失恋した後輩を励ましに行ったら、逆に上司が泣いて元気をもらって帰ってきた話。
金曜の夕方、隣の席の同僚が神妙な顔でやってきた。
「森さん、7年付き合った彼氏と別れたらしいよ」
森さんは、最近私たちの仕事を手伝ってくれている後輩だ。
7年である。
人生の、それなりに大きな時間だ。
「今夜、飲みに行こう」
隣の席の同僚が、真っ先にそう言い出した。
「森さん、励まさなきゃ」
私も即座に賛成した。
ここは先輩として、ちゃんと支えてあげなければならない。
そこに上司も加わることになった。
「俺も行く。部下の一大事だからな」
こうして、隣の席の同僚、私、上司の三人で、森さんを励ます会が結成された。
加盟国、三つ。
今回は、それなりに大所帯である。
「今日は、森さんが主役だからね」
「悲しいことがあったら、いくらでも吐き出していいから」
居酒屋に向かう道中、私たちは真剣に打ち合わせをした。
聞き役に徹すること。
否定しないこと。
そして、絶対に「元気を出せ」と急かさないこと。
完璧な作戦だった。
作戦が完璧だったのは、この時点までである。
個室に着き、乾杯のビールが運ばれてくる。
「今日は、森さんのために乾杯だ!」
私は、良かれと思って声を張った。
店の入り口まで聞こえたと思う。
個室中の空気が、一瞬で「励ます会」から「祝賀会」に様変わりした。
「……あの、私、振られた側なんですけど」
森さんが、控えめにツッコミを入れる。
正しい。
すべて正しい。
慶事ではない。
「ごめん、テンションの調整を誤った」
隣の席の同僚に肘で小突かれ、私は反省した。
作戦開始10秒での失敗である。
仕切り直して、上司が静かに口を開いた。
「森さん、辛かったな。実は俺も、結婚する前に一度、大きい失恋をしてるんだよ」
おお、と場の空気が変わった。
ベテランの登場である。
上司の失恋話なら、森さんの心にも何か響くかもしれない。
皆で身を乗り出した。
ところが。
語り始めて30秒ほどで、上司の声が湿ってきた。
「あのとき、俺は本当に彼女のことを大事にできてなかったんだ……」
「別れてから気づいても、遅いんだよな……」
えっ。
全員の顔が固まる。
励ます側のはずの人間が、先に泣き始めている。
「あ、あの、上司さん、大丈夫ですか」
森さんが、心配そうに上司の背中をさする。
励ます会のはずが、上司の失恋の傷を森さんが癒す会に変わっていた。
隣の席の同僚と私は、無言で顔を見合わせた。
この人、家では女神のような奥さんが「お疲れさま」と迎えてくれるタイプだと思っていた。
それなのに、いまだにこんなに引きずっていたとは。
人には、女神をもってしても埋まらない過去というものがあるらしい。
「上司さん、それは奥さんには内緒にしといたほうがいいですよ」
隣の席の同僚が、冷静にたしなめる。
彼の役割は、いつもここにある。
誰かが暴走したときの、最後の防波堤である。
今日はまだ、私しか止めていない。
このままではいけない。
私は気を取り直し、次の作戦に出た。
「よし、こういうときは、体を動かすのが一番だ。アームレスリングしよう」
「え、なぜ」
森さんが真顔で聞き返してくる。
もっともな反応である。
だが、私には確信があった。
失恋の悲しみとは、頭で考えるものではなく、腕相撲で発散するものだ。
少なくとも、私の中ではそういうことになっている。
医学的根拠は、特にない。
「悲しみは、筋肉で上書きできる」
謎の格言を残し、私はテーブルの真ん中に肘を置いた。
隣の席の同僚が、止めるべきかどうか一瞬迷って、結局黙って見守ることにしたようだった。
今日の暴走担当は、彼の管轄外らしい。
森さんは戸惑いながらも、勝負に応じてくれた。
