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父の病院が潰れたから、私は医師になった


小学六年生の初夏、父の病院が潰れた。父は院長ではなくなった。自己破産という仕組みは分からなくても、何を奪うのかだけは嫌というほど思い知った。

経営者だった父、主婦の母、浪人生の長男、高校生の次男、小学生の私と妹。家族六人はそれぞれ違う形で傷ついた。「惨めだ」という感情を、全員が共有していた。

それなのに、私は医師になった。

あれほど痛い目に遭いながら、なぜ私は医師という仕事を選んだのだろうか。意地だったのだろうか、それとも何かを取り戻したかったのか。

30歳になってから、昔の自分を振り返ると無鉄砲だったと思う選択がいくつもある。「医師になる」と高校生のときに決断したことは、その最たるものだった。

父の病院が潰れたときから、私の道は決まっていたのかもしれない。

白いお城が崩れるまで

青空を遮るビルのない、田畑の広がる町に、白い大きな病院があった。そこだけ風景から浮いていて、病院というよりも、ちょっとしたお城のようだった。町でいちばん大きな病院だったから、町の人は何かあるとまず父の病院に駆け込んだ。散歩していると、うっすら見覚えのある大人から「こないだお父さんにお世話になったよ」とよく声をかけられた。病院の脇には、両親と四兄妹で暮らす家が建っていた。父がこまめに手入れする花壇と白樺のある大きな庭は、どの季節でも美しかった。

病院は自宅の延長のような場所で、そこに出入りできることが私の自慢だった。小学校から帰ると、看護師さんたちの休憩室でお喋りをしながら宿題をした。歳の離れた友達がたくさんいるようで、その時間が大好きだった。

学校が休みの日には病院の屋上で遊んだ。兄たちや妹と父のレコードを持ち出してフリスビーのように投げたり、買ってもらったアメフトボールで当時流行っていたアメフト漫画の真似をして過ごした。屋上から飛んでいったものも、大抵は敷地の中に落ちた。妹がよく取りに行かされていた。

昼休みの父が声をかけると、家族全員で薄荷色のボルボに乗って食事にでかけた。ほしいと思ったものは、気づけば手元にあった。町の人たちには「将来はお医者さんだね」とよく言われた。口ではそれっぽく謙遜したが、内心では当然の未来だと思っていた。きっと、伝わっていたと思う。

小学五年生ごろから、家の雰囲気が少しずつ変わっていった。まず母から余裕が消えて、張り詰めた糸のように神経質になった。好きだった漫画の下敷きが欲しいとねだったら、きつく叱られた。食卓の品数が減った。リビングに飾られていた大きな絵画が、いつの間にか無くなった。叔父や祖父母が、心配そうな顔で家を訪れるようになった。ボルボが軽自動車になった。薄いドアを閉めると車体が揺れて驚いた。加速するたびに、母が目いっぱいアクセルを踏んでいた。車体がばらばらに飛んでいってしまいそうで、怖かった。

そうやって、「当たり前」はひとつずつ消えていった。

段ボールハウスじゃなくて、よかった

小学六年生の夏が始まった頃、私たちは城を手放した。移ったのは隣町のアパートで、家族六人が暮らすには手狭だった。庭のかわりに小さなベランダがあった。そこでNintendo DSを開くと、時々上の階の誰かとワイヤレス通信がつながった。チャットをしたり対戦をして遊んでいる間、違う誰かになれた気がした。

父がたくさん持っていた園芸道具は、どこかに行ってしまった。どこに行ったのか、知るのが怖くて聞けなかった。

父は友人の紹介で勤務医として働き始めていた。母方の祖父が資金を工面してくれたおかげで一家離散は免れたが、生活は以前とはまるで違っていた。長男は大学受験に失敗して浪人生、次男は高校二年生、妹は小学三年生だった。みんな感情の導火線が短くなっていて、小さな言い争いが絶えなかった。

私と妹は母の送迎で元の小学校に通った。引っ越しと同時に転校するという案もあったけれど、友達と離れたくなかった私は、半年だけ猶予をもらった。今思えば、おとなしく転校していた方が楽だったのかもしれない。

