正しさで、人を追い詰めていなかったか——「和顔愛語」と父の「響き合う心」
間違ってはいないことを言っているはずなのに、なぜか届かない。
そんな覚えのある方へ。
いや、もしかすると「届かない」のではなく、その言葉で相手を追い詰めてしまったことさえ、私にはあるのかもしれません。
正しさというものは、時に鋭いものです。
間違っていないだけに、相手の逃げ道をなくしてしまう。
そして厄介なのは、そんなときの私はたいてい、
「自分は正しいことを言っている」
と思っていることです。
今日は、そんな私自身の姿を、顔と声から見つめさせていただいたお話です。
法話より先に、顔が語っている
七月から、静岡市の教覚寺前ご住職で静岡県教誨師会会長の南荘宏先生に、静岡新聞でご連載中のコラム「窓辺」を、毎回お送りいただいています。
厚かましくも「ぜひ拝読させてください」とお願いして以来、ご恵送いただくのを楽しみにしております。
本日ご恵送いただいた十回目のタイトルは、
「笑顔が笑顔を呼ぶ」。
先生は「ミラーニューロン——鏡神経」という言葉に触れながら、人は向かい合う相手の表情や動作から、知らず知らず影響を受けている、と書いておられました。
例に挙げられていたのは、合唱の場です。
*南荘先生は、静岡今世合唱団TERRAの代表・常任指揮者をお務めになられており、仏教讃歌の作曲も手がけられていらっしゃいます。
指揮者が笑顔で振れば、歌い手の顔がゆるむ。
歌い手がよい顔で歌えば、指揮者にも自然と笑みが浮かぶ。
舞台の楽しさが客席へ伝わり、客席の和やかさが、また舞台へ返っていく。
互いに響き合いながら、音楽そのものが豊かになっていく——。
読みながら、私は少しうろたえました。
人前に立つ者は、言葉だけで何かを伝えているのではないのですね。
お取次の場でも、同じなのでしょう。
どれほど道理にかなったことを語っていても、こちらの顔が険しく、声が冷たければ、その言葉は届きにくい。
それどころか、
「私は間違ったことを言っていない」
という思いそのものが、知らず知らず相手を追い詰めてしまうことがあります。
正しさは、人を支えることがあります。
けれども、正しさを握りしめた私は、ときにその正しさで人を裁きます。
法話の中身より先に、私の顔が何かを語っている。
そして、その顔には、私がどんな心で目の前の人を見ているのかまで、案外よく表れてしまっているのでしょう。
「和顔愛語」は、誰のお姿なのか
コラムの結びに、南荘先生は「和顔愛語(わげんあいご)」という言葉を置いておられました。
『仏説無量寿経』には、こうあります。
和顔愛語にして、意を先にして承問す
表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を先に汲み取って受けとめる。
私も、そうありたいと思います。
けれど、大切なのは、この言葉が誰のお姿として説かれているのか、ということでした。
これは、阿弥陀如来となられる前の法蔵菩薩が、ご修行を重ねられるお姿です。
ですから、「和顔愛語のできる立派な人間になりましょう」で終わってしまうと、私は何か大切なものを取り落としてしまうように思います。
もちろん、和やかな顔で、やさしい言葉を心がけることは大切です。
けれど、それができるようになることが、救いの条件なのではありません。
現実の私は、和顔愛語どころではありません。
焦れば眉間にしわが寄る。
忙しければ声が硬くなる。
自分が正しいと思えば、相手の事情を聞くより先に口を開いてしまう。
そして後になって、
「あんな言い方をしなくてもよかった」
と気づく。
そんなことの繰り返しです。
「和顔愛語」という言葉の前に立つと、できている私が褒められるのではなく、できない私の姿が照らし出されます。
けれども、その私を見て、
「もう少し立派になってから来なさい」
と退けられる阿弥陀如来ではありませんでした。
正しさを握りしめて人を裁いてしまう私も、
やさしくなれない私も、
笑顔になれない私も、
そのすべてをご覧になったうえで、なお放ってはおけないと願われている。
私が願うより先に、願われていた。
私が心を整えるより先に、ご本願がこちらへ向けられていた。
「意を先にして承問す」というお姿から、そんなことを味わわせていただくのです。
「響き合う心」
そう考えていましたら、ふと、亡くなった父のことを思い出しました。
父も布教使として、あちこちにご縁をいただいておりました。
事前に講題を求められると、好んで使っていた言葉がありました。
「響き合う心」
父が遺した法話ノートにたびたび散見されます。
私が高校三年のとき、父は突然往生しました。
その講題で、父が何を話していたのか。
もう直接聞くことはできません。
長いあいだ、「響き合う心」とは、人と人とが心を通わせることなのだろうと思っていました。
けれど今日、南荘先生の文章を読みながら、少し違って聞こえてきました。
響き合うには、先に鳴った音があります。
鐘は、撞かれて鳴る。
こだまにも、先に声がある。
ならば、私の口からこぼれる「南無阿弥陀仏」も、私が最初に発した声ではないのでしょう。
お念仏は、私の側から仏さまへ届ける呼びかけというよりも、すでに私へ届けられていた阿弥陀如来のお喚び声として聞かせていただきます。
「あなたを見捨てない」
「そのままのあなたを、必ず摂め取る」
そのご本願の響きに、この身が遅れて震え、心に響いてくる。
「南無阿弥陀仏」
と声になっている。
そういただいてみると、父が遺した「響き合う心」という五文字が、三十五年以上の歳月を越えて、いまの私にもう一度響いてくるように思われます。
先に願われていた
私の顔は、今日もそれほど和やかではありません。
「和顔愛語」は、相変わらず努力目標です。
おそらく、これからも何度となく正しさを握りしめ、人を裁き、後から自分の姿を知らされるのでしょう。
けれども、そこに絶望するのではありません。
そんな私だからこそ、聞かせていただかなければならない声があります。
こちらが笑えないときにも。
こちらがやさしくなれないときにも。
こちらが「自分のほうが正しい」と拳を握っているときにさえ。
その拳の中までご存じのうえで、放ってはおけないと願われている。
よろしければ今日、どなたか一人の顔を、そっと思い浮かべてみてください。
大切な方でも構いません。
少し苦手な方でも構いません。
あるいは、鏡の中のご自分でも。
その顔にも、この顔にも、
私たちが気づくより先から、向けられている願いがあります。
先に呼ばれていたからこそ、響く声がある。
その声を、また今日も聞かせていただきます。
今日も、願われて。
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