そして、あっという間に負けた。
「森さん、弱すぎでは……?」
「いや、そもそも私、この勝負に何の意味があるのか、まだ分かってないので」
正論である。
だが、その正論を言っている森さんの顔が、いつの間にか笑っていた。
「じゃあ、今度はリベンジね」
「望むところです」
二回戦。
三回戦。
いつしか、失恋の悲しみより、腕相撲の勝率のほうが重要な議題になっていた。
店員さんが心配そうに、
「お皿、そのままで大丈夫ですか?」
と様子を見に来るほど盛り上がった。
もはや、誰も7年の恋の話をしていない。
個室の中では、完全に別の大会が開催されていた。
一段落したところで、隣の席の同僚が森さんに静かに聞いた。
「森さん、本当のところ、どうなの」
森さんは少し考えてから、こう言った。
「正直、悲しいのは悲しいんですけど……」
「今日、みんなが集まってくれて、上司さんは泣くし、先輩は腕相撲を挑んでくるし」
「なんか、笑ってるうちに、少し元気になっちゃいました」
「よし、成功だな」
私は満足げにうなずいた。
作戦は成功した。
ただし、当初の作戦とは、だいぶ違う形での成功だった。
「あと、私、思ったんですけど」
森さんが続ける。
「今日、励まされたの、私じゃなくて、上司さんのほうだった気がします」
的確な指摘だった。
誰も否定できなかった。
会の終わり、上司はすっかり泣き止み、むしろ晴れやかな顔で会計をしてくれた。
「森さん、今日はありがとうな。俺、元気出た」
「私が励まされる側だったはずなんですが」
森さんの冷静なツッコミに、全員が笑った。
今日、彼女は何度もこのツッコミを言わされている。
もはや進行役は森さんである。
店を出て、夜風にあたりながら、隣の席の同僚がぽつりと言った。
「結局、誰が誰を励ましたのか、よく分からない夜だったね」
「腕相撲二連勝の私だけは、確実に元気だった」
「それ、ただ勝っただけだよね」
そのとき、上司がふと目元をこすった。
「……これ、家帰ったら、目が赤いって言われるかな」
「花粉症って言えばいいじゃないですか」
「もう夏だぞ」
「じゃあ、玉ねぎ切ったとか」
「居酒屋で?」
「……失恋した部下を励ましてたら、上司が泣いたって正直に言うしかないですね」
私が言うと、上司が即答した。
「それだけはやめてくれ」
私たちは、また笑った。
三人分の言い訳案を出されても、まだ本人は決めかねているようだった。
私たちは駅までの道を歩いた。
森さんは、来たときより明らかに軽い足取りで、少し前を歩いていた。
上司は、女神のような奥さんに、今日のことをどこまで話すのか。
それは、本人に任せることにした。
励ましに行ったはずが、誰かが泣き、誰かが腕相撲を挑み、最後には全員が、来たときより元気になって帰っていく。
我ながら、意味の分からない会だったと思う。
それでも、森さんが笑って帰っていったのだから、結果としては、上出来ということにしておく。
【その日の戦績】
・励ます会、加盟国三つでスタート
・乾杯の声量ミスで、開始10秒にして祝賀会化
・上司、自分の失恋話で号泣し、逆に励まされる側に
・女神のような奥さん、それでも埋まらない過去が判明
・隣の席の同僚、今日は途中で防波堤を放棄
・悲しみの処方箋、まさかのアームレスリング(医学的根拠なし)
・森さん、腕相撲二連敗、笑顔は二連勝
・「悲しみは筋肉で上書きできる」、謎の格言が爆誕
・励ました人数、実質ゼロ
・元気になった人数、全員
・上司、会計時にはすっかり晴れやか
・森さんの総括、「励まされたの、上司さんのほう」
・上司、帰宅後の「目が赤い」問題に直面。言い訳案は三つ、決定はゼロ
・結局、誰が誰を励ましたのか、誰にも分からない夜