元の町に通い続けた私は、そこで自分たち家族がどう見られているかをいやでも知ることになった。派手に生活していた医者一家が、病院の倒産と同時に引っ越した。小学生が面白がるには、十分だった。

「河原の段ボールハウスに住んでるんだよね」
「給食だけで生きてるんでしょ」

そんなことを言われるたび、教室には湿っぽい笑いが広がった。担任教師は、私がひとりになったタイミングで「大丈夫?」と声をかけてくるようになった。そばに居てくれた友達には救われたが、変わらない生活を送っていることに嫉妬もした。その頃は、どう振る舞えば傷ついていないように見えるかだけを考えていた。卒業の日は、寂しさよりも開放感が上回った。

城を手放した翌年、田村裕さんの『ホームレス中学生』が大ベストセラーになった。ハードカバーは高くて手が出せなかったが、文庫化を待てずに近所の図書館で読んだ。自分と同年代の田村少年が貧しさと向き合う姿に同情しながら、私はどこかでほっとしていた。

「私は段ボールハウスじゃなくて、よかった」

ひどい感想だが、そのときの私は本気でそう思った。自分はまだ恵まれているんだと信じたかった。

新しい町、ねずみ色の記憶

逃げるように引っ越した隣町で、家族はそれぞれ、慣れない生活をなんとかこなしていた。私は引っ越し先にある中学校に入学した。誰も私のことを知らないはずだったけれど、いつ「潰れた病院の娘」であることが露呈するのだろうと緊張しながら過ごした。仲のよい友達ができても、大きな隠し事をしている後ろめたさがあった。

結局、病院のことは誰にも知られずに三年間が終わった。それでも、ねずみ色の中学校の制服は、そのまま中学時代の記憶の色になった。

妹は、編入した小学校ですぐに打ち解けていた。欲しいものを買えない不自由さはあったはずなのに、学校から帰るとすぐに友達の家へ笑顔で駆けていった。その背中を見ていると、学校生活の息苦しさをすべて父のせいにはできなかった。

長男は、跡を継ぐ病院がなくなった後も、医学部を志望した。次男も医師の道を志した。けれど、二人とも受験期に予備校を辞めた。費用が払えなくなったからだ。小さな勉強部屋で、二人は毎日机にしがみついていた。床に、くしゃくしゃになった成績表が転がっていた。母は参考書代などを工面するために、びっしり文字が書き込まれた家計簿をにらんでいた。この頃の母の笑顔は、なかなか思い出せない。

家の空気がぎくしゃくすると、私は妹と近所のTSUTAYAに行って、何を買うわけではなく、ぶらぶらと店内を散歩してほとぼりが冷めるのを待った。そんな様子を同級生にみられたくなくて、見慣れた制服が視界に入ると、あわてて文房具を選ぶふりをした。

長男は二浪した末、なんとか国立の医学部に滑り込んだ。次男は一浪した後、長男と同じ大学に合格した。パソコンで合格発表の画面を開いた次男が、泣きそうな顔で笑った。「集中力が高まるから」と次男が愛用していたミントの香りは、その日からしなくなった。

兄たちが大学に合格するたび、家の空気が穏やかになっていくのを感じた。自分も、胸をはって歩けるような気がした。

白衣の背中と、シャツの背中

園芸が趣味だった父は、よく土まみれになって花壇に埋もれていた。医者らしくない、こんがり日焼けした顔も腕も、父らしさだった。きっちり計算された鮮やかな庭は、白い城によく映えた。美しい庭は、父が人生を楽しんでいる証だと思っていた。何度か植えて、ようやく育った白樺の木は家族みんなが気に入っていた。

父は仕事も好きな人だった。日曜の夜に往診を求められても、嫌な顔一つせずに車に乗りこんでいった。
「休みの日に呼び出されて、嫌じゃないの?」と聞いたことがある。父は、「医者っていうのはこういうものだよ」と、ゴルフの素振りをしながら何でもないことのように言い切った。だから、私は医者という人間はみんなこういう考えなのだと思っていた。

そんな父の姿が近くにあったから、私は大人になることも、社会に出ることも怖くないと思えた。

町にいた頃、小学校から帰ると、リビングで父が遅い昼食を摂っていることがよくあった。父は黙々と食事を済ませると、白衣を羽織ってまた病院に戻っていった。白衣を着た父の背中が視界に入ることは、家族にとって当たり前だった。

