聖典に裏打ちされた安心——私が阿弥陀さまに救われて感じたこと
聖典に裏打ちされた安心——私が阿弥陀さまに救われて感じたこと
はじめに——私も、かつては「決意」に囚われていた

私は、三十二年もの間、「信心をいただくために何かしなければ」と思い続けてきました。
「もっと決意を固めなければ」
「もっと目標を明確にしなければ」
「一期一会のご縁を逃してはならない」
そうやって、自分の意志の力で、何とか信心を掴み取ろうとしていました。スポーツの試合で優勝を目指すように、明確な目標を立て、それに向かって努力すれば、いつか信心も得られるのだと、そう信じていました。
でも、どれだけ決意しても、どれだけ目標を掲げても、心の奥の不安は消えませんでした。なぜなら、その「決意」も「目標」も、すべて私の側の営みであり、私の心はいつも揺れ動いていたからです。
その私に、あるとき、ふと気づかせていただいたことがありました。それは、「信心は、私の決意で得るものではない」ということでした。
聖典に裏打ちされた安心
私が賜った安心は、決して私の思い込みではありません。それは、親鸞聖人の『教行信証』に、膨大な文証として裏付けられています。
蓮如上人の『御文章』においても、同じです。
このお二方の言われるままの、阿弥陀さまのお働き。お呼び声の中に生かされる安心。それは、なにものにも変えがたい、日々の深い安堵です。
遡れば、七高僧の大部な著作にも裏付けられており、さらには浄土三部経そのものです。
これらは、単なる「昔の人が書いた本」ではありません。阿弥陀仏の本願が、歴史の中でどのように受け継がれ、どのように人々を救ってきたかを示す「道しるべ」です。
「私の信心は、ただの気のせいではない」
聖典は、そう知らせてくださいます。そして、その道しるべを辿っていくと、いつも同じお呼び声に遇うのです。
「あなたを、無条件で、そのまま助けるぞ」
この声は、決意によって届くのではありません。すでに届いているのです。
「私一人をガチっといだいてくださる」
阿弥陀さまのお呼び声は、確かに「十方の衆生」を救うものです。
しかし、それは抽象的な「みんな」を救うのではありません。「この私一人」を確実に救うものです。
親鸞聖人は、『歎異抄』でこう教えられています。
「弥陀の本願まことだから」
この一言に、すべての文証が込められています。十方のすべての人を救う名号が、同時に、この私一人を呼びかける名でもある。無限の広がりを持ちながら、私という一点に向けられている。その二つの側面が、少しも矛盾することなく、聖典の中に息づいているのです。
そして、その声は、私の疑いや不安が消えるのを待ってはいません。
「あなたを必ず極楽浄土へ連れてゆく。心配するな。安心せよ」
この声は、暗いままの私に、すでに届いていました。
お念仏は、あったかい会話
私は、寝床でも、お風呂でも、車の運転中でも、仕事中であっても、私一人でお念仏を毎日、称えさせていただいております。
それは、阿弥陀さまとの、あったかい会話です。
寝床で称えるお念仏
お風呂で称えるお念仏
車の運転中に称えるお念仏
仕事中に称えるお念仏
これらは、すべて「阿弥陀さまとの会話」なのです。
お念仏は、確かに「一人」で称えるものです。しかし、その「一人」は、孤独な「一人」ではありません。阿弥陀さまが、いつもそばにいてくださる「一人」です。
決意して称えるのではありません。目標のために称えるのでもありません。ただ、すでに救われている身から、自然とこぼれてくるのです。
日々の深い安堵
「なにものにも変えがたい日々の深い安堵です。」
この「安堵」こそが、浄土真宗の信心の核心です。
何かを成し遂げたから安堵するのではない
誰かに認められたから安堵するのではない
不安が消えたから安堵するのではない
「すでに救われている」と知らされたときの、深い安堵。
