思い出には、香りの賞味期限がない
香水の瓶が並ぶ棚の前で、手が止まった。
久しぶりに部屋の持ち物を整理していて、
何年も見てなかった写真や書籍。
そして、集めていたアクセサリーやサングラスを手に取っていたけれど、
この場所だけは少し手が遅くなる。
無数の瓶の奥にあった一本に、指が触れた。
「あぁ、これ……」
言葉にする前に、
瓶の形で気づいていた。
手に取った瞬間、少しだけ笑った。
透明な瓶の中身はずいぶん減っていた。
ある時を境に私は、
この香りをぱたっと使わなくなった。
いつ買ったものなのかも、
すぐには思い出せない。
瓶を光にかざすと、
中身はまだ少しだけ残っていた。
蓋を開けて、鼻を近づける。
香りは、まだ残っていた。
「やっぱり、いい匂い」
でも、不思議なことに、
あの人のことは思い出さなかった。
これは、あの頃一番つけてた香り。
昔ならこの匂いだけでよかった。
香水の名前なんて覚えていなくても、
この匂いを嗅げば、あの頃の夜が戻ってきた。
暖房の効いた車内。
窓の外は冷たい冬の空気だったのに、
隣だけはいつも少しあたたかかった。
車のドアを閉める音。
隣に座ったときの気配。
窓の外を流れていく街の灯り。
何気ない会話。
そして、隣に漂っていたはずの、
穏やかで少し切ない体温の匂いも。
あの頃の私は、その匂いを感じていた。
でも、その意味には気づいていなかった。
今ならわかる。
あの人が本当に好きだった。
好きだったからこそ、
失ってから気づいたことも多かった。
だから以前は、忘れたいと思っていた。
それは、思い出すたびに胸が苦しくなっていたから。
どうしてあのとき、
もっと違う言葉を選べなかったんだろう。
相手の気持ちを見られなかったのか。
どうして、失ってからしかわからなかったんだろう。
そんなことを何度も考えた。
時間が経って、
胸の痛みは少しずつ薄くなった。
でも、記憶は消えなかった。
消えない代わりに、自分の中に溶けていった。
そう思っていた。
だから今日も、この当時使っていた香水の香りで、
何かを思い出すと思っていた。
車の中だった。
いつものように隣に座って、
何気なく話していたとき。
「今日の香水何?」
「これ?」
「うん。いい香りだね」
たったそれだけの会話だった。
私は、その日からこの香水をよく使うようになった。
褒めてくれたのが嬉しくて、
その当時、こればかり使っていた。
100mlあった香水は、いつの間にか残り少なくなっていた。
もう使わなくなったその香りを、
久しぶりに手首に一滴落とした。
冷たい液体が肌に触れて、
手首を返して鼻を近づける。
香りがそっとたちのぼる。
きっと、何かを思い出すと思った。
あの車の中。
あの夜。
隣にいた人。
香りには、記憶を一瞬で連れてくる力があると思っていた。
ところが、
思い出せない。
目を閉じて、
もう一度、車の中を思い浮かべる。
ダッシュボード、隣の席。
そして、あの夜。
だけど、あの人は記憶の中で笑っている。
あの時どこへ行って、
何を食べたのか。
どんな話をしたのか。
断片的だけれどまだ覚えている。
もう少し思い出せば、
あの匂いも戻ってくるような気がした。
なのに、匂いだけがない。
もう一度香水の瓶を手に取った。
蓋を開ける。
もう一度つけて嗅いでみる。
やっぱり香る。
だけどその香りの先に、あの人がいない。
それが少しだけ寂しかった。
でも、
悲しくはなかった。
そこで初めて気づいた。
思い出は、
消えていくのではないのかも。
もっと静かに、
形を変えているだけなのかもしれない。
声が少しずつ思い出せなくなる。
話していた言葉の細部が抜け落ちる。
触れた手の温度がわからなくなる。
そして匂いもなくなる。
どうして、匂いが最初に消えたのだろう。
声も、言葉も、温度も、
私は何度も思い返してきた。
でも匂いは、
思い出そうとしたことさえなかった。
ただそこにあったものだったから。
だから、
いつの間にかなくなっていたのかもしれない。
もしかしたら今、私の中に残っているのは、
あの人そのものではなく、
あの人について、
私が何度も語ってきた物語なのかもしれない。
そう考えると、
思い出には香りの賞味期限がないという言葉の意味が、
少しわかった気がした。
二人で過ごした時間があったことは、
これから先も変わらない。
ただ、その時間を包んでいた匂いや温度には、
いつか鮮度がなくなる。
それでも、
なくなったことにはならない。
あんなに鮮明だった顔も、
いつか輪郭だけになる。
あんなに苦しかった言葉も、
いつか意味だけが残る。
そして、
あんなに覚えていた匂いも、
気づけば、もう思い出せなくなっていた。
それは、
忘れてしまったということなのだろうか。
私は、そうは思ってない。
ただ、
私の中での保存方法が変わっただけ。
写真を一枚ずつ戻していった。
書籍も元の場所へ戻す。
洋服も、アクセサリーも、
サングラスも。
さっきまで広げていたものを、
また一つずつ仕舞っていった。
そして最後に、
あの時使っていた香水の瓶を手に取る。
もう一度だけ、蓋を開けた。
香りはする。
でも、もう誰も戻ってこない。
私はそのことを確認して、
静かに蓋を閉めた。
少し迷ってから、
数十本並んだ香水の中の、
ほんの少し空いた場所へゆっくり戻す。
瓶と瓶が触れて、
小さく、カチンと音がした。
以前なら、
この一本だけは別の場所に置いていたかもしれない。
でも今は、
ただの一本になっていた。
捨てる必要はないし、
忘れる必要もない。
いつかまた、
香りを使う日が来るかもしれない。
そのときには、
今日よりもっと思い出せないことが増えているかもしれない。
それでもいい。
匂いから、
静かに忘れていく。
そうやって少しずつ、
過去は過去になっていく。
瓶の蓋を閉めて、私は部屋を出た。
玄関で靴を履き、
ドアを開けると外の空気が入ってきた。
あの夜の冷たく澄んだ空気とは違う、
夏の終わりも近い、
少し湿った風。
その匂いを吸い込んだ。
知らない匂いだった。
いや、
違う。
これは、
今の私が生きている匂いだった。

