見出し画像

節談説教という法話のスタイル

ようこそ、ようこそです。今週は藏田です。

もう肌寒い日すらありますね。

「浄土真宗の命は、ご法義である。お寺が身体であるとすれば、ご法義の御聴聞は心臓である。血を送るポンプである。」

という言葉を聞いたことがあります。

格好良い言葉だと思うと同時に、御聴聞の無い、ご法義を大切にしないお寺は、血が通ったお寺でない、死んでいるに等しい。という意味まで持つ厳しいお諭しの言葉でもあります。

浄土真宗では特に、法話(お説教、お取り次ぎ)が重視されてきたといえると思います。僧侶が儀礼を行い、故人を良い場所に運ぶという考えは持ちません。僧侶もご門徒も、共に仏さまの教えを聞き、学んでいく立場であるという、道俗一致のスタイルが古来基本です。

法話を通して、救いを味わい、ご信心やその喜びを感受してきました。

その法話は、昭和に入り現代的なスタイルになったそうです。それまでは、高座に座り、節を付けた「節談説教」が基本だったそうです。

節談説教とは。

仏教における人々の情感に訴える布教のながい伝統をふまえ、浄土真宗で成立した独自な布教技法です。一節には、落語、講談、浪曲といった日本の「話芸」の源流となったといわれています。笑いあり、涙あり、そして思わずお念仏が口に出る感動的な説教をぜひ、一度ご聴聞ください。

(浄宗寺さんHPより)

お説教の中から、笑いの部分、歴史的な部分などを取り出して発展したのが、落語、講談、浪曲の芸能なんだそうです。

特に落語の祖とされているのは、安楽庵策伝(あんらくあんさくでん 1554~1642)という浄土宗西山深草派のお坊さんなんだそうです。法話が面白すぎて、笑いの部分だけを抽出されるとは、どれだけの爆笑をかっさらっていたのか気になります。

いつから始まったかは分かりませんが、その節談説教というスタイルが、法話の歴史としてはずっと主流だったようです。物語を演じ、ご法義の核となる部分に節を付けて、合法(がっぽう)で結んでいく。聞く側はその語りの中に自らを投影し、自分の命を包む存在に出遇っていく時間を作ってきました。浄土真宗を開いた親鸞聖人(1173~1262)が尊敬した兄弟子、聖覚法印(1167~1235)も、安居院流(あぐいりゅう)という説教の流派に属し、節談説教で一世を風靡したそうです。

しかし時代が下り、「そんなものは古い」「もっと知的に分かりやすく」という声のもと、衰退していったのが節談説教でもありました。それに伴って、現在の演台を使う講義スタイルが定着しました。

衰退した節談説教という文化を何とか後の世に残そうという活動が今も残っているのです。

その一環の活動、埼玉県で行われた、節談説教布教大会へ、先日御聴聞に行きました。

最終登壇者は、節談の世界で知らない人はいない、廣陵(ひろおか)兼純先生でした。

様々な方のお話を通して改めて思ったのは、御聴聞の肝は、「知的な理解ではない」という点です。

正直、節の内容をすべて聞き取れはしません。

法義の説明の部分も、前後のお話と、完全に合致して聞けるかと言えば、そうでもないと思います。しかしそれはそこまで問題になりません。

「理解できた」という感覚が御聴聞の条件ではないのだということを、改めて学べたように思います。

学校の教育も、人間関係も、「分からないなら、分からない方が悪い」「分かるまでやれ」という感覚が基本だと思います。

分かった気になっては人より上に立った気になり、また逆であれば、劣等感を感じることさえあります。

しかし、我々が分かっていることに、どれほど大切なことがあるでしょうか。変化し移ろいたじろぐ日常には、本当の穏やかさはありません。

得ては失い、失いは得て、それを繰り返す中に、この命を支える言葉はどれ程あるでしょう。

「分かった」と仏さまを理解した時、仏さまはこの頭より小さくなります。

「分からない」とは、思考放棄の言葉ではなく、それほど大きな願いを仰ぐ言葉でもありました。

梯実圓和上が仰ったそうです。

「御法話をどれだけ聞いても分かりません」と仰る方がおられますけどね、私が分かろうが分かるまいが、私のことをちゃんと分かってくださっている阿弥陀さまがいらっしゃると安心させてもろたらええんと違いますかな。

「聴かせてもろてもすぐ忘れます‥。」というてご心配なさる方がいらっしゃるけど、覚えんならんと思うから忘れることが苦になるんでね。私が忘れても、私のことを決して忘れてくださらん阿弥陀さまがおってくださると安心させてもろたらええんとちゃうの。忘れる事を苦にせんと、また聴かせてもらうことを楽しみにしはることですわ。

読んではゆっくり深呼吸をして、自分を顧みたくなる言葉です。

特に、「忘れる事を苦にせんと、また聴かせてもらうことを楽しみにしはることですわ。」という文章に、勇気を貰えますね。

梯和上の声を聴いたことのある人なら、その音声で再生されると思います。(笑)

聞いたことない方は是非YouTubeで聞いてみてください。(梯和上のご法話)

「また聞かせてもらえる喜び」御聴聞はこれに尽きると思います。
自分ですら知らない自分が、知られていたのか。
難しいことはよく分からないけれども、分かることも条件ではなかったか。そうでしたと、頷いていく世界です。

見るものから見られるものへ。
知るものから知られるものへ。
忘れるのはこっちの話。忘れないのは向こうの話。

この目線を頂戴していくことを、救いと言います。

大事な事すら忘れます。
言うべきことほど言えません。
その私に、覚えて来いよ、忘れずに来いよ。ではなく、

そんなお前だからこそ、目当てにせざるを得ないのだ。そんな命だからこそ、南無阿弥陀仏の救いなんだと、仏さまの第一の目当てとして、自分の存在意義を聞いていけるのが、浄土真宗です。

忘れても、忘れぬ弥陀がある故に、忘れながらも、この身このまま。

(妙好人・源左)

南無阿弥陀仏、と、この命にかかる願いを確認していく中に、我が命の、意味と方向が知らされることを、御聴聞というのではないでしょうか。

お互い様に御法身であります。寒暖差ある日が続きそうですがお大事に。

称名

いいなと思ったら応援しよう!