どうなるかは自分次第……?
ふと、「どうなるかは自分次第」という語をGoogleで検索してみると、生成AIによる回答と、アルバムのタイトルに目が留まりました。
きょうは、そこから書いていきます。
「どうなるかは自分次第」で検索してみた
ふと思い立って、「どうなるかは自分次第」という語をGoogleで検索してみたのです。すると、当然ながらいろいろな検索結果が出てきます。
最近のGoogleは、発現条件はよく分からないながらも、Gemini(Googleの生成AI)による回答が出てきて、その下に検索結果が出てきます。
まずはGeminiによる回答です。
「どうなるかは自分次第」とは、未来の結果は他者や運命に委ねるのではなく、自分自身の考え方や行動、決断によって決まる、という主体的な人生観を表す言葉です。物事を良くも悪くも変えられる力は自分にあり、希望を見出すことも、絶望する側も自分次第である、というメッセージが込められています。
この回答に、私はちょっとした違和感を覚えました。いや、一般的にはそうなんだろうけど、私が知りたいのはそういうことじゃないんだ……という感じの違和感です。
次に、検索結果を見てみます。
Su凸ko D凹koi『「一寸先は闇、一寸先は光…どうなるかは自分次第だ。」と言った元カレの後ろに私は計り知れない闇をみた。』というアルバムがあるらしい……なんだこのタイトル。
で、聴いているのですが……元カレかぁ……なんとなく私は、このアルバムに出てきそうな女性とは恋愛関係になったこともなく(妻はぜんぜんキャラクターが違います)、なので、なんというか、ここに出てくる(?)「元カレ」にもちょっと共感できそうにないなと、そんなことを思いました。
ところでなんで「どうなるかは自分次第」という語をGoogleで検索してみたかというと、今週の聖句というか、礼拝で聞いたことからです。
私は、悔い改めに導くために、あなたがたに水で洗礼を授けているが、私の後から来る人は、私より力のある方で、私は、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる。その手には箕がある。そして、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる。」
これは、クリスマスでその降誕を祝われたイエス・キリストが、どういう方かを示している、洗礼者ヨハネの言葉です。
イエス・キリストが、自らを信じる者と信じない者とを区別する、というのはキリスト教の重要な教義です。
わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから 生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死者のうちからよみがえり、天にのぼられました。そして全能の父である神の右に座しておられます。そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます。
「生きている者」になるか「死んでいる者」になるかの選択は、それぞれの選択自体にかかっています。
私はとても、人生のすべてを「自己責任」にする考え方には、賛同できません。でも、一方で、「自分次第」と言うしかないところも、確実にあるとも思っています。
キリスト教では、イエス・キリストを自らの救い主として受け入れる人とそうでない人は違う結末になる、ということを、「残念ながら」はっきりと謳っています。それは「あらかじめ示された選択の結果が、選択した結果、その通りになる」という意味なのですが、ここだけは、自分次第、私は介入できないし、私は私の選択の結果を、あなたはあなたの選択の結果を受け入れるしかない。
「自己責任論」という、よく言えば主体的な人生観、悪く言えば冷酷な人生観への反感もあり、すべては偶然であるという、よく言えば情け深い、悪く言えば主体性のない人生観もあります。
しかし、私はどちらにも振り切ることはできないな、と感じています。「偶然」と呼ぶのかもしれないが、自分の選択ではどうすることもできない摂理があり、一方で、自分の選択に委ねられた責任もある。「どうなるかは僕ら次第」とは限らないけど、「どうしたいかは僕ら次第」という面も、人生にはあると思っています。
それにしても……話は戻りますが、Su凸ko D凹koiのアルバム。聴いてみて正直、苦笑いしか出てきませんでした……おもしろいけど。
今週の予定
仕事
いろいろあります。ちょっと書きづらいことが多くて。
note
本当は記事を蓄積したいところなのですが、なかなか蓄積できていません。
今週のテーマは「どうしたいか・どうなりたいかを問いながら進める」
今週のテーマは「どうしたいか・どうなりたいかを問いながら進める」としました。
人生の結果すべてを「自分次第」と言い切ることには、私はどうしても違和感があります。自分の選択ではどうにもならない出来事や、あとから振り返って初めて意味を持つ偶然が、確かに存在するからです。一方で、ではすべてを運命や環境のせいにできるかというと、それもまた違う気がしています。
結果がどうなるかは分からないとしても、「自分はどうしたいのか」「どうなりたいのか」を問い続けることだけは、誰かに代わってもらうことができません。その問いを持ち続けながら一歩ずつ進むこと自体が、私にとっての主体性なのだと思います。今週は、その問いとともに歩く時間を意識したいと考えています。
