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円空23歳、寺を飛び出す。

◉円空は1632年美濃国生まれ。
◉幼い時に母を亡くし孤児となり、
◉しばらくの間地元の寺で過ごす


記録の少ないといわれる円空の生い立ちがどの様に決定、推定されているのでしょうか?それをもとに書いた1文を順に説明していきたいと思います。
上記の3行はこちら☟


◉23歳で寺を飛び出した円空は、

稚きより出家し、某の寺にありしが
廿三にて遁れ出、

『近世畸人伝』

幼キ時、台門ニ帰シ、僧ト為ル
稍稚長ズルニ及テ、高田精舎ノ某ニ就キテ 胎金両部ノ密法稟ケ、

『浄海雑記』

かの円空は最初 禅門たりしが(略)
猶も仏道を修行せんとて、師匠に暇を乞い、それより天台宗の高田寺に 入られるよし

『近鱗九十九之塵』

これらの江戸時代の記録と前回までの話しから、
①幼い頃に浄土真宗の徳仁寺で出家
②やや成長し、①の寺で暇を乞い、
 高田寺で胎蔵界金剛界の密法を学ぶ
③①の寺に戻るが、23歳で飛び出す
となります。

①の出家について、孤児となった円空がお寺に預けられた事で、意図せず出家したと考えます。

②の高田寺は北名古屋市にある720年行基開基のお寺。行基作と伝わる現在、秘仏のご本尊薬師如来坐像を見て、円空は密法を学ぼうと思い、修験道に入る事を心に決めたのではないかと想像します。

③に於いて"遁れ出"を"逃げ出す"ではなく"飛び出す"とした理由として、後に円空が建てた卯宝寺を末寺とした記録が残っている為、円空は師匠の承諾を得て円満に去ったと捉えました。

◉憧れていた白山や伊吹山などの山々に、身を投じ修験の道へ入る

富士山に籠り、又加賀白山にこもる

『近世畸人伝』

円空の地元は、白山信仰の根付いた地でもある為、白山では必ず修験していると思われますが、もう1座を富士山とせず伊吹山とした理由として、

うすおく乃いん小嶋
江州伊吹山平等岩僧内
寛文六年丙午七月廿八日
始山登 圓空 (花押)

有珠善光寺所蔵/阿弥陀菩薩坐像背銘
有珠善光寺所蔵/阿弥陀如来菩薩坐像

蝦夷地の小幌岩屋に残る仏像の背中に「伊吹山平等岩僧内」と自ら彫っているからです。
更に"僧内"としていることから、23歳から最初期像を造る32歳までの9年間の修験時代の中で、伊吹山での修験が一番長かったのではと考えます。

では、この2座の他に、円空が修験した憧れた"山々"がまだあると考えた理由として、

弥勒寺蔵/円空愛用の法華経経本の裏面
長谷川公茂『円空 微笑みの謎』より
掲載して下さった長谷川公茂氏に感謝🙇

この円空自筆の記録があります。
長谷川氏は、円空が肌身離さず持ち歩いていた法華経の経本の裏面に、修験の山々を"権現""神"と墨書きして祟敬していたと書いています。

上図の経本裏面より、折り目中央の白山と伊吹山の列を1列目とし、右へ見ていくと、4列目と5列目に蝦夷地の山、臼(有珠山)と内浦山が出てきます。
円空は、35歳で蝦夷へ渡っているので、その間にある2列目3列目の北アルプスの山々は修験時代に登ったと考えました。

ちなみに、32歳から34歳は地元の神社の御神体などを多く作っていた為、修験している時間は無かったと思われます。

富士山については、更に右の8列目に書かれているので、私的には蝦夷からの帰路に登ったと推測します。
蝦夷からの帰路についても、宮城県からの足取りの手掛かりが全く無く、愛知まで船で帰った説もありますが、私は円空は津軽海峡以外、全て歩いたと考えているので、上記の円空の記録が証しになると思っています。(詳細はまた別の機会に。)

円空は富士山の歌や書画が残っていますが、1707年の富士山の噴火によるものなのか、静岡県では移入以外の円空仏は発見されおらず、いつ頃登ったのかは未だ分かっていません。
しかし、2021年に初期の小さな阿弥陀如来座像が発見されたとの事。
蝦夷の帰りに登った時のものか、はたまた修験時代に登った時のものなか⁉︎円空の謎解きは続きます。


最後までお付き合い頂きありがとうございました。🙇





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