それでも、ノイズを愛したいーー三宅香帆「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」を読んで趣味と人生を振り返ってみた

それ、それなんだよー。でも大体予想つくけどね、長時間労働の脳疲労とかそんな話かな。スマホ論とか。

あ、まだ平積みされとる。だいぶ流行ってるっぽいけど、わざわざ読むほどかなー…………書評読めばいいかなー……


書店で見かけるたびにこんな風に思っていた自分にゲッタービームをかましたい。はよ読め、お前。


それくらいにインパクトのある激烈な傑作だった。新書でここまでの衝撃を受けたのはちょっと記憶にない。久々の殿堂入りである。

というわけで「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」の個人的感想です。

例の如く最後は結局自分語りになってしまいましたが、どうせまともな書評を求める人はここにはいないと思うので勘弁してください。

ここまで刺激を受けるほど刺さった本だったってことで、とりあえずオススメです、マジで。





読書ノウハウ本じゃないよ

まず最初に触れておかなければいけないと思ったので書くと、本書は「こうすればあなたも働いていながら本が年間300冊読める!」みたいな、時短読書法とかのノウハウを紹介する本ではない。というか、むしろそういった方向性とは真逆といっていい。なので、いわゆるインプット術とか、ライフハックみたいなのを期待して手に取ってしまうと、おそらくギャップに失望してしまうだろう。

一応、あとがきには「働きながら本を読むコツをお伝えします」と銘打って、実践的なアドバイスが6点綴られている。ただしこれもトータル4ページ弱だけで、自身「小手先」と語っている通り、あくまでおまけとしての筆者の体験談の位置付けにすぎない。前述したようなノウハウが手っ取り早く知りたいんだよという人は、立ち読みでこの部分だけパラパラめくれば用は足りるだろう。本当はそういう人にこそ、作者の熱いメッセージが届いてほしいのだが……

そう、メッセージ。本書の真髄は終盤にかけて迸る、強烈な問題意識とあっちいメッセージにある。

それは読書に限らず、「労働と文化的営み」にまで範囲を拡大しても通用する、確かな強度を持ったものだ。

今回はその部分に対する感想がメインになるが、その前にざっと内容をおさらいさせてもらえればと思う。




日本人、社会、読書

どストレートなタイトルに反して、本書の前半は分厚い調査に基づいた歴史の話を丁寧に語るところから始まる。ここで紐解かれる歴史とはすなわち、日本人と読書の関わり方の変遷だ。それも明治から順を追ってくれているので、ここだけでも相当な読み応えと面白さがあった。とはいえ超読みやすいのでご安心を。

あらすじを語るとそれだけでかなりの分量になりそうなので簡潔に済ませるが、印象ポイントとしては「『教養』という概念の発生」それと「昔っから日本人は長時間労働してたけど、それでも本を読んでいた」という話だろう。この時点でもう引き込まれた。各時代のベストセラーと大衆心理のリンクは、労働史の話としても面白いし、これから古典に触れる際にもいいフックになりそうだ。

すると当然ながら読者としては「じゃあ現代と何が違ったの?昔の人がやたらTOUGHだっただけ?労働者を超えた労働者だったの?」という疑問を持つわけだが、それへの答えが実に丁寧で明快。企業で労働している身なら誰もが頷きすぎて頚椎を痛めるほどだった。

端的に言えば次のようにまとめられる。自分向けなので乱暴さには目を瞑ってください。

・個人と社会の断絶が進んだ時代においては、即時個人の利益に繋がるよう純化された「情報」(ファストなもの、インターネットでリニアに得られる・検索によって個人向けにカスタマイズされる)のみが重宝される。

・一方で、読書を通じて獲得する「知識」は、偶然出会う過去の文脈や周辺の付随要素といったノイズを含む。それらは個人の「自己実現」には不要であり、忌避される。

もう、膝を打って打って半月板が砕けそうになった。

ノイズ。

そうなのだ。

ノイズのある趣味は、処理に負荷がかかる。余裕が必要になる。

ノイズのない自己啓発は、資格の勉強やらリスキリングやらと、会社や社会からいつも推奨されるけれど。

目的に最適化されていない、偶然性や周辺への繋がりを持った知の流入は労働生活にとって有害なノイズで、他社から価値を認められるものではない。


だけど、それでも私は、ノイズなしでは生きたくないと思う。

筆者のメッセージに共感しただけではなく、実体験として、ノイズがあってこその我が人生だったから。




バトグラしかやる気しない

メンタルがおぼろ豆腐なので、映画「花束みたいな恋をした」はもう流れてくる評判だけで一生見ない枠入りしているのだが、本書で紹介されているパートだけでも生々しくてお腹いっぱいになった。

