新品の革靴を守るため、180cmの男をお姫様抱っこしたら社長に見られた話。
大雨の翌日。
会社の前には、巨大な水たまりができていた。
「水たまり」という、かわいらしい名前では済まされない。
もはや、小さな池である。
しかも、逃げ場がない。
会社が入っているビルの正面入口は一つだけ。
裏口はあるにはあるが、朝から工事中。
警備員のおじさんが、
「本日は通行止めです」
という看板を、胸を張って掲げている。
つまり社員全員、あの池を渡らないことには、オフィスに一歩も入れない。
雨雲より先に、退路を断つ。
ビルの立地、なかなかの仕事人である。
私はというと、こういう日のためにワークマンで買ったレインシューズを履いていた。
1,980円。
安い。
そして強い。
足元だけは、ほぼ無敵だった。
問題は、隣を歩いていた遠藤さん(仮名)だった。
遠藤さんは、その日、朝から何度も自分の靴を見ていた。
「これ、この前ボーナスで買ったんですよ」
見るからに新品の革靴。
ピカピカである。
まだ靴底に傷ひとつない、生まれたての革靴だった。
本人も嬉しそうだ。
そして、その革靴で今から向かう先には、逃げ場のない巨大な池。
私は思った。
これは、まずい。
遠藤さんの靴を守らなければ。
私たちは急遽、
「遠藤さんの靴を守る同盟」
を結成した。
……といっても、メンバーは私と、もう一人の同僚だけ。
加盟国二つの、ずいぶんこぢんまりとした同盟である。
水たまりを前に、同僚が言った。
「ゴリねえさん、いけるっしょ」
私は水たまりを見た。
遠藤さんを見た。
もう一度、水たまりを見た。
そして遠藤さんを見た。
「……何が?」
「お姫様抱っこ」
「いや、何で?」
「ほら、いけるって」
その言葉を聞いて、私は少し考えた。
実は私には、お姫様抱っこに対する、ひそかな自負がある。
過去に三度、研究し、極め、実際に役立ててきた実績があるのだ。
社内的には、もはや専門分野と言っていい。
履歴書の資格欄に書きたいくらいである。
私は遠藤さんを見た。
180センチ。
体重、80キロ近く。
……まあ、いける。
「細かいことはいいから」
遠藤さんが言った。
「いや、細かいことって何?」
「ほら、いけるって」
守る側と守られる側で、なぜか主導権が逆転していた。
結局、私は遠藤さんを抱き上げた。
お姫様抱っこである。
180センチ近い男を抱えた女が、巨大な水たまりの中を進んでいく。
なかなかの光景だったと思う。
通勤中のサラリーマンが数名、二度見していった。
私は見逃していない。
しかし、ここで重要なのはチームワークである。
もう一人の同僚が先導する。
「こっち浅いです!」
「右、ちょっと深いっす!」
「ゴリねえさん、そこ左!」
私は言われた通りに進む。
遠藤さんは、私の腕の中で大人しくしている。
新品の革靴を守るためなら、仕方がない。
仕方がないと言いつつ、遠藤さんも薄々、状況の異常さには気づいていたはずである。
そして、あと少しというところまで来た。
そのときだった。
前方から、会社の社長が歩いてきた。
目が合った。
社長が止まった。
私も止まった。
社長の視線が、私に向いた。
次に、私の腕の中の遠藤さんに向いた。
そして、足元の水たまりに向いた。
しばらく、沈黙。
池の水面が、やけに静かだった。
社長が言った。
「……君は、濡れても平気な靴じゃないか」
私は、自分のワークマンのレインシューズを見た。
確かに。
1,980円。
今日も絶好調である。
社長が続けた。
「守るのは靴だけでよかったのでは」
「……はい」
何も言えない。
理屈で殴られると、人は反論を失う生き物らしい。
社長は少し考えてから、
「……頑張って」
と言って、その場を去っていった。
何を頑張るのかは、最後まで分からなかった。
おそらく社長本人も分かっていなかったと思う。
遠藤さんの革靴は、無事だった。
ちなみに、私と一緒に作戦を遂行した同僚の足は、びしょ濡れだった。
誰よりも頑張っていたのに、報われ方の配分がどう考えても間違っている。
会社に戻ると、さっそく噂が広がった。
「遠藤さん、水たまりで運ばれてなかった?」
「見た見た。お姫様抱っこだった」
「靴を守るためらしいよ」
「……靴のために?」
「しかも抱っこしたの、ゴリねえさんだって」
「ああ、ゴリねえさんなら、まあ……」
全員が、妙に納得した。
そこに何の違和感もないらしい。
それが一番複雑だった。
その日の午後には、社内のあちこちで話題になった。
しばらくの間、
「水たまりでお姫様抱っこされた遠藤さん」
という話が残った。
そして私は思った。
お姫様抱っこには、使いどころがある。
ただし、使う場所は選んだほうがいい。
特に、
社長が通る可能性のある、逃げ場のない水たまりの前では。
【その日の戦績】
・遠藤さんの新品の革靴、無事生還
・私のワークマンのレインシューズ、相変わらず無敵
・お姫様抱っこ、謎の実績により本日も実戦投入
・同盟加盟国、二つ
・同僚の水たまりナビゲーション、見事
・社長との気まずい遭遇、一回
・社長の「頑張って」の意味、いまだ不明
・同僚の足、びしょ濡れ
・社内の反応「ゴリねえさんなら、まあ……」
・その後、一週間ほど噂が続く
新品の革靴は守れた。
だが、私たちの社会的な何かは、
少し失った。
