『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳 藤本和子、村上春樹、SF小説家と複数の訳者たち』邵丹(松柏社)

著者の邵丹氏は上海外国語大学を卒業後、東京大学へ留学した研究者である。もともと日本語を専攻していたわけではなかったが、学生時代、英訳で『ノルウェイの森』を読んで村上春樹にはまり、ハルキ・ワールドの源流を知りたいと独力で日本語を勉強して、日本留学をはたした。
修士課程では村上自身が手がけたフィッツジェラルドやカーヴァーの翻訳文体と、村上自身の小説の文体の比較をおこなったが、博士課程では視野を拡大し、村上春樹をはぐくんだ高度成長期以降の日本の翻訳文化そのものを対象とした。その成果が本書である。
村上春樹がアメリカ文学の翻訳文体から影響を受けていることはよく知られているが、これまできちんとした研究はなかったと思う。村上に関する評論や論文は夥しく書かれているので、ひょっとしたらあるかもしれないが、少なくとも単行本としてまとめられた本格的な研究は本書が初めてだろう。
序章と終章を含め全六章から成るが、第三章と第四章の「ケーススタディ」こそが本書の中心で、村上の出発点となったリチャード・ブローティガンとカート・ヴォネガットJr.の翻訳をとりあげている。
第一章「七〇年代の翻訳を検討するための理論的枠組み」は1980年代にはじまるトランスレーション・スタディーズを祖述するが、エヴェン=ゾハルもトゥーリーもはじめて聞く名前だったので、勉強になった。
第二章「七〇年代の翻訳が置かれた歴史的な文脈」は高度経済成長をへて、アメリカの経済力に近づいた1970年代の日本がアメリカのカウンター・カルチャーの影響を時間差なしに受けるようになった事情を活写する。懐かしい話題がたくさん出てくる。当時の日本を知らないのに、よくここまで調べたと評価したい。
第三章「ケーススタディⅠ:ひとりの訳者、複数の作者──藤本和子の翻訳」はブローティガンを最初に紹介した藤本和子氏と、晶文社の活動をたどる。
藤本氏がアングラ女優だったという話は聞いたことがあるが、ここまで詳しい紹介を読んだのは初めてだ。晶文社が果たした役割は本書の通りだと思うが、晶文社を語るなら植草甚一にもっと紙幅をさいてほしかった。
第四章「ケーススタディⅡ:ひとりの作者、複数の訳者──日本語で構築されたカート・ヴォネガットの世界」はヴォネガットを翻訳した伊藤典夫、池澤夏樹、浅倉久志、飛田茂雄という四人の翻訳者と、『母なる夜』以外の全作品を出版した早川書房をとりあげ、ヴォネガットが日本の文壇に認知されるにしたがい、SFの地位が向上していった過程を明らかにしている。
ヴォネガットが本国で評価される以前から、「SFマガジン」が継続的に作品を翻訳していたことは今ではあまり知られていない。著者はこの事実を発掘し、まだ無名だったヴォネガットを発見したのがSF翻訳の第一人者の伊藤典夫であり、紹介の後押しをしたのが「SFマガジン」の初代編集長で、SFを知的なエンターテイメントとして育てようと腐心していた福島正実であると記している。
また、中央公論社の文芸誌「海」が1975年に出したヴォネガット特集号をとりあげ、池澤夏樹の総論を世界的に最も早い的確なヴォネガット論と評価し、浅倉久志に代表される「SF専業翻訳家」の功績を特記している。
『スローターハウス5』の「死」の場面を、新旧訳で比較した条は新鮮だった。『スローターハウス5』は時間は存在しないという世界観で書かれているが、SF読者にとってはよくある設定の一つで(伊藤典夫の訳書の中では『10月1日では遅すぎる』)、なんの抵抗もなく読みすごしてしまう部分だ。ヴォネガットが時間が存在しない世界での「死」を名詞形で表現しているというのは盲点だった。
さて、著者の労は多としたいが、いくつか残念な点がある。
まず紀伝体風の書き方なので、「SFマガジン」創刊の経緯や第1回世界SFシンポジウム、それを機にはじまったジュディス・メリルを中心とする日本SF翻訳プロジェクトの話が3、4回くりかえされることだ。
第二に早川書房の紹介があまりにもSFに偏っていること。「SFマガジン」の創刊を3回目に語る条で、やっと早川書房がミステリも出していると言及されるが、早川書房はもともとミステリの出版社であり、ペーパーバックサイズで黄色い小口の「ポケミス」(ポケット・ミステリ)で書店に棚を確保していた。「銀背」という愛称で呼ばれたハヤカワSFシリーズは、ポケミスの庇を借りる形ではじまったのだ。
第三に「異色作家」はSFだけではなかったこと。「ミステリ・マガジン」にはミステリとからはずれた毛色の変った作品がよく載り、後に「異色作家短篇集」というシリーズも出ている。
貧しかった頃の日本は知的=左翼だった。それを代表するのが岩波書店で、インテリ左翼の文化は「岩波文化」は呼ばれていた。しかし、高度経済成長によって、知的ではあるが左翼ではない層が生まれた。早川書房はその層に向けて、好奇心を刺激する知的エンターテイメントを提供していた。丸谷才一は「岩波文化」に対比して「早川文化」と呼んだが、そのあたりを掘り下げてほしかったと思う。
終章「「若さ」に基づく文化的第三領域の生成──二つのケーススタディが示すもの」については以下の引用が著者の考えを要約していると思われる。
ブローティガンとヴォネガットはいずれも、ヘミングウェイやフォークナーのように文学史的な座標軸に基づいて行われた従来の文学翻訳の経路ではなく、アングラ演劇とSFとい少々遠回りルートを通って本格的に受容された。しかしこれは、遠回りルートであると同時に新しいルートでもあった。……中略……「遠回りルート」とは、大人が築きあげた「正統」文化を相対化させる「異端」、つまりは若者文化という文脈に沿うことなのだ。
村上春樹が従来の日本文学とは別の場所から出て来たことは誰しもなんとなくわかっているが、それがどのような場所か、実証的に明らかにしようとした人はこれまでいなかった。本書はその空白を埋めようとする貴重な試みである。
(初出:「note」2025-04-22)
2025-04-24のノート
ブローティガンとヴォネガットが認知されるにしたがい、SFの地位が上昇したという邵丹氏の見立てはその通りだが、同じ頃、純文学の側がSFに接近する動きもあった。
その経緯を語った書評をnoteに再録するので、興味のある方は目を通していただきたい。
