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自分あらば「好き」語り・その24──Apple Watch

気がつけば、もう10年になります──私がApple Watchを手にしてからの話です。

初代からSeries 10まで、途切れることなく使い続けてきました。モデルでいえば、初代、Series 2、6、8、そして10。買い替えのたびに「また新しい時計が出たのか」と思いつつも、気づけば当然のように手首に新しいWatchを巻いています。日々の中で、特別に存在を意識することはあまりありませんが、いざ外すとなんとなく落ち着かない──そんな存在です。


「MacとiPhoneの延長線上」にあるもの

私は仕事でも生活でもMacBookを使い、iPhoneを常に持ち歩いています。

Apple Watchはその延長線上にある、いわば「当然のデバイス」です。Apple製品の世界に長く浸っていると、Watchを持つことは必然のように感じます。

ただ、Watchを単なる「通知を見るための端末」と捉えている人も多いでしょう。私の場合、それよりも「自分の状態を記録してくれる存在」としての側面が強いです。心拍数、歩数、スタンドの回数、睡眠時間。これらの数字が正確かどうかはさておき、「自分の今日」がそこに記録されていくという安心感があります。日記のように読み返すことはしませんが、確かに「この身体は今日も動いていた」という記録が残っていく。その感覚が、Apple Watchを手放せない理由のひとつなのだと思います。

「使いこなさない」という使い方

Apple Watchは多機能です。アプリを入れれば、音楽も聞けるし、メッセージも返せる。セルラーモデルであれば、iPhoneなしでも通話ができます。

ですが、私はあえてWi-Fiモデルを使っています。

常時接続や「単体で完結すること」にはあまり魅力を感じません。私にとってWatchはあくまでiPhoneのコンパニオン、つまり「相棒」です。中心は常にiPhoneであり、Watchはそのまわりを静かに支える存在。だからこそ、過度な機能性を求めないのです。

通知を確認したり、タイマーを使ったり、運動の記録をとったり。その程度のことしかしません。

しかしその「程度のこと」が、日常のリズムを確実に支えています。

ある意味、「使いこなさない」ことでちょうどいい距離を保てているのかもしれません。スマートウォッチに生活を預けすぎず、しかし確実に生活の一部に根ざしている──このバランスが、私にとっては心地よいのです。

Suicaの自由と、手首の小さな解放感

Apple Watchを使っていて、最も便利だと感じるのはSuicaです。iPhoneを取り出さずに改札を抜ける瞬間、手首をかざすだけで済む。その小さな動作が、驚くほどの快適さを生み出しています。

特に混雑した駅で、片手に荷物を持っているとき。以前ならポケットや鞄の中からスマートフォンを取り出して、Face IDを待って、画面を開いて……と、少しだけ手間がかかっていました。それが今では、手首を軽く傾けるだけ。ほんの数秒の差ですが、日々の積み重ねで考えれば大きな違いです。

そうした些細な便利さの中に、「テクノロジーが人の動作を最小限にしてくれる美しさ」を感じます。Apple Watchが好きだと言えるのは、まさにそうした瞬間に触れるからかもしれません。

デザインと色への小さなこだわり

私は、Apple Watchの文字盤はアナログを模したデザインが好きです。デジタルガジェットではあるものの、「時刻を針で読む」という行為にどこか安心感があります。アナログの円の中にデジタルの情報が溶け込んでいる──そのバランスが、Appleらしい美学だと感じています。

色は青系を好んで使っています。単に青が好きというのもありますが、Ingressでは「Resistance」に所属しており、そこでも青が象徴色です。

日々の生活の中に、さりげなく「自分の色」を差し込んでおく。そんな遊び心を、Watchの文字盤で楽しんでいます。

ケースについては、特に飾り立てたりはしません。

私のWatchは基本的にケースなし。色は黒。スーツ姿でも浮かないように、できるだけ主張を抑えています。仕事中もプライベートもこれひとつ。落ち着いた黒なら、どんな場面にも馴染んでくれます。

