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生誕80周年:孤高の音響彫刻家 アラン ホールズワースの軌跡

Allan Holdsworth (1946年8月6日 - 2017年4月15日)


音楽的背景と比類なき進化の足跡

アランホールズワースは1946年8月6日、イングランドのウェストヨークシャー州ブラッドフォードで生まれた。父親がジャズピアニストという音楽一家の環境で育ち、少年時代から音楽に囲まれて過ごした。当初はサックスに強い憧れを抱きつつも高級品のため断念し、17歳で叔父の古いアコースティックギターを手にした。

初期からジムホールやジョーパス、ジャズサックス奏者をコピーし、特にジョンコルトレーンからの絶大な影響を受けた。ただし、それは単純にサックスのフレーズをそのままコピーしていたわけではなく、あくまでも心で感じるそれ風なものに感化されていた。あの音が凄く好きだからこそ、無意識にサックスのサウンドを解釈し、それをギターに置き換えて表現していた。また、音楽的ルーツの初期においては、チャーリークリスチャンやジャンゴラインハルトからの圧倒的な影響を受けていた。さらにアラン自身がかつてのインタビュー等で「エリッククラプトンは基本的に、自分が影響を受けた(唯一の)ギタリストだ」と語っていることで知られており、ロックギタリストの中ではクラプトンのプレイを初期の大きなインスピレーションの一つとして挙げていた。もっとも、最終的にアランの音楽性はサックス奏者のジョンコルトレーンやマイケルブレッカーのフレージングなどに強く根ざすようになり、実際の演奏スタイルはクラプトンとは大きく異なるものになった。さらに、クラシック音楽の影響についても、ラヴェルやドビュッシー、バルトークなどの名前を本人がルーツとして直接挙げている。

初期キャリアと全英ギタリストフェスティバルでの躍進

1971年、ロンドンで開催された全英ギタリストフェスティバルでアランホールズワースは何と金賞を獲得した。この時、ゲストとしてケニーバレルがアメリカから招待されていたとも伝えられている。審査員のロバートフリップはアランを絶賛し、イギンボトムというマイナーグループでしか世の中に知られていなかったアランが一役有名になった。イアンカーのベラドナへの参加も、こうしたロンドンでの一時的ではあっても獲得された知名度が影響したのかもしれない。

テンペストのファーストアルバムは1972年10月と11月にロンドンのAIRロンドンスタジオで録音された。当時24歳で、メジャーシーンでのデビューを果たしたことになる。全曲、ブルースの十二小節パターンから脱した当時としてはかなり高度な作曲であったが、A面二曲目の「Foyers of Fun」などはクリームの「Sunshine of Your Love」を連想させるリフを使用し、「Dark House」ではワウペダルCry Babyの使い方がエリッククラプトンに似ているように感じる。アランの、クラプトンの影響が垣間見える貴重な瞬間だ。

デビュー作『Velvet Darkness』を巡る過酷な試練とルディヴァンゲルダーとの衝突

アランホールズワースのキャリアにおいて、ソロデビュー作となった『Velvet Darkness』の制作を巡る顛末は、本人の音楽的尊厳を大きく傷つけた最も忌まわしい記憶として語り継がれている。このアルバムはジャズの聖地として名高いCTIレーベルからリリースされたが、レコーディングの実際は本人の意図とは全く異なる過酷な状況で進められていた。

アラン自身が生前のインタビューなどで赤裸々に語っているように、当時のレコーディングは本番に向けた本格的なものではなく、あくまで事前のリハーサル段階やテスト演奏のつもりで行われていたに過ぎなかった。本人がアルバムとして世に出すことへの明確な同意を与えていなかったにもかかわらず、レーベル側の判断によって勝手にリリースされてしまったのである。このあまりにも不誠実な扱いに直面したアランは、本作を自らのディスコグラフィーから完全に除外し、大惨事と厳しく評して生涯嫌悪し続けた。

さらに、レコーディング現場では伝説的な名エンジニアであるルディヴァンゲルダーとの間で決定的な亀裂が生じることになった。アランが自身の求めるギターサウンドのトーンやニュアンスを実現しようとマイクの選定について意見を述べたところ、誇り高きヴァンゲルダーはその要求を頑なに拒絶し、両者の間で激しい衝突が起きた。当時のジャズ録音における絶対的な権威であったヴァンゲルダーとの折り合いがつかず、プロとしての妥協を許さないアランは深い絶望とショックを味わうことになった。

