「いつかやる」は、多くの場合「一生やらない」と同義である──ビル・パーキンス『DIE WITH ZERO』を個人のキャリア戦略として読み直す
本の基本情報
『DIE WITH ZERO──人生が豊かになりすぎる究極のルール』 著者:ビル・パーキンス(アメリカ領ヴァージン諸島を拠点とするコンサルティング会社BrisaMax Holdings CEO、1億2000万ドル超の資産を抱えるヘッジファンドマネージャー、ハリウッド映画プロデューサー、ポーカープレーヤー) 訳:児島修 出版:ダイヤモンド社/2020年 ジャンル:人生設計・ライフデザイン・お金 資産の最大化ではなく経験の最大化を説き、世界的ベストセラーとなった一冊。
キャッチコピー
お金を使わなかった自分に、体がもう応えてくれない。それが、多くの人の「老後」の正体だ。
こんな人におすすめ
① 将来への漠然とした不安から、貯蓄と節約を最優先にしてきたビジネスパーソン──その選択の「見えにくいコスト」を一度、数字ではなく経験の側から見直したい方
② 「いつかやりたいこと」のリストを長年持ち続けているが、一つも着手できていない方──なぜ先送りしてしまうのかを、構造として理解したい方
③ キャリアや人生の長期設計に、何か大事な要素が抜け落ちている気がする方──お金と時間と健康のバランスを、従来の家計管理とは別のロジックで組み直したい方
要点1:お金は「ライフエネルギー」に過ぎない
本書の出発点は、お金の捉え直しである。著者はお金を、**「ライフエネルギー」**と呼ぶ。何かをするために費やすエネルギーのことだ。
仕事とは、自分のライフエネルギーを消費する代わりに、お金を手に入れる活動である。つまりお金とは、過去の自分が支払った時間とエネルギーの領収書なのだ。
この視点に立つと、消費の意味が変わる。「この30万円の時計は、何時間分の自分の人生に相当するのか」「目の前のクッキーのカロリーを消費するために、どれだけ走らなければならないのか」──すべてが自分の有限なエネルギーとのトレードオフとして見えてくる。
そしてここから、本書の核心的な問いが立ち上がる。お金を貯めるということは、使われないライフエネルギーを積み上げているということではないか。貯め続けることが目的になった瞬間、それはもう自分の人生を豊かにするための手段ではなくなっている。
要点2:「ゼロで死ぬ」というラディカルな結論
著者の結論はシンプルかつ過激だ。「ゼロで死ね(Die with Zero)」。
どんな金持ちも、あの世にお金は持っていけない。にもかかわらず、人は人生が永遠に続くかのように貯金を積み上げる。そして実際に老後を迎えた頃には、活動範囲が狭まり、支出も自然と減る。アメリカの統計では、リタイア世代の純資産は75歳まで上昇し続ける。つまり「老後のために貯蓄する」と言っていた人でも、いざ退職したらそのお金を十分に使い切れないのが現実だ。
「老後に医療費がかかる」という反論もある。しかし著者は問う。高額な終末医療で数日から数ヵ月延命するために、人生の貴重な数年間を犠牲にしてまで働くべきなのか、と。
この問いかけは、日本人の感覚からすると極端に聞こえるかもしれない。だが本質は明確だ。貯蓄は将来の安心を買うためにあるのではなく、将来に向けて経験する資本を確保するためにある。この目的を見失った貯蓄は、自分の人生の可能性を先細らせる罠に変わる。
要点3:思い出は「配当」を生む──経験への早期投資
著者は20代の頃、あるルームメイトの行動が理解できなかった。予定も決めずに単身ヨーロッパへ旅立ち、そのために多額の借金までした彼。数ヵ月後に戻ってきた彼は、体験談と写真を語りながらこう言った。「返済は大変だったが、旅で得た経験に比べれば安いものだ。だれもあの経験を僕からは奪えない」。
ここから著者は、決定的な洞察を導く。経験は「思い出の配当」を生む金融商品のようなものだ、と。
良質な経験は、その瞬間の喜びだけで終わらない。あとから振り返ることで、当時の風景・感情・匂いまでを追体験できる。そしてその追体験は、何度でも、一生続く。つまり経験とは、元本(体験時の喜び)と配当(思い出による追体験の喜び)の両方を生み続ける資産なのだ。
ここから、ある重要な戦略が導かれる。人生の早い段階で良質な経験を積むほど、思い出の配当を受け取れる期間が長くなる。40歳で始めた旅行は、25歳で始めた旅行より配当期間が15年短い。経験は複利で効いてくるのだ。
要点4:やりたいことには「賞味期限」がある
本書のもう一つの核心がここにある。すべての経験には、賞味期限がある。
子どもがいつか大人になり積み木で遊べなくなるように、バックパックで旅するのも、水上スキーを楽しむのも、高地を登山するのも、歳を取れば物理的にできなくなる。お金の問題ではない。体が応えなくなる。
死ぬ前の後悔として最も多く挙げられるのは、**「自分に忠実に生きればよかった」と「働きすぎなければよかった」**の二つだという。いずれも「あの時できたことを、あの時やらなかった」という、取り戻しのきかない後悔だ。
ここで著者は、「タイムバケット」という考え方を提唱する。人生を5年または10年で区切り、それぞれの時期を一つの「バケツ(桶)」と見なす。そしてやりたいことをリストアップし、各項目をどのバケツに入れるかを決める。この時、お金のことは一切考えない。ただ「どの年代で何をしたいのか」だけを真剣に想像する。