働きはじめたカップルの片割れが好きだった漫画を読めなくなり、パズドラしかやる気しない、と語るシーンだ。

わかる。だいたい半分わかる。俺こんな風に彼女いたこととかないけど、半分わかる。いや、やっぱクソわかるわ。

もう量産型のソシャゲって、つくづく日本人に最適化されとるな、と思うよね。通勤時間に遊べて、手軽にちょっとの報酬感や達成感が得られる。課金も多少なら、給料からしたら大した金額じゃない。その他諸々etc…と、ソシャゲ論は巷でさんざん語り尽くされてるだろうから省略するけども、そういうことだ。

かくいう俺も例外ではない。いつもの如く流行り物嫌いのひねくれ者なのでパズドラはやったことないんだけど、俺の場合それにあたるのがハースストーンというカードゲームの、バトルグラウンド(バトグラ)というゲームモードだ。

簡単に言うとこのモード、カードゲームなんだけどデッキを作る必要がない。課金も必要ない(課金圧は年々強まっているが)。で、毎回ランダム性の強い試合展開の中で、8人対戦の1位を決める。デッキ構築カードゲームと麻雀を足したようなものと言われているらしい。ちなみに俺は麻雀をやったことがなくていつか覚えようと思っていたのだが、バトグラにハマりすぎたので麻雀やったら絶対破滅すると思い一生涯手を出さないことに決めた。

で、とにかくこれが手軽なのだ。手軽で中毒性が強くて、ついもう一試合、となる。レート上げにはそこまでこだわっていないが、快勝したときの気持ちよさには相当なものがある。

そうして瞬く間にバトグラは俺の人生を、脳を侵食し尽くした。こうしてnoteを書いている今も、気を抜くとまた試合を始めそうになる。適度な待ち時間があるのが災いして、本を読みつつもバトグラ打ったり、リモートワークの片手間にバトグラ打ったりしている。もうほとんど社会不適合者だ。

バトグラはマイナーゲーだが、人によってはApexとかのFPSを例に挙げると共感できるかもしれない。共通しているのは1ゲームの手軽さ、同じ試合展開になりにくいことによるリプレイ中毒性の高さ、オンライン対戦であるがゆえの適度な緊張と勝利の快感(または敗北のムカつき)、そしてストーリーがないことだ。

ストーリーがないこと。これが決定的な要素だった。

だから、バトグラは疲れていてもできる。

パズドラも同じだろう。

何もする気がなくても、なんとなく起動して、数秒で試合が始まって、無心になれる。時間を溶かす。

それには、ストーリーがないことが重要だ。

ストーリーとはすなわち、ノイズなのだ。



メギド72という傑作の「重さ」

バトグラと並んでハマったスマホゲームがもう一つだけある。それがメギド72だ。

現在はサービスを終了したものの、オフライン版がリリースされているためストーリーだけは読むことができる。収拾がつかなくなるのでこの作品の紹介も省略するが、メギドはとにかく物語が最高だった。ダークファンタジーであり、SFであり、群像劇。重厚で複雑で、圧倒的な満足感。世界観の凄まじさから完結の美しさに至るまでを通して、メギドを超えるゲーム体験が今後の人生で再びできるか分からないほどだ。

だが、メギドはそれゆえに、疲弊していたときの私には重すぎた。

あまりにも濃密すぎて、充実しすぎていて、その物語を咀嚼するだけの体力がないと、起動するに至らないときが多々あった。

そんなメギド72、最終的には完結を見届けられたものの、まだ見られていないコンテンツが多々ある。具体的には個別メギド(キャラ)のエピソードが全然読めていない。シリアスな展開になることも多く、どうしても体力と一種の覚悟がいるのだ。

覚悟というと大げさだろうか。あるいはそれは、偶然性に備える「構え」のようなものかもしれない。

ストーリーがないから、バトグラを遊ぶには、構えはいらなかった。

同じように、Twitterのログを追うだけなら、ただ指を滑らせればいい。

展開を知っている漫画を読み返すときにも、そんなに気負う必要はない。


けれど、メギド72の物語には、ハイクオリティであるがゆえの予想外が、偶然による拡張が常にあった。

メギドの豊かな物語世界は、長編小説となんら変わりない。

壮大なストーリーにのめり込むことは至高の悦楽だが、没入には準備がいる。それは世界観の理解であり、作中の倫理観への適応である。あるいは作家の性格に慣れることであり、そして物語に振り回される覚悟だ。

