“文学-ルーマニア系日系”宣言
最近、ルーマニア語で小説を書くことが全然できていなかった。いわゆるスランプ突入!
その理由は分かってる。あまりに日本語で忙しかったからだ。
日本語での執筆2冊目「クソッタレな俺をマシにするための生活革命」はなかなかの難物で、完成までに約1年半かかった。さらにこっからは日本語でトークショーを何本もこなさくちゃならず、準備に明け暮れる日々。そしてこの1年半は他にも色々仕事してたわけで、俺は今までにないほど日本語を使いまくっていた。これはもう日本語に脳を完膚なきまでに洗われてる状態で、ルーマニア語筆頭に外国語に触れる時間が格段に減っちまった。
だがとうとう忙しさの中でも暇を見つけるなんて能力も培われてきて、また小説を書けるようになってきていた。実はこの2週間で既に2本も完成させている。実に9ヶ月ぶりの小説完成!そのうち1本は、ルーマニア文学における我が故郷LiterNauticaに掲載予定だ。
そしてこの荒れ狂う人生の、束の間の暇に今取り組んでいる文学的な計画について書きたい。
今まで俺は“Literatură japoneză scrisă în română ルーマニア語で書かれる日本文学”をずっと書いてきたという意識でいる。ルーマニア語で書かれながらも、ルーマニアの要素はほとんどない、ただどこまでも日本と日本文化、そして日本語についてだけ書いた小説だ。
これを何で書き続けていたって、それは日本語に生まれ、今でも日本に住み続けているクセして、何故だかルーマニア語が理解できる俺にしかこれは書けないという思いがあったからだね。
だけど去年、日本語でルーマニアで作家になる経緯についての本、改めましてのクソ長タイトル「千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話」aka #千葉ルー を出版した時、今までの30年の人生に1つの決着をつけたと思えた。だから何か新しいことがしたい、今までと全く異なる小説が書きたいと思ったんだ。
そこで俺は今までとは真逆のもの、つまりルーマニアと日本の要素を同時に持つような小説、そしてルーマニア文化と日本文化の狭間、ルーマニア語と日本語の狭間にある小説を書こうと決意したんだ。実は9ヵ月にもわたるスランプに入る前の2年はこういう小説の執筆を実践していたんだけど、そん時はまだ概念が曖昧でこうして言語化できる前にスランプ突入みたいなことになっていたわけね。
この実践の一番最初の作品である掌篇“Multe alte feluri de-a scrie „român”(““ルーマニア人”と書く様々な方法”という意味ね)、これを書くきっかけは“歩道橋”だった。これ、ひらがなでは“ほどうきょう hodou-kyou”と書くけども、実際俺たち“hodoo-kyoo”みたいに発音するやん。実際こういう表記と発音の不一致は珍しくないけど、何だか急にこういう現象が不思議に思えたんだよ。多分こう思えたのは、ルーマニア語のおかげで母語である日本語を外国語のように見ることができるようになったからなんじゃあないか。
で、そこから日本語のローマ字化ってのに面白いものがあると思い始めた。ヘボン式とか訓令式とか様式があるけど、個人では厳密にそれを守ってるわけじゃない印象がある。例えば俺は“ルーマニア人”をローマ字表記するなら“ruumania-jin”って書く。“rumania”だったり“rûmania”だったり、かと思えば“-jin”だったり“-zin”だったりと表記はかなりブレてる。
これを考えている時に、ルーマニア語の要素をここに取り入れたらどうなるかなんて思った。
“ルーマニア人”はルーマニア語で“român”と書き、表記においてこの“â”が特別なんだよ。
俺もこう詳しくは説明できないが、どこかルーマニア人のナショナル・アイデンティティをも象徴する感じだ。この“â”は口を後ろに引いたうえで“ウ”と発音して、“u”の“ウ”とは厳密には異なっている。
だが“â”を、あの“ruumania-jin”というローマ字表記に持ちこんで“rââmania-jin”とでも書いたら、その特別さを表現できるんじゃあないか。こういう言葉遊びをして書けた作品が“Multe alte feluri de-a scrie „român”だった。ちなみに来月に出版される、ヴァースノベルって詩で書かれる小説だけを集めた文芸誌「改行」に、それを自分で日本語に翻訳……いやtraduscrisした作品が掲載されるので、良かったら読んでちょ。
何にしろ、今後はこうやって日本とルーマニア、特に日本語とルーマニア語が相互に影響しあうような作品を書いていきたいと思っている。そこには他にない融和や緊張が宿るはずだって思いが俺にはあるんだ。
で、この文学をどう呼べばいいか。
思うに、これは“literatura japonezo-română 日系ルーマニア文学”であり、同時に“literatura româno-japoneză ルーマニア系日本文学”でもあるだろう。だがこのどちらかを使うとなると、それは日本かルーマニアかのどちらかがどちらかに優先されるような感覚を覚える。この2つはそういうのじゃない、どちらも等しく際立った個性を持つ存在で比べてどっちが秀でてるとか言うのは無理だ。
開き直って“literatura japonezo-română/româno-japoneză”ってクソ長くしようかと思ったが、さすがに何か長すぎるわな。
そこで俺が思いついたのが……“literatura româno/japonezo”というルーマニア語表現だった。ここにおいてはまず明確にルーマニア語の文法から外れた言葉を作りたかった、今までにない概念を構成する意味でね。
ルーマニア語では2つの形容詞を連結する時、規則として最初の形容詞の語尾に特別な語尾“-o”をつけ、2つ目は通常通りの語尾をつける。“o”がどっちにもつくのはまずあり得ない。
ちなみに“româno”を“japonezo”より先につけたのは、千葉ルーでも書いた日本語の影響を受けたルーマニア語である“limba japonezo-română 日系ルーマニア語”では“japoneză”が先に来たので、順番として次は“română”を先に持ってこようということだ。
しかし問題はこの日本語版だ。素直に“ルーマニア系日系文学”でもいいし、この文章書き途中はそれで行こうとしていた。それでも、何となくこれだとちょっと違うなって思いがあった。
東京メトロ東西線の座席でうんうん唸っていた時、ある言葉が俺の脳髄に舞い降りた。
──“文学-ルーマニア系日系”。
この──って超カッコいいよな……ってそれは措いといて、この倒置は“literatura româno/japonezo”を文字通り反映させたものだ。日本語表現としては別に間違ってはいないが、少なくとも普段遣いは絶対にない気取ったものでその逸脱がいい。
そしてどちらにも“◯◯系”をつけている理由は、まず文法規則からの逸脱を目指してたから。日本語においちゃ形容詞を連続でつける時、どっちかの形容詞に“◯◯系”がついてたらどっちかに“◯◯系”はつかない。どっちもついてると明らかに変に感じる。それは“literatura româno/japonezo”の印象とも合致している。
さらに“文学”と“ルーマニア系日系”を繋げるのがこの“-”なのは、ルーマニア語がハイフンをめちゃくちゃ頻繁に使うからだ。上でも“limba japonezo-română”ではハイフン使ってるしね。
そうして生まれた“文学-ルーマニア系日系 literatura româno/japonezo”という訳語どうだろうか。日本語話者にもルーマニア語話者にも違和感を感じてもらえれば、自分としてはまず1つ成功って感じである。ということで今後はこういう日本とルーマニアの狭間を描きだす小説を書いていきたいと思ってるので宜しくお願いいたします!
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