見出し画像

『よこがお 』不完全な心——『恋愛裁判』公開に寄せた私信

深田晃司の映画には、心がつきまとう。

三年ぶりの新作映画となる『恋愛裁判』のキャッチコピーには、“心を縛るルールに迫る問題作”と記され、蓮實重彦からは一定の評価を与えられながらも、「運動ではなく行動原理が心にある」と断じられていた。確かに、心情からアクションに移る因果を描くとなると、映画は停滞する。感情は可視化されないため、安直に映像メディアで表現しようとすると、「とにかく役者の顔に寄る」、「思っていることをすべてセリフにする」など、そこに複雑な感情があろうと、手法自体は説明的なものにならざるを得ない。事態の把握や感情の消化よりも先に、人物の身体が思わず動く瞬間には、確かに言いようのない感動がある。

一方で、映画で心を描くことは、そんなにいけないことなのか、とも思う。学生時代を終えてから映画を観始めた筆者は、ほんのここ数年に映画を語る上で、“運動”や“構図”という概念が存在すると知った。それを身に着けようと腐心しているうちに、映画を観る方法を体得した気になってしまうが、それは暗記型詰め込み教育のようなもので、強い意識を持ってしか言いようのない感動を得られない。無意識に受容できる感性を、未だ持ち合わせない自分に少々嫌気が差しながらも、気長に映画を観続けている。

そんな折に、新作の公開を控える深田晃司の『よこがお』を久方ぶりに観た。

ひとつの事件をきっかけに、世間から不条理な批判に晒された女が、復讐に囚われる物語だ。数年ぶりの鑑賞であった本作を、数年前であればつつがなく面白いと感じていたにも関わらず、「これが心理的な映画ということか」と腑に落ちてしまった。強い意識を持たずとも、映画の中で心を描くことの不都合が、画面に定着している箇所があるのではないか。

断っておくと、そうは言いつつ『よこがお』という映画は面白い。これから著者が述べることは、映画全体からすれば重箱の隅をつつくようなものだ。不意に現われる不穏な光の演出、室内の空間を生かしたサスペンス、時系列を交差させながらも整理されたストーリーテリング、そして何よりも主人公・市子を演じた筒井真理子の存在感。いくらでも美点はある。しかし、心を描こうとした二つの場面の停滞が目につくのだ。

一つは、事件の犯人が甥の辰男だと隠していたことを、市子が被害者の母親・洋子(川隅奈保子)に追及される場面。もう一つは、レストランにて、基子(市川実日子)が同居をしたいと淡い計画を伝えた後に、素っ気ない市子に対し怒りをぶつける場面。

両シーンともに、芝居の中心となる二人が画面の中央に配置され、その場から動くことなくカットが割られず、一連のやり取りを見せていく。怒りをぶつけ、動揺が生じる。その感情の動きを、運動ではなく芝居で捉えている。序盤にあった、ガラス越しにサキ(小川未祐)が現れ、カメラが切り返すと辰男の顔が陰に覆われている、というシーンとは対照的だ。

奥行きのない画面は停滞している上に、肝心の芝居は、お互い相手の言葉を待っているような、ややぎこちない間合いを感じる。演技の良し悪しは、映画を観る上で最も主観的な評価軸になるが、難しさを感じながら演じているように見えてならなかった。怒りを露にした人物を演出するなら、セリフだけに固執する必要はないだろう。極端な例だが、洋子が手に持っている週刊誌を怒りの余り投げつけるだとか、家事をしながら一切目を見ることなく話しかけるとか、室内と室外の切り返しショットで断絶を表現するなど、動きやカット割りによって俳優の芝居の出力を高めていくという方法もあったはずだ。

前述した通り、充実したショットやシークエンスがいくつも見られる本作において、この二つのシーンは、特に芝居を見せるべきだと深田晃司が考えていたことは想像に難くない。だが、セリフのみで心を捉えることの限界や不完全性が顕在化したシーンだと、著者は感じた。怒りをセリフの発話で表現しようとする余り、身体と発話が固くなっているのではないか。

不完全と言えば、ハニートラップ然とした計画を練っていた市子の復讐は、基子の恋人との破局によって呆気なく潰える。本作の最終盤、市子が横断歩道で停車すると、目の前を基子が偶然通りかかり、一度はアクセルを踏むものの、衝突の寸前で市子は思いとどまる。
基子は車内に市子がいることに気付いていない。(市子は基子の想いに気付いていなかった、とも言える)やむにやまれぬ思いで、市子はクラクションを鳴らす。無念、憤怒、屈辱。言葉にすることが陳腐に思えるほど、あの轟音には市子の心が宿っていた。却って、この音響の豪快さが芝居のみで心を描く不完全さを強調しているようにも思える。だが、深田晃司は、厳しくも登場人物の内面に寄り添う映画作家だと確信する。

本作は、市子の“よこがお”を捉えたサイドミラーで幕を閉じる。このショットも、少し短くした方が切れ味が良くなりそうだ、と不完全さを唱えたくなる。

ただ、もう一度よく考えてみると、『よこがお』では徹底して不完全さが描かれていた。遂行しきれない復讐、止められなかった辰男の犯行、言うか言うまいか判断の迷い、破談になった婚約、気付かなかった想い。心を描くと決めた以上、作り手としても不完全さからは逃れられないのだろう。言及した二か所の芝居の不完全さは敢えての表現だ、と強引に擁護するつもりはない。

ほとんどすべてを失いかけた状況で心臓マッサージを続ける『淵に立つ』の古畑寛治演じる利雄や、従来の人生から脱却すべく逃走した先の韓国で途方に暮れて踊るしかなくなる『LOVE LIFE』の木村文乃演じる妙子も、不完全な人間だ。両作とも因果を経て引き起こされるアクションに人物の心が宿っている。

やはり心を正面から描くことには失敗したのではないか。ただ、そう考えながらも、人間の心を描く深田晃司の映画を支持したくなる。

『恋愛裁判』の法廷シーンは、ただ立ち尽くし言葉を放つシーンが想像される。今回もまた、不完全な人間を不完全な試みで描くのだろう。その試みが、“運動”や“構図”に勝ることがあるかはわからない。今はただ、明日の『恋愛裁判』公開に期待を寄せるばかりだ。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集