指輪物語を読み始めるときは、ホビット庄の牧歌的な風景の中に降り立つ。

三国志なら、後漢末期に想像力の眼を飛ばし、黄巾党が立つ世の荒廃と無情を思い描く。

そんな具合だ。

メギド72とはそれくらいの強度と厚みを持った作品だった。紛うことなき大傑作。しかしそれゆえに、一時期の私にとっては「気合いを入れないと触れられない」ものでもあったのだ。

この気合い、あるいは構えとは、予想外や偶然が自分の知を拡張してくれること、それに伴う筋肉疲労への備えとも言い換えられる。

偶然(=本書で三宅が「ノイズ」と定義したもの)を受け止めること。それには余裕が必要なのだ。体力が、備えが必要なのだ。

そのことを私も、実感を持って知っていた。

なぜなら、心を壊していたから。



リハビリに読んだ本のこと

経緯は省くが、診断書を貰って休職することになった際、真っ先にしたのは読書だった。このまま引きこもってゲームをしているだけでは、読み書きの能力が絶望的に衰えると危機感を持ったからだ。そこで活字離れを防ぐための読書と、アウトプットとしての感想ツイートに勤しんだ。ちなみに感想ツイートは友人の勧めによってブログとなり、今のnoteにもつながっている。

手前味噌ではあるが、この取り組みは正解だったと思う。読書習慣はいまだに多少残っているし、書くことにも慣れられた。あの頃、毎日バトグラだけをして過ごしていたらどうなったかと思うとマジで恐ろしい。

ただ、読書といっても当時の私の脳はほとんど焼き切れていたので、とても難しい古典や大作を読める状態ではなかった。振り返ると、こんな具合に私のリハビリ読書は進んでいった。


好きな作家(今野敏)の再読→極めてライトな自己啓発本(齋藤孝)→面白さが保証されているエンタメ(新本格ミステリランキング上位を片っ端から)→自分の好みを知っているフォロワーからのおすすめ→書店で気になったものを手に取る→…………


とにかく、しばらくは心理的に負担のない本を読むに留めていた。私の愛する今野敏という作家はエンタメ小説に特化しており、安定した読みやすさとハッピーエンドが基本で、しかも過去に読んだものの再読だったため、脳への負荷がとても少なかった。また同時に、初読だった大学時代からの変化を実感し、サラリーマンの目線から共感することもあったりと、意外な楽しみもあった。やはり今野敏はすごい。

その頃と大体並行して、なんとなく齋藤孝の本も読んでいた。理由はとにかく読みやすかったのと、図書館に大量に並んでいたからだ。一人の筆者の本を多数読むというのを小説以外でやったのは初めてだったかもしれない。結局、氏の主張は「3色ボールペン使え」「古典読め」「身体使え」に集約されるなと悟ったあたりで掘るのはやめたのだが、とにかく読みやすい本を片っ端から読み終えていく、という体験はリハビリにはよかったかもしれない。

その後は新本格ミステリにハマったり、フォロワーのおすすめを読んでみたりしていたのだが、一方でとにかく避けていたジャンルがあり、社会派といわれるようなシリアスな作品、ノンフィクション、それから自分の病気に直接関係する本は絶対に手に取らないようにしていた。

ミステリでいえば綾辻行人の館シリーズやら麻耶雄嵩やらはファンタジーとして楽しく読んでいたが、松本清張とか、宮部みゆきの火車とかはもうあらすじで回避した。気が滅入るようなノンフィクションも、あと蕁麻疹が出るので青春ものも避けた。とにかく、心がしんどくなる本は避けたのだ。

面白いこと、自分に合うことが保証されている本。それが、心が壊れた自分がリハビリに選んだ手段だった。あの作品たちのおかげで、今の自分がいる、といっても過言ではない。

振り返ってみれば、あの頃の自分はノイズに極めて弱い状態だったのだと思う。

心の病は脳の異常だ。

脳に異常を抱えたままで偶然や不確実性を受け止め、楽しみ、刺激や価値観の変異を受容することは困難だ。

人にはノイズを受け止められるときと、そうでないときがある。



限界のサイン、出ていませんか?

