれた透明な袋の中に、それらは入っていた。
「捨ててないよ」
という直人の声に、
「うん、あった」
と返し、以前の場所に戻すこともできず、そのまま扉を閉めた。
一ヶ月来ていなかったのだから当然だと言い聞かせようとしたが、鏡に映る自分の顔は硬かった。
「紗季、コーヒー飲む?」
「飲む」
キッチンから豆を挽く音が聞こえる。
ダイニングの椅子に座り、直人の背中を眺める。
やがて運ばれてきたのは、見慣れない白い無地のマグカップだった。
直人が食器棚から、もう一つのカップを取り出す。
それは付き合って半年ほどした頃、二人で入った雑貨屋で買った、小さな青い鳥の描かれたカップだった。
『直人の家に、このカップ置いとこうかな』
『じゃあ俺のも紗季んちに置いといて』
あの日、そう言って笑っていた。
直人の食器棚で、ずっと右端が定位置だったはずのもの。
「これ、持って帰る?」
「どうして?」
「最近使ってないし。棚をちょっと整理してるから」
「使ってないのは、私が最近来てないからでしょ」
冗談っぽく笑ってみせたが、直人は、
「まあ、そうなんだけど」
とだけ言い、そのカップをシンクの横に置いた。
元の場所には戻さなかった。
他愛のない会話は続いた。
仕事のこと、近所にできたスーパーのこと、共通の知り合いのこと。
直人は笑い、紗季の話を聞いている。
嫌われているわけではなさそうだった。
だからこそ、余計に理由が分からなくなる。
「来週、どこか行かない?」
直人はカップを持ったまま、少し沈黙した。
「来週か……まだ分からないな。たぶん仕事が入ると思う」
「そっか」
本当は「土曜日は?」「夜だけでも会えない?」と重ねたかった。
でも、やめた。
直人に「重い」と思われたくなくて、最近はいつも言葉を選んでばかりいる。
直人がベランダの洗濯物を取り込みに立った隙に、紗季は部屋を見回した。
ふと目にとまった本棚の下段。
去年二人で海へ行ったときの写真が入っていたはずの写真立てが消え、代わりに小さなスピーカーが置かれていた。
「ここにあった写真、どうしたの?」
「ああ、あれ? 棚を整理したときに外した。たぶん引き出しの中にある」
「なんで外したの?」
「特に理由はないよ。物を減らしたかっただけ」
青い鳥のマグカップ。
洗面台の下に押し込められたブラシ。
片付けられた写真。
どれも「捨てられて」はいない。
けれど、確かに「そこにあった場所」からは消されていた。
「直人。最近、私たち変わったよね」
直人の手が止まる。
「会う回数も減ったし、LINEも前より少ない。今日来たら、私の物も片付いてた」
「全部じゃないだろ」
「……私、もう好きじゃない?」
直人は困ったように目を伏せた。
「嫌いになったわけじゃないよ」
その言葉に、胸が静かに沈んでいく。
「好きだ」とは言ってくれないのだ。
「じゃあ今、私のことどう思ってるの?」
「自分でも分からない。前と同じ気持ちかって聞かれたら、正直分からないんだ。一緒にいるのが嫌なわけじゃない。でも、前みたいに毎週会いたいとか、ずっと連絡を取りたいっていう感じじゃなくなってる」
誰か他に好きな人ができたわけでもなさそうだった。
ただ、直人の気持ちが以前と同じではないということだけが、酷く鮮明に伝わってきた。
午後六時過ぎ。
「そろそろ帰るね」
と立ち上がると、直人も、
「うん」
と立った。
以前なら「雨だし泊まっていけば?」と言われた時間。
今日は何も言われなかった。
玄関で靴を履きながら、このまま帰れば、次にいつ会えるか分からない恐怖が押し寄せてくる。
別れたくない。
まだ好きだ。
今まで通りじゃなくてもいい。
LINEが減っても、たまにしか会えなくても、直人との関係が途切れないなら、なんだって我慢する——。
その言葉が喉まで出かかった。
伝えれば、この曖昧な関係のままそばにいられるかもしれない。
直人を失わないためなら、どこまでも自分の望みを小さくできそうな気がしていた。
「紗季、どうした?」
呼びかける直人の顔を見つめ、言葉を呑み込む。
「……ううん。何でもない。じゃあね」
「気をつけて」
マンションを出ると、雨はまだ降り続いていた。
傘を開いて歩き出すと、バッグの中でスマホが震えた。
直人からだった。
『今日はごめん』
何に対しての「ごめん」なのか。
気持ちが変わったことか。
うまい言葉を見つけられなかったことか。
紗季は返信画面を開き、いつものように、
『大丈夫だよ』
と打ち込んだ。
けれど、送信ボタンを押す手が一瞬で止まる。
大丈夫なはずがなかった。
悲しくて、怖くて、胸が張り裂けそうだった。
なのに、また自分を押し殺して「大丈夫」と言おうとしている。
紗季は文字をすべて消した。
今すぐ返事を出すのはやめた。
明日、彼から連絡が来ればきっと嬉しい。
会いたいと言われれば、すぐに駆けつけてしまうだろう。
だからこそ、玄関で言いかけた言葉が、胸に刺さったまま離れない。
本命じゃなくてもいいから、そばにいさせて。
そこまで自分を削らなければ、彼のそばにいられないのだろうか。
すぐには答えを出せない。
別れた方がいいのかもしれない。
それでも、終わらせる勇気はなかった。
もう一度、直人の気持ちがこちらを向いてくれるんじゃないかと、どこかでまだ期待している自分もいる。
紗季は傘の柄を握り直し、濡れた歩道をゆっくりと歩き出した。
直人から離れたいわけじゃない。
好きな気持ちがなくなったわけでもない。
ただ、拒絶されるのが怖いからといって、何も望まないふりをして、自分まで粗末に扱うようにはなりたくなかった。
雨はまだ、止みそうになかった。
それでも紗季は、さっきより少しだけ顔を上げて歩いていった。
Fin
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次回は、この物語で描いたような関係について、恋愛ノウハウとして深く掘り下げていきます。
・彼の気持ちが離れているように感じるとき、何を見ればいいのか
・待ってもいい関係と、一度立ち止まった方がいい関係の違い
・「会えるだけでいい」と、自分の望みを小さくしてしまうときに考えたいこと
同じような関係に悩んでいる方にとって、少しでもヒントになる内容にできたらと思っています。🪞
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「いつか変わってくれるかもしれない」と思って、今日の自分を後回しにしてしまうことがある。そんな恋について書いた、もうひとつの物語です。
『未来のために、今日を使わない』
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