かつてインタビューでアランは当時の辛い体験をこう振り返っている。

「とにかくあれは大失敗だった。あまりのショックで、僕はあのレコーディングの後、半年かそれ以上の間ギターを弾く気になれなかったほどだった。」

「あのアルバムのエンジニアは、世界一の腕を持った男だと言われているルディヴァンゲルダーだった。でも、少なくとも僕の経験ではそうじゃなかった。」

「僕は自分のキャビネットの音を拾うのに、ある特定のマイクを使いたいと思っていたけれど、彼はその理由を知ろうとさえしなかった。僕は、マーシャルのキャビネットの音をノイマンのU87というマイク二本で録って欲しいと言ったのに、彼はAKGのC414を使ってしまったんだ。C414自体は素晴らしいマイクで、メーカーに文句を言うつもりは全くない。でも、僕に言わせると、ディストーションの掛かったエレクトリックギターの音を拾うマイクとしては、とにかく最悪なんだ。にもかかわらず、ルディヴァンゲルダーは僕がお願いした機材は一切使おうとせず、自分のやりたいようにやっていた。」

この決定的なすれ違いと不本意な制作環境が原因となり、アランはレコーディング後に半年以上もギターに一切触れることができなくなるほどの甚大な精神的打撃を受けたのであった。

Allan Holdsworth / Velvet Darkness [CTI Records / CTI 6068]

トニーウィリアムスとの出会いとU.K.での苦悩

デビュー作を巡る耐え難い挫折と苦難を経験した後、アランはジャズロックの歴史を根本から塗り替えるトニーウィリアムスとの共演という運命的な転機を迎える。

トニーウィリアムスとの関係について、アランは生前のインタビューやボックスセットのライナーノーツで次のように深く回想している。

「トニーと演奏していたとき、彼は音楽をどちらの方向に進めたいかといった指示を一切出さなかった。すべてを私に任せてくれたんだ。『よし、音楽はここにある、自分のやりたいようにやりなさい』とね。だから、たとえ他人が作曲した音楽であっても、自分の個性をそこに注入する方法を見つけるのは比較的簡単だった。そして、ほとんどの人が私に対して同じように接してくれたよ」

細かくこう弾けと指図するのではなく、演奏者に全権を委ねて個性を引き出すのがトニーのスタイルであり、アランはその自由な環境のおかげで自身のオリジナリティを存分に発揮できたと述懐している。演奏者にすべてを委ねるトニーの圧倒的な自由主義は、アランにとって理想郷のような創作空間であった。

The New Tony Williams Lifetime

しかし、その後に加入したプログレッシヴロックバンドのU.K.における活動は、トニーが示した全幅の信頼とはまさに表裏をなす、完全に逆の経験であった。当時の心境についてアランは次のように語っている。

「U.K.では毎晩同じソロを弾くことを求められた。」
「音楽はあまりにも組織化されていた。」
「創造性を発揮する余地がなかった。」
「息苦しかった。」
「U.K.ではソロをレコードどおり毎晩弾くよう求められ、それは私には拷問だった。」
「私はライブではレコードと同じソロは弾きたくない。U.K.はそれを望んだが、私はそれはできないと言った。」

バンド内では厳格なアレンジや管理が求められ、自身の求める自由なインプロヴィゼーションや音楽的アプローチが大きく制限されることになった。トニーウィリアムスのもとで存分に開花した自由な精神を知るアランにとって、UKでの厳格な管理体制は耐え難い苦悩をもたらし、当時の息苦しい音楽的緊張感はトニー流の自由主義との強烈な対比となって刻まれることになったのである。

U.K.

エディヴァンヘイレンとの深き絆と圧倒的な傾倒

アランホールズワースのキャリアにおいて、エディヴァンヘイレンとの関係性は語り継がれるべき極めて重要なトピックである。当時、すでに世界的なギターヒーローとして絶大な人気を誇っていたエディヴァンヘイレンであるが、彼は自身のスタイルに決定的な影響を与えた存在として、常にアランの名前を挙げ、強烈なまでのリスペクトを公言していた。エディが初めてアランの演奏を聴いたとき、あまりの独創性にどうやって弾いているのか全く理解できなかったと語っている。