ノイズを受け止められないときは、筆者が語る通り、とにかく休むべきなのだろう。

その状態を示すサインは人によって様々だと思うが、ひとつ自分なりに「これは相当危ない」と思う状態がある。

好きだった音楽が聴けなくなること。

これは、特に音楽好きの人であればあるほど、まずい状態だと思った方がいい。

あれほど心地よかったサウンドが、うるさくて仕方ない。

異常に早く、あるいは遅く感じる。

歌詞の一言一句が耳障りに感じて、聴くに耐えない。

通勤中にいつも聴いてた曲がどうにも嫌になって、何も聴かなくなった。あるいは、歌詞のない穏やかな曲だけしか受け付けなくなった。

私自身も覚えがあるが、こうなったら相当重いSOSの兆しだと思う。

音楽とは文字通り、音を楽しむことだ。そうだったはずが、音を楽しめなくなり、あれほど心躍ったメロディが雑音にしか感じられなくなる。

これは非常に危険な兆候だ。それまで楽しめていたもの、快適な習慣として日常に溶け込んでいたものが、今まさに許容できない不快ななにかに変わりつつある。

ノイズでなかったものが、悪しきノイズになっていく。

それはつまり、受け止める側のあなたの脳が、良くない方向に変質していっているということだからだ。

単純に、落ち込んでいるから明るい曲は聴きたくない、あるいはその逆に明るい曲しか聴きたくない、みたいなことであれば、それは一過性のものかもしれない。だが、そもそもどんな音楽も聴きたくなくなった、大好きだったアーティストの曲も受け付けない、となったら、一度自身の状況を振り返って、可能な限り休んでほしいと思う。

でなければ、あなたが思っているよりもずっとすぐそばまで、破綻が迫っている。




ノイズが連れていってくれたNEXT STAGE

余裕がないと、ノイズは受け止められない。

ノイズなんてなくても、社会生活は送れる。

必要な情報、馴染みのあるものだけに触れていれば、快適で悩まない。


けれど、それでも。

俺はやっぱり、予想外を楽しみたい。

ノイズにぶつかって、知らなかったことを知って、それを面白がって生きていたいと思う。



密かな人生の目標がある。

毎年、それまで知らなかった、新しいものにハマること。

それも、わざとハマろうとするのではなく、偶然出会ったものや教えられたものに、結果として人生を豊かにしてもらうこと。わずかずつでも新しい自分になり、次なるステージへ進むこと。ややこしいが、そんなようなことだ。

といっても、新たな学問を修めるとか、スポーツを始めるとか、そんな大層なことではない。些細なことばかりだ。

些細なことばかりだが、振り返ってみると数年間で、だいぶ色々なものに出会えたようだ。

読書。ミステリ小説。ブログ。舞台(演劇)。ヒプマイ。歴史もの。音楽ライブ。ホラー。地下アイドル。コンカフェ。オーディブル。

もう少し粒度を揃えろよと我ながら思うが、こんな具合に年々何かしらの新しい趣味に出会い、多少なりともハマり、それ以前よりも幅広い自分になれている。オススメ・布教してくれた友人たちには感謝しきりだ。


毎年新しいものにハマること。

これを人生の目標にした理由は、何よりも老いへの恐怖だった。

まず、ゲームができなくなった。

あれほど好きだったモンハンがやり込めなくなって、すぐ飽きてしまうようになったのが最初だったか。積みゲーの本数が増え、続編に追いつかなくなった。

映画館に足を運ぶのが大好きだったが、それも遠のいて久しい。MCUを追えなくなったのは俺のせいだけか分からないが……

特撮にしても、大好きだけれど途中で視聴をやめてしまう。アニメもどうしてもじっと見ていられないし、まとめてサブスクで見ようとして早幾年……こんな具合だ。

何もしていなければ、人は老いる。そして俺のようにバイタリティのない人間が老いるということは、趣味を失っていくことと同義なのだ。

それが嫌だった。怖かった。

アイデンティティがすり減っていく。このままでは会社にごまんといる、休日はゴルフするか寝ているだけの中年になってしまう。嫌だ。それだけは嫌だ。スリザリンより嫌だ。

無趣味な人間を断罪したいわけではない。他人にどうこう言えるほど立派な人間ではない。

ただ、他人を惹きつける魅力や群を抜く能力を何一つ持たない自分が、この上趣味まで失ってしまっては、それはもう虚無に他ならないのではないかという絶対的な恐怖があった。空っぽになりたくないのだ。

その切なる恐怖こそが、俺を駆り立てた。


…………とは言いつつも、そんな後ろ向きな理由だけで人生の目標を決めたわけではない。

もう一つ、大切な作品の教えが胸中にはあった。

HiGH&LOWが教えてくれたこと。

それは「食わず嫌いするなよ」だった。

あの頃、なんだかよく分からないけど静かに盛り上がりつつあったハイロー。EXILE文化圏とは一生無縁だと思っていた自分の脳髄に激突してきた、遊星からの物体琥珀さん。人生を一変させたBreak into the Dark。ツイート一つで成り上がった経験。見つけたHIGHER GROUND。