でも、アパートではそうではなかった。仕事から帰ってきた父が、狭い部屋で新聞を広げる。よれたシャツ越しの背中は、小さくみえた。私も母や兄と一緒になって父を責めたくなる時はあったが、その背中をみると言葉が喉でつっかえた。

父が働いているから、今も家族で生活できている。そう言い聞かせていた。

別に優しかったからではない。ただ、小学生だったからだ。当時の状況をわかっているつもりでも、あくまで小学生の視野で見えるものしか見えていなかった。それに、どれだけ母や兄たちが苦しかったか、本気で触れに行く勇気もなかった。

父は自己破産した後でも、変わらず自由で、その自由さが無責任に見えるときもあった。けれど、家族に怒りをぶつけられたときは、決して言い返したり怒り返すことはなく、黙って受け止めた。私はその背中を見るのが嫌で、目を逸らしていた。

兄の威を借る私

次男が大学に入学し、私は高校生になった。アパートには、両親と私と妹の四人が残った。ようやく自分の部屋が与えられた私は、なんだか一人前になった気分で、浮かれながら模様替えをした。

兄たちの学費と仕送りがあったので、裕福な暮らしとは言い難かったが、家に漂う悲壮感は少しずつ和らいでいた。ちょっとした家庭の安定と、生活圏から離れた場所での高校生活は「家が潰れた娘」という現実を忘れさせた。

高校一年生の秋、理系と文系どちらを選ぶのか考える時期が来た。国語や英語は勉強していて楽しかったし、得意でもあったが、数学、化学、物理はどうにもならなかった。迷わず文系コースに進むつもりだった。弁護士とかかっこいいかもね、と未来を曖昧に想像した。食いはぐれなさそうな仕事なら何でもよかった。

「将来はお医者さんだね」
呪文のようにかけられてきた言葉は、もうとっくに忘れていた。

なんでもない放課後、高校の友達と雑貨屋で買い物をしていた。他愛もないことを大事件のように話しては、お腹を抱えて笑っていた。ふと視線を感じて振り返ると、小学校の同級生がいた。思い出をどれほど美化しても、仲が良かったとは言いたくない子だった。その子は私と目が合うと、呟いた。

「元気だったんだあ」

面白いものを見つけた、という表情にみえた。きっと、私の思い込みではなかった。顔にじんじんと熱が集まって、足は地面にくっついたみたいに動かなくなった。背中に嫌な汗がつたうのを感じながら、早口で答えた。

「家族みんな元気にやっているよ。兄たちは医学部に入ったよ」

帰宅してから、無性に腹が立った。あの子に腹が立ったのか、父に腹が立ったのか、自分に対してなのか分からなかった。ただ、聞かれてもいないのにとっさに兄たちの進路を口にしたのは、自分を守る盾にするためだったということはわかった。

「兄たちは、大学生になったよ」ではきっと足りなかった。父と同じ医師を目指している、と言わなければ、家族も私も無傷に見せられないと思った。

兄の進路を盾にするしかなかった自分が、情けなくて仕方なかった。

浪人生になりたくない

父が家族を巻き込んで自己破産という痛い目を見たのは、向いていない経営に手を出したせいだと思っていた。自分を客観視すること。背伸びしないこと。無理をしないこと。それが人生の秘訣だと信じていた。

兄たちのことも、どこか冷めた目でみていた部分があった。人相を変えて家族に八つ当たりするくらいなら、医学部にこだわって浪人しなくていいのに。手の届く大学に行けばいいのに、と思っていた。物理の模試結果を見た次男が、「何でできないんだよ!」と声を荒げていた様子がまだ記憶に残っていた。

なのに、私は高校の資料室で隠れるように医学部の入試情報を調べていた。国公立の医学部は、理系科目の成績が飛びぬけて良くないとお話にならなかった。偏差値だけをみたら手が届きそうな私立大学もあった。けれど、そこには到底払えそうにない学費が並んでいた。