ただ、ふと「ヴィーガンレザーのバンドがあったらいいのに」と思うことはあります。高級感を求めるというより、「持続可能な素材で、質感のあるもの」が手首にあると気分がいい。そんなささやかな願望です。

とはいえ、3年程度で買い替えることを考えると、あまり贅沢をしても割に合いません。結局のところ、実用性と相性のよさが最優先です。

「外す時間」と「つけっぱなしの安心」

Apple Watchを外すのは、風呂に入るときと充電するときだけです。それ以外の時間は、寝るときもつけています。睡眠トラッキングを完全に信頼しているわけではありませんが、自分の眠りを「見える化」してくれる感覚は悪くありません。

朝、起きてWatchを確認し、「昨日はこれくらい眠れたのか」と知る。そのデータをもとに生活を変えるわけではありませんが、なんとなく自分の状態を客観的に把握できるのは心強いところです。

一方で、風呂に入るときに外すと、少しだけ「解放感」を覚えます。

手首に何もない時間の軽やかさ。

そして、風呂上がりにまた装着した瞬間の「戻ってきた感じ」。

それらがセットで、自分の生活リズムを刻んでいます。

「時計」であることの意味

Apple Watchは、もちろん時計です。

ですが、「時間を知る」という単純な役割を、もう少し深く拡張してくれる存在でもあります。

腕時計というのは、昔から人が「時間を自分のものにする」ための道具でした。ポケットから出す懐中時計を、腕に巻くようになったのも、「いつでも時間を感じたい」という欲求からだと、言えなくはないはずです。

その系譜の先に、Apple Watchがあります。

手首にあるのは、単なる時計ではなく、自分の時間と身体の記録装置。いま何時か、だけでなく、「今日はどんな一日だったか」までを、静かに蓄積していく装置。

そう思うと、これは確かに「現代の時計」なのだと感じます。

「記録されること」への安心感

私は、Apple Watchをモノとして「愛している」というよりも、「一緒にいることで安心する」と言ったほうが正確かもしれません。それはまるで、日々の出来事を黙って聞いてくれる誰かのような存在です。

Watchは私の一挙一動を見て、心拍を取り、歩数を数え、睡眠を測っています。そのことを意識しているわけではありませんが、「記録されている」という感覚は、不思議な安心をもたらします。もし何かあっても、自分のデータがそこに残っている。自分の軌跡が数字として記憶されている。

そう思うと、「今日も生きていた証」がほんの少し確かに感じられます……たぶん。

「好き」という言葉の距離感

Apple Watchを「好き」と言えるかと問われれば、少し考え込んでしまいます。それは「心から惚れ込む対象」というよりも、「生活の一部になった存在」だからです。

好きとか嫌いとかを超えて、すでに日常の中に溶け込んでいる。

なくても生きてはいけますが、あると確実に整う。

それは、朝のコーヒーや通勤時の音楽のようなものなのかもしれません。

Apple Watchを「好き」と表現するのは、もしかすると正確ではないのかもしれません。

けれど、それがないと少し不安になる。そんな存在を、私は他にあまり知りません。

だから、あえて言葉にすれば──やはり「好き」なのです。

おわりに──「静かな共生」

Apple Watchを10年使ってきて思うのは、「テクノロジーと人との距離」は意外と静かなものだということです。

劇的な変化ではなく、じわじわと染み込むように生活の中へ入り込んでくる。気づけば手放せなくなっている。

Apple Watchは、そういう種類の「好き」を教えてくれたデバイスです。

目立たず、主張せず、ただそこにある。
けれど確かに、自分の一日を支えてくれる。

それは、便利さを超えて、信頼に近い感情かもしれません。
10年という年月を経て、ようやくその静かな価値に気づいた気がします。

これからもきっと、風呂に入るとき以外は、手首にこの小さな黒い四角を巻き続けることでしょう。生活の記録とともに、私の時間もまた、静かに積み重なっていくのだと思います。

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