「アランホールズワースは、地球上で最高のギタリストだ。彼がやっていることは、誰も真似できない。指の動きやレガートの滑らかさ、あのハーモニーのセンスは次元が違うよ」

by Eddie Van Halen

エディは自身のギターソロの構築において、アランの流麗なレガート奏法や、従来のブルースの枠を超えたモーダルなアプローチから強烈なインスピレーションを受けていた。自分は彼の足元にも及ばないという強い敬意を抱きつつ、アランの音楽的孤高さや、商業主義に迎合せず自分のスタイルを貫く姿勢に深く共感していたのである。

機材面でも、エディはアランが使用していたシステムに強い関心を持ち、アルバム制作やサウンドメイクの場面で意見を交わしている。エディヴァンヘイレンにおけるホールズワース的要素は、「And The Cradle Will Rock…」「Push Comes To Shove」「Mean Street」「Girl Gone Bad」といった Women And Children First〜Fair Warning 期のソロを聴くとかなりはっきりしていて、3ノート パー ストリング運指とワイドストレッチを前提にしたレガート主体のライン、ディミニッシュやホールトーンといったシンメトリカルな音列をポジションごと横滑りさせる疑似シンメトリカル スケール的アプローチ、テンションを含んだ分数コードやスラッシュ コード由来のクラスター的ヴォイシングを分解していくワイド インターバルのブレイクアップ アルペジオ、「Beat It」のソロに象徴される高ゲインでコンプレッションの深いリキッドなドライブ トーンと、それに乗ってほとんどピッキング感が消えるほど滑らかにつながるレガート パッセージなど、「左手主導の流体的なライン」と「非ギター的な広域ヴォイシング処理」がかさなり合うことで、一瞬ホールズワースを連想させる浮遊感のあるハーモニーが顔を出す瞬間として立ち上がってくる。

さらにエディは、自身の絶大な影響力とコネクションを活かし、当時アメリカでは無名に近かったアランを強力にバックアップした。ワーナーブラザーズレコードの経営陣に対してその才能を熱烈に売り込み、レコード契約とソロアルバム制作へと結びつける決定的な役割を果たしたのである。レコード会社側は当初アランの音楽性に戸惑ったものの、エディが「俺が保証するから契約しろ」と強く推したことで、歴史的名盤誕生への道が拓かれた。

二人の関係で最も感動的なのは、エディがアランの人生の危機を金銭的にも精神的にも救い出したことである。アランは離婚やスタジオの喪失、音楽業界からの不当な扱いや印税未払いなどにより、晩年に至るまで深刻な経済的困窮に苦しんでいた。家賃も払えず、病院に行くこともままならないほどのどん底にあった時期、それを知ったエディヴァンヘイレンは私財を投じてアランを密かに支えた。自身のネットワークを使ってギターや機材を贈り、生活費を工面し、再び音楽活動に向き合える環境を整えようと奔走したのである。エディにとってアランは崇拝する神であり、その神が世間の無理解によって苦しんでいるのを座視できなかったのだ。アランはこの支援について、生前、深い感謝を語っている。

圧倒的な商業的成功を収めたエディが、商業的な成功とは無縁でありながら音楽の極限を追求し続けたアランを、一人の人間として、そして音楽の同志として物心両面で守り抜いた。孤高の天才だったアランホールズワースと、世界最大のロックスターだったエディヴァンヘイレン。二人の間には、単なるファンとアイドルの関係をはるかに超えた、深い敬愛と絆が確かに存在していた。

Jeff Berlin, Allan Holdsworth and Eddie Van Halen

ジャズへの想いと独自の音楽的立ち位置

アランは「自分の音楽はジャズであるが、リスナーにはそう気付かれていない」という独自の立ち位置を持っていた。本人は生前のインタビューにおいて、過去の定型化したジャズのリズムや伝統的な4ビートに対して強い違和感を抱いていたことを赤裸々に語っており、「音楽的にはリズム面で退屈してしまう。だって、いつもいつも同じだろう?僕にとっては後ろを振り返るようなものだよ」と述懐している。古い形式をただ繰り返すだけのジャズや、スウィングしているかどうかばかりを気にする硬直したアプローチには耐えられなかった。

伝統的なスイング感や決まりきったブルース進行のフォーマットに縛られることを嫌う一方で、ジャズが内包する高度な和声構造やインプロヴィゼーションの精神そのものには深く傾倒していた。彼はジャズという音楽の本質を独自の角度から解釈し直し、既存のジャズイディオムをなぞるのではなく、常に未来を見つめる姿勢を貫いた。その姿勢についてアランは「ジャズとは即興主体のクリエイティヴな音楽のこと。そういった意味で僕の音楽はジャズだと言える。」と語り、ジャンルの形式に囚われない純粋な即興芸術としてのジャズへの強い誇りと自負を抱いていた。

