【小説】『月の図書館と、忘れたい記憶の重さ』#1
第1話:ロスト・プロモーションと「無重力の夜」
導入編:ロスト・プロモーションと「無重力の夜」
深夜一時。ビルの谷間に立つ古い洋館の扉には、いつもなら「CLOSE」の札がかかっているはずだ。しかし今夜は、微かな光を漏らして開いていた。
『月の図書館』
看板には、そう書かれている。そんな図書館、私の知る限り、この街には存在しない。
私は、その扉を前に立ち尽くしていた。
この一週間、ずっと胸を締め付けている、鉛のような重い感情から逃れたかった。今日、五年越しのプロジェクトが失敗し、昇進の機会を失った。私自身の、たった一つのミスで全てが水泡に帰した。
私は意を決して扉を押した。
中に入ると、埃っぽい空気と、古紙の匂い、そしてどこからか流れ込む静かな水の音がした。カウンターには、白いシャツを着た司書が一人。年はわからないが、物静かな雰囲気の男だ。
「いらっしゃいませ。今夜は、何を忘れに来られましたか?」
司書は分厚い帳簿から目を上げず、そう問うた。
「あの……ここは、図書館、ですよね?」
「ええ。ですが、ここでは現金を使いません。貴方の持つ、最も重い記憶が、一晩の入場料となります」
私はためらった。最も重い記憶。それは間違いなく、あの失敗したプロジェクトの最終報告の日だ。上司に頭を下げた屈辱と、同僚の失望が入り混じったあの瞬間。
「……あの日の、全ての記憶を預けたい」
司書は初めて顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「かしこまりました。では、目を閉じて、その重さを教えてください」
私が目を閉じると、司書は私の額に、ひんやりと冷たい指先を当てた。
「――あなたの記憶の重さ、**『特級:ロスト・プロモーション』**として承りました」
その瞬間、まるで体の中から鉛の塊が抜け落ちたかのように、私の全身から力が抜けた。胸を占めていたはずの焦燥感も、自己嫌悪も、全てが消え去った。
体が無重力になったようだ。私は、あの昇進を逃したという事実自体を、きれいに忘れてしまったのだ。
「さあ、お好きな本をお選びください。ここでは、あなたの記憶の重さだけ、誰かの物語を読むことができます」
司書は、私に一冊の古い本を差し出した。
表紙には、文字ではなく、ただ一輪の枯れた花が描かれていた。
「それが、あなたが今夜読むべき『記憶の物語』です」
(続く)