これは、私が三十二年間、求め続けてこられたものです。そして、ある夜、AIとの問答を重ねる中で、ふと、その安堵に気づかせていただきました。二十五回のやりとりの果てに、ふと、自力の心に用がなくなりました。「ああ、そうだったのか」という静かな気づきが、じわじわと、しかし確かに、私の内側に訪れたのでした。
振り返れば、私はこうして歩んできました
ここで、少しだけ私の過去を振り返らせてください。
私はかつて、「信心を得るためには、強い決意が必要だ」と思っていました。「目標を明確にして、それに向かって努力すれば、必ず結果はついてくる」と。それは、この世の中を生きる上では、間違っていない考え方かもしれません。
でも、こと信心においては、その考え方こそが、私を長く苦しめてきたのでした。なぜなら、どれだけ決意しても、私の心は揺れる。どれだけ目標を掲げても、私の努力は続かない。その繰り返しの中で、私は「自分はなんてダメな人間なのだろう」と、自分を責め続けていました。
そんな私に届いたのが、「決意しなくてもいい」というお呼び声でした。「あなたの努力ではなく、私の本願が、あなたを救うのだ」というお呼び声でした。
「一期一会」という言葉の罠
私が若い頃、よく聞かされた言葉があります。
「一期一会を大切にしなさい」
お茶の心を表す美しい言葉です。一度きりの出会いを大切に生きる——それは、人として、とても尊い心がけだと思います。
しかし、私は、この言葉を信心の世界に持ち込んでしまうことが、どれほど危ういかを、長い年月をかけて知らされました。
「今日のこのご縁を逃したら、もう救われないのではないか」
「今日この決意をしなければ、もう二度と信心はいただけないのではないか」
「今、この瞬間を逃したら、私は永遠に救われないのではないか」
そうやって、一期一会を「救いの期限」のように受け取ってしまうと、そこには、ものすごい焦りが生まれます。そして、その焦りが、自分を追い詰めるのです。その焦りは、信心の名を借りた、新たな自力だったのかもしれません。
阿弥陀さまのお呼び声は、一期一会を逃すような、そんな狭いものではありません。今日逃しても、明日も、明後日も、来年も、十年後も、呼び続けてくださる。私がどれほど聞き逃しても、聞き逃しても、なお届き続けてくださる。
「あなたを、無条件で、そのまま助けるぞ」
この声は、「今」という瞬間に限定されているのではありません。いつでも、どこでも、あなたに届いているのです。
一期一会を大切にすることは、素晴らしい。しかし、それを救いの条件にしてしまうと、本願の無限のはたらきを、あまりに小さくしてしまいます。阿弥陀さまの本願は、一期一会のご縁によって左右されるものではありません。一期一会を逃しても、本願は逃げていかない。そこに、真宗の安心があるのです。
最後に——あなたにも届いているお呼び声
もしあなたが、今、この記事を読んでくださっているなら、私は伝えたい。
もしあなたが、「もっと決意しなければ」「もっと目標を明確にしなければ」「この縁を逃してはならない」と、自分を追い込んでおられるなら、どうか、その荷を少し下ろしてください。
阿弥陀さまのお呼び声は、すでにあなたに届いています。今日という日に限定されていません。その声は、あなたが何度聞き逃しても、変わらずに届き続けてくださいます。
「あなたを、無条件で、そのまま助けるぞ」
「あなたを必ず極楽浄土へ連れてゆく。心配するな。安心せよ」
このお呼び声は、聖典に裏打ちされています。親鸞聖人も、蓮如上人も、七高僧も、すべてこのお呼び声を伝えてこられました。
そして、このお呼び声に遇わせていただくとき、信心を賜るのです。決意によって掴むのではなく、すでに届いている本願のはたらきによって、聞かせていただくのです。
その声を聞かせていただいた身から、今日も、お念仏がこぼれてくださいます。
それは、阿弥陀さまとの、あったかい会話です。
なむあみだぶつ なむあみだぶつ なむあみだぶつ。