アランは自らの音楽的アイデンティティの本質について、かつて次のような決定的な言葉を残している。

「僕は、ロックを演奏したいと思ったことは一度もないんだ。基本的に僕はジャズをプレイしたいと思ってる。僕のようなサウンドでジャズをやってもいいんじゃないか。」

フランクザッパは生前、アランの圧倒的な才能と唯一無二の独創性を深く称え、次のような最大級の賛辞を公に贈っている。

「アランホールズワースは、誰にも真似できない独自の音楽的言語を発明した数少ないアーティストの一人だ。彼は他の誰とも違う音を出し、誰も聴いたことがないような方法でギターを弾いている。現代の音楽シーンにおいて、彼ほど完全に独自の宇宙を築き上げた人間はほかにいない。」

by Frank Zappa

このザッパの言葉もまた、彼が既存のジャズの枠組みへの強い反発と違和感を抱きながらも、それを遥かに超越した次元で自らの音楽的言語を確立した孤高の表現者であったことを何よりも雄弁に物語っている。

脱ギターサウンドとシンタックスへの執念

少年時代にサックスに憧れながらも叶わなかった意志は、やがて既存のギターという楽器の枠組みそのものを突き破る脱ギターサウンドへの激しい執念へと結びついていった。サックスの音色と同様に、アランは次のように語っている。

「僕はいつもピックノイズが聴こえないようにプレイしているんだ。それがギターという楽器の本質じゃないか。パーカッシヴな楽器との違いはそこにある。パーカッシヴな楽器はパーカッシヴでいいけど、ギターではそうならないようにしたいね」

このピックノイズを徹底的に排除した滑らかなレガート奏法の追求こそが、彼をシンタックスという唯一無二の革新的な機材へと直結させることになったのである。

シンタックスとはGR700とは異なり、厳密にはギターではなくギターのようなデジタルシンセコントローラーである。基本的には本体とペダルユニットで構成され、これだけでは音は出ない。MIDIモジュールやMIDIシンセをつないでそれをコントロールするものであり、アランはオーバーハイムのエキスパンダーなどをつないで使用した。ピッチをボルテージに変換するものではないため音の遅れがゼロであり、弦は単なるスイッチとして機能するためどのような弦でもナイロン以外なら使用できた。アランはこの楽器を駆使し、ニューアルバムのアタヴァクロンをはじめとする作品で飛躍したサウンドを我々に示していった。

徹底した機材のこだわりと革新的なギタースタイル

ジャズの文脈であってもクリーントーンは使えず、自作の機材を用いてディストーションサウンドにこだわり抜いた。その理由は、クリーントーンではサックスのようなロングトーンや無限のサステイン、そして自身の求める滑らかな音色のニュアンスを表現できなかったからに他ならない。機材やスピーカー、そして録音への異常なまでのこだわりを持ち、初期のGibson SGやCharvel時代を経て、中・後期にはIbanezのシグネチャーモデル、そして卓越した木工技術を持つBill Delapによる独自のヘッドレス構造やマルチスケールのカスタムギターへと変遷していく。さらに膨大なラックシステム、独自のアッテネーターや自作機材、そしてSynthAxeに至るまで、音の追求を極めた。

そのサウンドを生み出す奏法は、ハンマリングとプリングを駆使して極限までピックノイズを排除した元祖超絶レガート奏法、ワイドストレッチと弦跳びを組み合わせた高速アルペジオ、減5度進行によるアウトなライン、シンメトリックアプローチ、クローズドヴォイシングや複雑なタッピング技法に至るまで、極めて高度な理論と身体的技術に裏打ちされていた。

その妥協なきサウンドメイキングはスタジオの現場においても特別な存在感を放っており、『Road Games』や『Metal Fatigue』で録音とミックスを担当したロバートファイストは、『Guitar Player』誌の特集で当時の制作を振り返り、アランのギターサウンドはすでに完全に完成されており、エンジニア側がゼロから音を作るというよりは、「その唯一無二の塊としての音像を壊さないように収めることが仕事だった」と語っている。アンプの音量やサステイン、フィードバックを含めた立体的な音像をスタジオで再現することは大きなチャレンジであり、当時の機材環境の中で彼の空間処理やディレイを維持しつつ、ボーカルやドラムと音域がぶつからないようにミックスするには相当な頭を使ったという。チャドワッカーマンやビルブルーフォードといった周辺のミュージシャンたちも、ギターの音量とサステインが生々しすぎてドラムの録り方やアプローチそのものが影響を受けたことや、エンジニアが常にギターの帯域との干渉に苦心していたことを証言している。

