ごっこの国――需要が止まらない限り
すべてがやらせの時代、と言ってしまえば身も蓋もないが、事実そうなりつつある。もっとも、やらせ自体は今に始まったことではない。アカデミー賞の「今年は誰々の年」という空気、文学賞の予想筋、ファッションの流行——これらはすべて、少数のプレイヤーが事前に方向性を握り、あとから「自然発生した合意」という体裁を整える作業の産物だった。業界には業界の裏取引があり、そして裏取引にはルールがあった。
問題は、そのルールごと崩れたことだ。
かつての業界的やらせには、ゲートキーパーという名のブレーキが内蔵されていた。恥をかけば評判が傷つく。だから彼らは、保身のためであれ、一定の品位を保つ動機を持っていた。ところが個人が自由に発信できる時代になり、そのブレーキは消えた。
SNSやインスタの動画は、もはやほとんどがやらせであり、驚きすらない。驚きがないから、ますます過激な演出が必要になり、一線を越える者が現れる。越えた瞬間だけ数字が跳ね、炎上そのものが報酬になる。失うものを持たない個人には、業界人が内側に持っていた「まだやっていいこと」の線引きが、そもそも存在しない。
各国はSNSの年齢規制で対応しようとしているが、これだけでは足りない。年齢を重ねれば適切に判断できる、という前提そのものが怪しい。とりわけ日本のように精神年齢の成熟が伴わない土壌では、年齢確認は形式的な防波堤にしかならない。
ならばどうするか。答えは供給側ではなく、需要側にある。需要があるからやらせが起きる。需要を止めればいい。私自身、Xをやめようと思っている。Facebookもやめたいくらいで、アカウントはすでに休止中だ。規制を待つ前に、個人がプラットフォームから撤退するという選択そのものが、ひとつの意思表示になる。
制度的な手当ても考えられる。クレジットカードの与信審査と同じ発想で、過去の問題投稿や発言の記録に応じて、アカウントの発信力を制限する仕組みだ。表現の自由を盾にされれば規制論は押し返されるが、これは公権力による言論統制ではなく、私企業による与信判断の話にすぎない。滞納履歴でカードが止まるのと同じ理屈で、発信の与信も落ちる。
そして政治家については、もっと単純な話だ。Xなど、もう使わせなくていい。政治家には最初から、正式な発言の場が制度として用意されている。国会、記者会見、党の公式声明。国会答弁には質疑応答による検証があり、議事録という記録が残り、発言には責任追及の仕組みがある。Xの百四十字には、そのどれもない。
政治家がその場を捨ててXに逃げるのは、熟議を経ない断片的な扇動を、自ら選び取っているということだ。ここに表現の自由の壁は要らない。公人の公務としての発言は、私人の表現の自由の話ではなく、説明責任の話だからだ。
国会を避けて百四十字に逃げる者
熟議より「いいね」で決める空気かな
答弁は議事録に載る Xは消える
需要を止める。与信で縛る。政治家には制度の場に戻ってもらう。三つとも、供給を規制するのではなく、やらせが成立する土壌そのものを狭めていく話である。
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