【小説】『最終停留所と、人生の乗り換え案内』#1
第1話:レールは続く、「起業を諦めた日」
深夜。ケンタは、オフィス街から少し外れた、錆びた古い路面電車の停留所に立っていた。
三十二歳。大手の広告代理店に勤める彼は、つい先週、会社に提出した退職願を取り下げたばかりだ。五年前に同僚と温めていた**「起業の夢」**を、結局、安定という現実を選んで諦めた。
今、ケンタの心には、選ばなかったことへの激しい後悔だけがある。
「あの時、一歩踏み出していれば、今頃どうなっていただろうか」
そう呟いた瞬間、レールの向こうから、古びた路面電車がゆっくりと滑り込んできた。車体は深い紺色で、窓からは琥珀色の灯りが漏れている。
『最終停留所:人生の乗り換え案内』
行き先表示板には、そんなありえない文字が揺れていた。
扉が開くと、運転席には、白髪混じりの温厚な老紳士が座っていた。
「いらっしゃい。ここは、人生の分岐点に迷った者だけが乗れる場所だ」
「あ、あなたは……」
「私は案内人。さあ、運賃を払いたまえ。あなたが最も後悔している、一つの選択を」
ケンタは、迷いなく告げた。
「五年前に、起業を諦めて、会社に残ることを選んだあの選択です」
案内人は静かに頷くと、運転席横の機械に古い切符を投入するように、ケンタの「後悔」を受け入れた。
「運賃、確かに承った。さあ、向かいの席へ。まもなく、あなた自身が選ばなかった道へご案内する」
ガタン、と電車が揺れた。窓の外の景色が、まるで液体のようになめらかに流れ、瞬く間に別の光景へと変わっていく。
電車が止まった場所は、薄暗い倉庫のようなオフィスだった。窓の外は、5年前、夢を語り合った頃の街並みだ。
案内人は、窓の外を指差した。
「あれをごらん。あれが、あなたが選ばなかった道だ」
窓の外の薄暗いオフィスには、五年前のケンタと、夢を語り合った同僚の姿があった。二人は楽しそうに肩を組み、深夜にもかかわらず熱い笑顔でパソコンに向かっている。
しかし、その光景はケンタが想像していた「成功」とは程遠い。オフィスは乱雑で、五年前と変わらず薄暗い。彼らの表情は、充実しているようにも見えるが、同時に疲弊しきっているようにも見えた。壁には、**「資金難、あと三ヶ月」**という、絶望的な文字が貼られていた。
選ばなかった道のケンタは、夢を追っていた。だが、その代償として、大きな困難と、終わりが見えない不安の中にいた。
「どうだ。これが、あなたが手放した景色だ」と案内人は言った。
ケンタはショックを受け、息を飲んだ。彼の想像の中の「起業した自分」は、成功者のはずだったのだ。
「……後悔は、ありませんか?」案内人が尋ねた。
「いや、後悔はない……。だが、選ばなかった自分に、ただ一言、言いたいことがある」
ケンタは窓ガラスに手を当て、中にいる五年後の自分、つまり「起業を諦めた今の自分」を知らない、夢を追う自分に向かって、静かに語りかけた。
「おい、諦めるなよ。……その道は、間違ってない。ただ、お前が思っているよりずっと、タフな道だ」
ケンタがそう呟いた瞬間、窓の外の五年後の彼は、なぜかこちらに目を向け、力強く頷いたように見えた。
ガタン、と電車が再び揺れた。窓の外の景色が、元通りに流れ始める。
「さあ、現実のレールに戻る時間だ」案内人は優しく言った。「選ばなかった道の景色は、あなたの**『今の道』の価値**を教えてくれるためにある」
ケンタは電車を降りた。深夜のオフィス街。路面電車の停留所には、古いポールだけが残されていた。
彼の中の「後悔」は、**「選ばなかった道への理解」と、「今の道への確信」**という温かい希望に変わっていた。
(続く)
