触らなくていい夜
その夜は、部屋がいつもより静かだった。 音が消えたというより、余計なものが鳴らなかった。
机の上にある金属は、触れられないまま冷えている。 開いたままのライターが、かすかに軋む音だけを残して黙っていた。
火をつける。 小さな音が一度だけ立ち、すぐに引いていく。
煙は勢いを持たず、低く漂った。
紙が焼ける匂いと、部屋に染みついた古い木の匂い。 ゆっくり重なって、どちらともつかない香りになる。
吸い終えたあと、音はほとんど残らない。 あるのは、灰が落ちるときの乾いた気配と、灰皿の中で、ひと筋の煙が細く立ち上がる音のない動きだけだ。
その煙は、すぐには消えず、天井まで届くつもりもないまま、途中でほどけるように薄くなっていく。
夜は、何も語らない。 ただ、火のあとに残った匂いと、一瞬だけ確かに鳴った音の記憶を、静かに部屋に置いていく。
机の上は変わらない。 けれど、音と香りだけが、しばらくのあいだ、そこに残っていた。
■ 店主より
何もしなかった夜ほど、あとになって匂いだけが思い出されることがありま
す。
火の音。
灰が落ちたあとの静けさ。
換気扇が回る前の、部屋に溜まった香り。
それらは言葉にしなくても、ちゃんと夜の奥に沈んでいきます。
今夜は、その沈んでいく途中を、少しだけ眺めていました。
―― 小径たばこ飯店 店主より