当時の技術誌のレポートでも、ハイゲインでありながらノイズリダクションを極力使わず、アンプとマイクの位置だけでサステインとクリーンさの両立を図り、一発録りを基本にして演奏と音の一体感を優先したことが伝えられている。アーティストが自前で作り込んだエフェクト込みのトーンをどこまで素のまま通すかという問題は、当時のエンジニアにとっても全く新しい課題であった。

もっとも、エンジニアとの関係が常に円滑だったわけではない。アラン自身、1994年のインタビューにおいて、レッスン用のREHビデオのオーディオミックスで別のエンジニアが勝手にエフェクトを足し、リングモジュレーター的な処理や過剰なリバーブをかけられてしまった際、本来のニュアンスが損なわれて「自分の音ではない」と感じた苦い経験を明かしている。こうした背景から、録音やミックスで他人にコントロールされることに対しては強い警戒心を持つようになり、エンジニア側が普通の感覚で良かれと思って施した処理も、彼の構築した世界観からすれば余計なノイズになりがちであったことがうかがえる。

左からGibson SG、Charvel、Ibanez、Bill Delap、SynthAxe

多くのギタリストたちが捧げた追悼と讃歌

2017年4月16日、アランホールズワースがこの世を去り、世界各地から偉大なギタリストたちの哀悼のコメントが寄せられた。彼らは生前からも、その唯一無二の才能に対して惜しみなく賛辞を送り続けていた。

「アランは最もオリジナリティに溢れ、影響力の強いミュージシャンであったことは議論の余地がない。文句なしに俺のお気に入りギタリストの1人だった。」
by イングヴェイマルムスティーン

「ジミヘンドリックスよりも革命的だった唯一のギタリスト」
「彼が一体何を弾いているのかさっぱり分からなかった」
「彼は僕に、"自分の目指すゴールは何かに希釈されていない純粋な音楽のカタログを作ることだ"と言っていたことがあった。」
by スティーヴヴァイ

「アランはバイオリニストのようにレガートを弾く。彼の右手はまるで(バイオリンの)弓のようで、左手はパガニーニのようだ。彼のプレイをどう呼んでも自由だが、もしその構造を理解しようとすれば、君の脳みそはフリーズしてしまうだろう。ジョンマクラフリンも、マイクスターンも、ジョンスコフィールドも、僕たち全員がただ頭を抱えて『なんてこった!(Damn!)』と唸るしかないんだ」
By サンタナ

「彼はギタリストの中のギタリスト以上の存在だった。アランに初めて会ったのは、彼がU.K.というバンドでプレイしていた頃だった。」
by エリックジョンソン

「彼は私のプレイに莫大な影響を与えてくれた存在であり、信じられないほどの芸術家であり革新者でした。」
by ジョンペトルーシ

「彼は(ギター界の)ゲームのルールを変えてしまった。」
by スティーヴルカサー

「自分たちとは全く違う次元にいる、解説不可能な天才」
By ジョンスコフィールド

「アラン、もし君が(ギターで)何をやっているのか僕に分かりさえすれば、そのアイデアを全部盗んでしまうところだよ。だけど、君が一体全体何を弾いているのか、僕にはさっぱり分からないんだ!」
By ジョンマクラフリン

「なぜ彼が誰もが知る有名人じゃないのか、本当に謎だ」
「アランが歴史上最も偉大なギタリストの一人であるという意見に、私は100%同意する。1970年代半ばのトニーウィリアムスのレコード(『Believe It』など)における彼のプレイは、完全に革命的だった。」
By パットメセニー

「彼は私の神だった。私自身のアドリブラインのコンセプトにおいて、最も強い影響を受けたのがホールズワースなんだ」
「ジョンコルトレーンの(難解で流れるような)語法をいかにしてギターという楽器で表現するか。その明確な基準を歴史上で最初に示したのは、間違いなくアランホールズワースだ」
by カートローゼンウィンケル