このワークを一度やると、多くの人は愕然とする。自分がずっと「いつかやる」と思っていたことの多くが、実はもう賞味期限が近い、あるいはすでに過ぎていることに気づくからだ。「いつかやる」は、多くの場合「一生やらない」と同義である。
要点5:「リスクを取らないリスク」を過小評価するな
本書の最終的なメッセージは、行動への呼びかけである。
人は「リスクを取らないリスク」を無視しがちだ。「もしあの時チャレンジしていれば……」という後悔は、リスクを取らなかったことのリスクの典型例である。新しい挑戦をしないこと、違う土地に移らないこと、好きだと言わないこと、会いたい人に会いに行かないこと──これらはすべて「何もしなかった」という選択であり、実は重大なリスクを取ったのと同じだ。
著者は大胆な行動を取るうえで、3つのポイントを挙げる。①人生の早い段階でやる(若いほど失うものが少なく、リスクを取りやすい)、②行動を取らないことへのリスクを過小評価しない(不安は実際のリスクの大きさとは別物)、③「リスクの大きさ」と「心理的な不安」を区別する(多くの場合、不安の方がリスクより遥かに大きい)。
大切なのは、80歳になった時に潤沢な資産があることではない。時間を浪費することこそ、人生における最大のリスクである。貯めすぎた資産は、使われないライフエネルギーとして、誰にも還元されないまま消える。そうなってから気づいても、もう取り戻せない。
谷口の見え方──「いつかやる」を「今やる」に変えるのは、意志ではなく構造である
経営学にリアルオプションという理論がある(提唱者はロジャー・マクグラス)。不確実な状況では、選択肢を持っていること自体に価値がある、という考え方だ。例えば新規事業に小さく投資しておけば、将来市場が拡大したときに本格参入できる「オプション(選択権)」を手に入れられる。一方、何もしなければ、そのオプション自体が消滅する。
本書の「タイムバケット」は、実はこのリアルオプション思考を人生に適用した実装論だと私は読む。25歳でヨーロッパに行けば、「30年後にもう一度その場所を再訪する」という選択肢を自分に残せる。40歳まで行かなければ、「30年後にもう一度」という選択肢そのものが消えていく。人生における選択権は、時間の経過とともに消滅する有期の資産なのだ。
コーチングの現場で、私が頻繁に出会うのが、「いつかやります」と言い続けているエグゼクティブである。彼らは極めて優秀で、計画性もあり、長期視点も持っている。しかし「いつか」のリストは、年々厚くなるばかりで、着手されない。これは意志の弱さではない。「いつか」を具体的な時期に紐づける構造装置が、彼らの人生に組み込まれていないからだ。
先に取り上げた『疲労とはなにか』は、過労で脳が物理的に壊れれば、判断力も意欲も失われるという事実を科学的に示した。『センス・オブ・ワンダー』は、探しに行くほど、本当に大切なものは逃げていくという逆説を示した。本書は、この2冊と静かに響き合う。経験を先送りし続けると、先送りした先の体が、もう経験できない状態になっている。これは精神論ではなく、物理的な事実である。
ただし本書に関して考慮する所は、著者ビル・パーキンスは資産1億2000万ドル超のヘッジファンドマネージャーである。「ゼロで死ね」というメッセージは、彼のような富裕層にはそのまま当てはまる。しかし日本の一般的なビジネスパーソン、特に非正規雇用や低所得層にとって、「老後の備えを取り崩してでも経験に投資せよ」という主張は、慎重に受け取るべき必要がありそうである。
本書から抽出すべき本質は、「貯蓄をゼロにせよ」ではなく、「資本の最適配分を『富の最大化』から『経験の最大化』に切り替えよ」という視点の転換だ。貯蓄をゼロにするかどうかは個人の状況次第で全く異なる。しかし「お金と時間と健康の三つを、年代ごとに最適なバランスで配分する」という問いは、どの所得層にも普遍的に当てはまる。
お金を増やすことより難しいのは、増やしたお金を自分の人生の豊かさに変換する技術である。多くの人は前者に時間を使いすぎて、後者を身につけないまま歳を取っていく。ここが本書が最も重要な場所を突いている、と私は思う。
実践アクション──明日から試せる3つの行動
① タイムバケットを5年単位で一度だけ作る 人生を5年刻みで区切り、「この5年のうちにやりたいこと」を各バケツに書き込む。お金のことは一切考えず、ただ「いつやるか」だけを真剣に想像する。ほとんどの「いつかやる」が、実はもう賞味期限が迫っていることに気づく最初の実験になる。
② 「今しかできない経験」に、年に一度は大きく投資する 「いつかやる」リストから一つだけ選び、年に一度は計画して実行すると決める。家族旅行、学び直し、冒険、大切な人との時間──内容は問わない。重要なのは構造として年間予算と時期に組み込んでしまうことだ。意志で動こうとするから動けない。仕組みで動けば動ける。
③ 「リスクを取らないリスク」を月に一度、棚卸しする 月末に5分だけ、「今月、自分が『やらない』という選択をしたことは何か」を書き出す。やらないことにもリスクがあるという本書の視点を、定期的に自分の意思決定に差し込むための実践だ。一年続けると、自分が本当に避けてきたものの輪郭がはっきり見えてくる。
お金を貯めることは難しくない。難しいのは、貯めたお金を自分の人生の豊かさに変換することである。ライフエネルギーは、使わずに置いておけば腐る資産だ。腐る前に、どこに注ぐか──その問いから逃げているうちに、時間だけが過ぎていく。
