Xでやたら持て囃されている『教養』が一体なにを指しているのかという話
教養があるとこんなにいいんだよ!みたいな教養主義がとりわけXでは持て囃されているが彼らの言ってる教養とは、単に知っているということを指してるだけのようだ。
古典のある一節を"知っている"からこの"ネタ"で笑えるといった具合に。
あるいは、美術とかに"教養"があればギャンブルや酒にハマることはないとか。
しかし、私はこの手の知っているというレベルの教養にはなんの素晴らしさも感じない。それどころか、知っている程度の知識をたくさん身につけることはそれだけ偏見を強化する事にもなりかねない。
中途半端に知るだけのことはかえってよくない。
私は、自分には関係ないの哲学などということを言ったりするが、自分に関係のある範囲のことを知っていればよいのであってそれ以外のことには極力首を突っ込まないほうが良いのである。
つまり、興味に従ってその部分だけ知ることこそが大事であれもこれも知ることは良いどころか害がある。
私が一番不思議に思うのは、哲学が話題になった時である。
哲学が話題に上がった時、有名な哲学者のあの思想を知っているかという話にいつのまにかなってしまう。
ほとんどの人が哲学とは誰かの思想をインストールすることだと思ってることが不思議でならない。
岩波読んだか、中公クラシックス読んだか、あの哲学者のこんな考え方が〜みたいな。
私は永井均の本を読んでからこのようなことを脱却した。
結局哲学も自分の中の考えや興味に引き付けて読まなければなんの意味もない。
しかし、これはむしろ世の中的には批判されるだろう。テキストは客観的に読むものだ。書かれた通りに読まなければならない。自分の考えを当て嵌めてはいけない。そんなふうに言われる。
だが、客観的に読むのはそもそも自分の考えに関係させるためである。
自分とは全く何にも関係ないものをただスゴイ哲学者が書いたものだからという理由で読みたがる人間は私からしたら理解不能である。
それが大学の講義ならともかく、自分で本を買って自分で読むのに、他人が考えた自分とは全く関係のないものを読むというのは教養主義の中でも底辺レベルの営みだと思う。
それがただ知識を入れるのが楽しいんです、というならともかく、私はこんなに知っているということに酔いしれるためならとてもつまらないと思う。
まぁ教養主義も教養主義批判も既に何十周とした話だろうからこの辺にしておくが。
自分の関心と引きつけて、物事を取捨選択するということは同時になんでも自分事として捉えないということでもある。
とかく最近は、みんな当事者意識を持たされる。あるいは当事者に積極的になろうとする。子宮移植のはなしでも全女性が当事者ですみたいなことが言われる。んなわけあるかいなと。
なんでもかんでも自分と関係させないことである。
ならなぜみんな関係させられているのかと言えばそれがお金になるからである。
ある出来事がただ起こっただけだと、それは当事者の間で終わってしまい1円にもならないが、それが100万view得ればお金が発生するのである。
もちろんそれに関係させられた人には1円も入らない。
問題を世界中と関係させることによって、あなたと関係させることによってあなたの時間と怒りをお金に変えているのである。
その時間で英単語1つ覚えたほうが自分にとって良いにも関わらず。
後記
だいぶ前記事から時間が空いた。
しかし、春というのは気温も暑くなったり寒くなったり、花粉もあるし一年の中で一番憂鬱な季節である。