「1970年代、僕は自分のバンドとU.K.の活動を通して毎晩彼のプレイを聴いていた。彼は純真なオーディエンスを前に、辺り一面を音だらけにしてギタリストに対する既成概念を覆して行き、僕は死ぬ程スキルを感じた。自分のライヴにチケット代を出したいぐらいだったよ。」
by ビルブルーフォード

「例えばこんな具合だ。作曲、テクニック、トーンについて議論をする。エディヴァンヘイレン、ジミーペイジ、ブライアンメイ、今ツアー中の4人、スティーヴヴァイ、イングヴェイマルムスティーン、ザックワイルド、トシンアバシ…他にも、数え切れないほどのギタリストと話をしてきた。その彼ら全員が絶対に陰口を言わない、ただ1人のギタリストがいる。それがアランホールズワースだ。僕ら全員が彼に対して熱敬の念を抱いている。彼のトーン、プレイ、作曲、しかし最も重要なのは独自の発明だ。」
「UKの"In the Dead of Night"における彼のソロの、最初の八音を聴いただけで、僕はこの人が何か特別なものを持っていると直感した」
by ヌーノベッテンコート

「アランホールズワースを初めて聴いたとき、文字通りぶっ飛んだよ。なぜなら、僕が自分の頭の中で『こういうギターを弾きたい、こういうサウンドを出したい』と必死に模索していたことを、彼はすでに完璧に、しかも信じられないようなレベルで具現化していたからだ。彼こそが、僕が目指していた領域のはるか先を行く存在だった」
「アランをなんとかメインストリームのロック界に引っ張り出して、彼がどれほど凄まじいギタリストなのかを世界中のロックファンに見せつけてやりたかったんだ。でも、彼はあまりにも純粋な芸術家で、商業的な成功にはこれっぽっちも興味がなかった。彼は自分の進みたい高度な音楽の道にただ満足していて、僕の企みは通用しなかったよ」
By ジェフベック

終章:未踏の音響空間を往く求道者

2014年に行われたインタビューの中で、アランホールズワースは自身の音楽人生と立ち位置を次のように振り返って語っている。

「僕の音楽は、ロックとジャズの狭間に位置しているんだ。サウンドはロック寄りだけど、ハーモニーはジャズに近い。それに、ハードロックによく見られるようなギターソロもふんだんに取り入れている。僕は決してメタルミュージシャンではないし、かといってメインストリームのジャズミュージシャンでもないんだ。」

しかし、アランホールズワースが生前最後に共演を果たしたのは、現代ジャズギターの最高峰であるカートローゼンウィンケルだった。カートは「アランホールズワースを僕のバンドのゲストとして呼びたい」と主催者側に強く熱望し、フェスに孤高の天才であるホールズワースを引っ張り出したのは、他でもないカートローゼンウィンケルの強いリスペクトと直談判があったからだった。

2013年にニューヨークのマディソンスクエアガーデンで開催されたエリッククラプトン主催のクロスロードギターフェスティバルに招かれた際、アランはカメラに向かって次のように語っている。

「エリッククラプトンのクロスロードギターフェスティバルに参加できて、本当にものすごく興奮しているよ。ここに呼ばれるなんて完全に不意を突かれたけれど、参加できることは絶対的な名誉であり、心からの喜びなんだ」

実際の会場でも、ホールズワースは楽屋で周囲にいるブルースやロック界のスターギタリストたちを見渡しながら、カートローゼンウィンケルに対して「おい、カート。僕みたいな人間が本当にこの場所にいていいのかい?」と、照れくさそうに何度も尋ねていたという。ステージ本番ではアランが多数のエフェクター群から音を出すまでに約10分ほどのテクニカルなハプニングが発生し、ローゼンウィンケルが両手を挙げてジョーク交じりに勝利のポーズをとるという微笑ましい一幕もあった。

ふたりの演奏スタイルや音楽言語には驚くほど深い近似性が見出せるが、それはどちらかが歩み寄った結果ではない。アランはただ、自らの信じる音楽を何十年もの間、一歩も曲げずに貫き通しただけだった。結果として、時代やメインストリームのジャズの方が数十年の時を経てアランの音楽に追いついたのである。孤高の求道者が遺した革新的な響きは、いまや現代ジャズの最前線そのものとして、永遠にギターの歴史を照らし続けている。

Allan Holdsworth and Kurt Rosenwinkel at Eric Clapton’s 2013 Crossroads Guitar Festival

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