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「これで、よかったのでしょうか」——葬儀のあとに残る、もう一つの悲しみ

「私の葬儀は簡素でいい」——そう口にしたことのある方へ。

先日の講演の最後、私は会場の皆さんに、ほんの一分ほど考えていただきました。

その沈黙のなかで、三十年間、住職として多くのご葬儀に立ち会わせていただいた日々を、私自身も振り返っておりました。


八月二十日、長野市内で「後悔しない葬儀とお墓選び」というテーマをいただき、九十分ほどお話をさせていただきました。

主催 ライフデザインセンター長野

前半は、ずいぶん現実的な話です。

家族のかたちが変わっていること。
家族葬や直葬が珍しくなくなったこと。
墓じまい、樹木葬、納骨堂、散骨という選択肢が広がっていること。
葬儀の費用や契約で、どこに気をつければよいのか。

お寺に都合のよい話ばかりではありません。

むしろ、お寺の側の説明不足や、「黙っていても分かってもらえる」という甘えについても、率直に申し上げました。

最初に、私はこうお断りしました。

「今日、正解をお渡しすることはできません。お渡しできるのは、判断の材料と、順番です」

その「順番」で、いちばん大切だと思っていることがあります。

書くより先に、話す。

エンディングノートを書く前に。
契約をする前に。

まず、大切な方と話してほしい。

なぜなら、葬儀もお墓も、自分一人だけの問題ではないからです。

そして講演の最後、一枚のスライドを映しました。

そして、お願いしました。

——この「私」を、ご自分のいちばん大切な方のお名前に置き換えて、心の中で読んでみてください。

会場が、しんと静まりました。

「私」にだけ、安い値札をつけている

「私の葬儀は簡素でいい」。

これは、案外言えます。

けれど、

「お母さんの葬儀は簡素でいい」

となると、少し言いにくい。

「私は散骨でいい」とは言えても、

「あの人は散骨でいい」

とは、なかなか言えません。

なぜでしょう。

もしかすると私たちは、自分にだけ、ずいぶん安い値札をつけているのかもしれません。

「迷惑をかけたくない」
「大げさにしてもらうほどの人間ではない」
「後の人が困らないようにしておこう」

それは、確かに優しさです。

慎ましくて、いかにも私たちらしい優しさでもあります。

けれど——。

残される側には、残される側の心があります。

「これで、よかったのでしょうか」

住職をお預かりして、今年で三十年になります。

その間、本当に多くのお別れの場に立たせていただきました。

そして、とくに近年、以前より強く感じることがあります。

葬儀をできるだけ簡素にしたあとになって、

「これで、よかったのでしょうか」

という思いを抱えておられる方が、少なくないのです。

もちろん、簡素な葬儀そのものが悪いのではありません。

家族葬にも、直葬にも、それぞれ事情があり、それぞれの選択があります。

けれど、

「本人が、何もしなくていいと言っていたから」

「迷惑をかけたくないと言っていたから」

その言葉だけを頼りに急いで決めたあとで、残された方の心に何かが残ることがあります。

もう少し、お別れをしたかった。

あの人と縁のあった方にも、知らせてあげたかった。

もう一度、きちんと手を合わせたかった。

葬儀が終わってから、そうした思いが静かに湧き上がってくるのです。

終わってしまったことは、やり直せません。

私は、その「やり直せなさ」を前に、言葉を失うことがあります。

一方で、違うお姿も見せていただいてきました。

西敬寺では、本堂でお勤めする「お寺葬」を続けております。

大切な方を亡くされた悲しみが、それで消えるわけではありません。

葬儀を丁寧に勤めたからといって、翌日から元気になるわけでもありません。

けれど、ご本尊の前で、お念仏のなかで、家族や縁ある方々と一緒にお別れをされた方が、その後も折々に本堂へ足を運ばれる。

四十九日、一周忌、そしてお盆やご法事。

悲しみを抱えながらも、一つ一つのご縁を重ねるなかで、少しずつ亡き方のことを語れるようになっていかれる。

そのお姿も、私は何度も見せていただきました。

悲しみを「乗り越えた」のではないのでしょう。

悲しみを抱えたまま、それでも歩いておられる。

亡き方を忘れるのではなく、その方とともに生きる歩みへと、少しずつ変わっていかれる。

だから私は、講演の最後に、

「送り」は、残された人のためでもあります。

と申し上げました。

置き換えるまでもなく

親鸞聖人のお言葉として、『歎異抄』の後序には、こう伝えられています。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり

『浄土真宗聖典註釈版』853頁

阿弥陀如来が、はかりしれない時をかけて思惟し、建ててくださったご本願。

それをよくよく味わってみれば、

——この親鸞一人のためであった。

親鸞聖人は、そう聞かれました。

この言葉に遇うたび、私は立ち止まります。

講演では、「私」を大切な人の名前に置き換えていただきました。

そうすることで、初めて見えてくるものがあるからです。

ところが、阿弥陀如来は違いました。

置き換えるまでもないのです。

私が自分をどれほど小さく見積もっていても。

「私など」と、自分に安い値札をつけていても。

その自己評価とは関係なく、この私一人をこそ見捨てない。

そこまで願い抜かれている私であった、と聞かせていただきます。

私のいのちの尊さは、私自身の採点によって上がったり下がったりするものではありませんでした。

気づくより先に。

決めるより先に。

すでに願われていたのです。

帰ったら、五分だけ

講演の最後、皆さんにお願いしました。

どうか、お一人で決めないでください。

そして、ご家族にも押しつけないでください。

「私はこう思うけれど、あなたはどう?」

その一言から始めてみてください、と。

葬儀も、お墓も、法事も、単なる「後始末」ではありません。

大切な方を見送った人が、いつの日か手を合わせながら、

「あの人を、大切に送ることができた」

と思えるためのご縁でもあります。

そして、その相談相手の一つに、お寺も入れていただければと思っています。

私どもの役目は、儀式を執り行って終わることではありません。

まだ何も決まっていないときから、お話を聞かせていただくこと。

迷っているときに、一緒に考えること。

亡き方をご縁として、残された私自身が仏法に遇わせていただく場を守ることです。

今日、全部を決める必要はありません。

帰ったら、五分だけ。

「今日、こんな話を聞いてきた」

そこからで十分です。

自分を小さく見積もってしまう私も。

大切な人をどう送ればよいのか迷う私も。

置き換えるまでもなく、この私一人が、すでにご本願のただ中にありました。

今日も、願われて。



*後半共有させていただいたスライドも添付します。
 ご参考になれば幸いです。

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西敬寺住職 木賣 慈教(きうり じきょう) このnoteは、どなたにも気軽に読んでいただきたいと思い、公開しています。 どうぞお気遣いなくお読みください。 もし「この発信を応援したい」と感じてくださる方がおられましたら、そのお気持ちを今後の法座活動に使わせていただきます。