担任の数学教師に、「仮にですよ」と前置きをしてから聞いた。私が医学部を目指すとしたら勝算はあるか、と。担任は私をまっすぐ見て、即答した。

「二浪は覚悟しろ」

「そうですよね」と物分かり良さそうに返事して、職員室を去った。予想通りの答えだったはずなのに、なぜか傷ついていた。

兄たちも浪人して医学部に入れたんだから、自分も前に倣えばいいとは思えなかった。浪人そのものが嫌だったのではない。「あの子は浪人生になった」と言われることに、私は耐えられそうになかった。
だが、兄たちが浪人してまで医師になることを諦められなかった理由も分かるようになっていた。医師になることへの意地も執着も、気がつくと自分のものになっていた。

中間テストの勉強に一区切りをつけて部屋から出ると、リビングで父が新聞を読んでいた。何も考えていないように見せたくて、脈絡なく尋ねた。

「お父さんは医者になって後悔してないの?」

父は特に驚いた様子もなく、新聞をたたんでからいつもの調子で答えた。

「後悔なんかしてないぞ。お父さんは医者が天職だと思ってる」
少しおどけた顔をして、私の肩をぺしぺしと軽くはたきながら続けた。
「九十歳とか、死ぬ直前まで医者をするのが夢だからなあ」

そこで少しでもネガティブなことを言ってくれたら、医学部を選ばない理由を父のせいにできたのに。誰に強要されたわけでもない。けれど、私の中で医学部を目指さないことは、負けることになっていた。受かる未来は思い描けなかった。なのに、あきらめて後悔する未来だけは、はっきり見えた。

「父は経営者としては失敗したけれど、医師としての姿は今も格好いいんだ」といくら語るよりも、私自身が医師になることの方が、父の人生も、自分の人生も失敗ではないと示してくれる気がした。

意地と惨めさと

「どうにもならなかったら、文転すればいいや」
という逃げ道があった。それに、「こんな私が理系でトップに立ったら面白いんじゃないか」という衝動もあった。この二つと意地に背中を押され、私は二年生から理系コースを選んだ。

一年生のときとは違い、ほとんどが男子の教室は、匂いも雰囲気も、まるで別の学校に来たようだった。授業を聞いても教科書を読んでも、自分が何をわかっていないのかがわからなかった。授業後に質問に向かうクラスメイトを見るたび、差を感じた。授業中は居眠りをしてばかりの男子でも、私より小テストの点数が良かった。毎日、自分が異物のように思えた。

今まで感じた惨めさを燃料にして机に向かった。「将来、格好良い一軒家を自分のお金で建てたい」とか、失った生活への憧れも私を後押しした。

たしかに、私たちは大変な目に遭った。けれど、いつか「実は昔、こんなことがあってさ」と笑って話せる未来があれば、それでいい気がした。そのためにも、ここが踏ん張り時だった。

両親は馬が合うとは言い難い夫婦だった。けれど、私が「医学部を志望する」と伝えたときの反応は二人とも同じで、「自由にすればいいよ」だった。

座卓で勉強しながら寝落ちすると、部屋をのぞいた両親のどちらかがきまって私を毛布でぐるぐる巻にした。温かくて気持ちよくて、毎度ぐっすり眠ってしまった。目覚めて、寝過ごしたことに気づいた私は「起こしてよ」と八つ当たりした。母は「だって風邪ひくじゃない」と反論し、父は笑顔で「体調崩すなよ」と言って去っていくだけだった。

あっさりとした祝辞

合格発表の日、「駄目だと思う」と泣きながら予備校の資料を漁っていた。前向きな言葉がつづられた冊子の、費用の部分だけがやたら目について、余計に涙が出た。そんな私を横目に、父は「結果が出たら電話してくれ~」とだけ言い残し、いつも通り飄々と出勤していった。

「無理無理無理」と騒ぎながら、それでも手は勝手にマウスを動かし、大学のホームページを開いた。合格者一覧のPDFをクリックすると、私の受験番号が目に入った。試験が終わってから、私と一緒に不安そうにしていた母は、「ずっと大丈夫だと思ってたよ」と得意げにしていた。妹は、泣いていた私の物まねをしてげらげら笑っていた。