連ねていけばMUGENに尽きないが、とにかく俺はハイローに教えられた。

食わず嫌いしないで、なんでも試してみろ。

さらに言えば、盛り上がっているものには何かしら理由があるんだ、とも。

それ以来、ことエンタメに関しては、少しずつでも食わず嫌いを克服するようにしてきた。まだまだ遠ざけたいものも、理解し難いものも山ほどあるけど、それでも毎年、少しずつでも何か新しいものを、偶然の出会いを楽しめる自分でありたいと思うようになった。そうすることで、ちっぽけな自分でも壁破って立ち上がり駆け上がるlike a phoenix risingできる気がするから。自分次第で全て変わる、呼び覚ませgonna make louder…………





ノイズを愛して、生きて、書く

ハイローも、かつては数多ある世の中の「自分とは関係ないもの」で、無数に目の前を流れていくノイズの一つだった。

けれど、そのノイズが、確かに俺を変えてくれた。

そんな風に、これまで無数のノイズが、灰色という人格を形作ってきたのだと思う。

というか俺の人生、今思うとほとんどノイズまみれだった。



インターネットの時代はノイズなき「情報」の時代だと筆者は述べた。それは総論では間違いないだろう。

けれど、美しく無機質に整備された大都会にも、下水道はある。

あの頃のインターネットにも、ノイズはたくさんあった。

そして、ノイズがあったからこそ、ドブネズミは生きていられたのだ。



なぜか忘れられない2ちゃんのレス。

もうDLもできなくなったフリーゲーム。

大昔にチャットサイトで仲良くなった兄貴分たち。



部活に打ち込むこともなく、甘酸っぱい恋愛とも無縁、夢や目標なんて何にも持たずに生きていた、無数のインターネットストリートチルドレンのうちの一人。

魅力も努力も才能もない。

俺の人生、ノイズしかなかったわ。

読書による知識なんて立派なものじゃない。

ただ、空っぽで、でも何の目的にも順応できなかった俺は、ノイズまみれで生きるしかなかったのだ。

世間の価値観、若者らしい青春、集団への所属意識、そういうテンプレートからとにかく外れて外れて外れまくった人間が頼りにできるのは、ノイズでツギハギしたバリケードだけだったのだ。


なんて人生だ、まったく。

だけど、もうそれでいいな、と思えてきた。

じきアラフォーという歳まで生きてきてしまったのだ。失敗も喪失も取り返せない。

それに何より今の俺は、そんな自分にぶつかってきてくれたノイズたちが、愛おしくて仕方がないのだ。

故郷にも友人にも組織にもノスタルジーを感じられない人生だけど、あの有象無象たちのことを思うときだけは、切なくて穏やかで心地よくて、ゆったりとした時間に浸れるのだ。

無数のノイズが積み重なって、時間をかけて描き出された、自分だけの遠い情景。

それがきっと、空っぽだった俺という存在の、核の核のところだ。

きっと誰もが、そんな世界を持っている。

俺みたいに歪んだ人生を送っていなくても、読んだ本、出会ったエンタメに驚かされた経験が、あなただけの遠い情景を形作っているだろう。

だから、最適化なんてされてたまるか、と思う。

社会人の心得がなんだ。やりがいがなんだ。責任がなんだ。

失格上等だよ。

何度も失格の焼き印を押されて、それでも生きてんだ。

大きなものたちの目的や価値とはなんら関係ない、バカみたいなノイズの集まりが救ってくれたから、失格だろうとなんだろうと生きてんだ。

だから、これからも俺は、ノイズを愛して生きていく。

次に出会う、予想外の面白いものをめいっぱい歓迎して、変化を楽しんでいく。

誰にも褒められなくて結構だ。

ノイズが俺を生かしてくれたんだから、ノイズを受け止められない人生なんて、まっぴらごめんだ。



ビジネスのためじゃなくていい。流行ってなくていい。バズらなくていい。

ノイズを受け入れて、自分だけの情景を、一生かけて作っていく。

あれもこれも混ぜこぜの、その人だけのオリジナルな情景。

それを大切にしている誰かと出会えたら、きっとまた、すごく面白いことになる。

そのために役立つかもしれないから、俺はこうして、また自分のことを書く。

社会に最適化なんてされてない、誰からも求められていない自分でも、読んでもらえるアテなんてなくても、ただ書く。

この記事が、また新たなノイズに出会う第一歩になると信じて。




書く意欲と過去のノイズたちへの愛情を思い出させてくれた本書に最大限の感謝を込めて、本稿を終わります。

「なぜ働いていると本が読めないのか」、激オススメです!!

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