「これで城のことを忘れられるかも」と思った自分に、自覚していたよりもずっと、城での生活に未練があったんだと気付いた。自分の人生の舵を、ようやく握れた気がした。

父にはすぐ電話で報告したが、特段驚いたりすることもなく「そうかそうか。おめでとうな」とやけにあっさりとした祝辞で、浮ついた気持ちは少し落ち着いた。

その日は家族で近所の回転寿司に行った。嬉しさでいっぱいだったが、どこか落ち着かない気持ちもあった。

受験期をああだこうだと振り返る母と私たち姉妹の横で、父は黙々と寿司を食べていた。「お父さん、反応薄くなかった?」そう聞くと、父は寿司皿に視線を向けたまま答えた。

「あれだけ勉強してたんだから、受かってると思ってた」

受験中、母は私と同じ目線で一緒に不安になったり悩みながら並走してくれた。父は私に任せてくれた。あの時の私には、この両方が必要だったのだと思う。

あの町へ

父は、私が大学四年生になった頃、職場の花壇の手入れを申し出た。「来年こそは薔薇のアーチを成功させる」と息巻く父は、どこか少年のようだった。春や秋、草花が一番鮮やかな季節を迎えると、花壇のお披露目会に呼ばれた。写真を撮ってはしゃぐ私と妹の横で、母は「どっちが本業なんだか」とぼやきつつも、目に付いた雑草を手早く抜いていた。「向日葵って難しいの?」と何気なく言うと、翌年にはミニ向日葵のコーナーが増えていた。

六年間の大学生活を終えた三月、私は医師国家試験に合格した。看護学生になった妹と卒業を記念してドライブした。車の窓を一番下まで下げて、風に吹かれておでこを丸出しにしながら二人でハマっていたアイドルソングを歌った。思いつくままに運転して、途中で寄ったインドカレー店で大きなチーズナンを平らげた。

どちらからともなく、「あの町、久々に行きたくない?」という話になった。冬の寒さを少し残した空気と、快晴の空が気持ちいい日だった。私たちは早速、町に向かって運転した。どんどん建物は少なくなって、代わりに田んぼや畑が広がっていった。

「ここはアメリカザリガニがいっぱい釣れたドブで、ドジョウが釣れたときは家に持って帰ったね」
「ここにおっきいかまくらをつくって、中でお菓子を食べてすごしたら風邪をひいたよね」

最後はつらい記憶だったはずなのに、妹と競うように口をつく思い出は、どれも楽しかったことばかりだった。

あの建物に近づくにつれ、落ち着かなくなった。その後、誰かに買い取られ、今は高齢者施設として使われていると聞いていた。元の面影が残っているのか、いないのか、直視できないような気がした。

城が見えた。すぐ脇を減速して通った。私も妹も、しゃべることを忘れた。兄妹四人で鬼ごっこやドッジボールをして駆け回った敷地を、施設の利用者であろう高齢者と職員らしき人が、手をつないでゆっくり歩いていた。

父が手入れしていた大きな花壇は、ところどころ草花が植えられ、なんとか姿を保とうとしているのが伝わった。大切に育てた白樺は、昔と変わらないように風に揺れていた。少しだけ切なかったが、なぜか悲しくはなかった。

私たちの行く先を気にしていた町の人はだれも、私たちがどうなっているのか知らない。「家族みんな元気にやっているよ」と知らせなくてもいいと思った。

年に一度ほど、妹と町のあたりをドライブすることが恒例になった。城には、今でも思い出と愛着がある。でも、取り戻したいとは思わなかった。城が、いつか自分たち家族以外の誰かにとっても懐かしい景色になればいいと思えた。

あの頃感じた惨めさは、今でも私のなかでくすぶっている。何か大きな決断をするときや弱ったとき、あの頃の私が顔を出してくる。すべて帳消しにはなっていないけれど、それでいい。

太陽を反射する水田の中にある城を、父が植えた白樺が揺れる庭を、ただ美しいと感じられる。そこまで自分を連れてくるために、私は医師になったのだと思う。

私は医師になった。父の病院が潰れたから。それは嘘ではないけれど、それだけではなかった。

あの場所を失った私のまま生きていくために、私は医師になった。


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